振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

間人の映画館

(写真)日本海と間人の遠景。

2023年(令和5年)10月、京都府京丹後市丹後町間人(たいざ)を訪れました。かつて間人には映画館「間人劇場」がありました。

 

1. 間人を訪れる

1.1 街道筋

標高20-25mの等高線に沿って、一本の街道が間人の集落を貫いており、主要な公共施設や商店はこの街道筋にあります。

(写真)間人の街道筋。古間。

 

 

(写真)間人の街道筋。向地と岡成。

(写真)間人の街道筋。岡成。

(写真)間人の街道筋。岡成。

 

1.2 河岸段丘と坂

間人の集落は日本海を見下ろす河岸段丘上にあります。坂の上から集落を見晴らすと、赤色・黄土色・灰色・黒色など、色彩豊かな屋根瓦が目につきます。焼杉板の民家が多いのは網野町浅茂川などと同じですが、下見板張りが多い印象の浅茂川とは異なり、縦張りが多い印象を受けました。

(写真)三柱神社から見た城島。

(写真)古間。

(写真)間人港大橋。小泊。

(写真)向地。

(写真)岡成。

 

1.3 間人漁港・小間漁港

間人には丹後地域最大の漁港である間人漁港があり、高級ズワイガニの「間人ガニ」などで知られています。ズワイガニ漁の解禁日は11月6日であり、翌年3月20日までカニ漁が行われます。私が間人を訪れたのは10月中旬だったため、京都市内は秋の行楽シーズンでしたが、丹後地域は海水浴シーズンとカニシーズンに挟まれて観光客が少ない時期だそうです。

(写真)間人漁港。

(写真)小間漁港。

 

1.4 旧間人郵便局

向地の街道筋、北都信用金庫間人支店の南東100mには、旧間人郵便局の建物が現存しています。中江卓一郎が郵便局長だった1928年(昭和3年)9月に竣工し、1967年(昭和42年)11月の移転まで郵便局として用いられた建物です。

(写真)向地の旧間人郵便局。

 

昭和初期の丹後地域におけるエポックメイキングな出来事として、1927年(昭和2年)3月7日に発生した丹後大震災があります。隣接する峰山町には、1929年(昭和4年)11月竣工の峰山小学校、同年12月竣工の丹後震災記念館など、鉄筋コンクリート造の震災復興建築がいくつかあります。旧間人郵便局も震災復興期の建物であり、峰山町の2棟よりも早く竣工していますが、様式は木造だと思われます。

(写真)向地の旧間人郵便局。

(写真)1・2枚目は『町政三十五年史』間人町、1954年。3枚目は『丹後町史』丹後町、1976年。

 

2. 間人の映画館

2.1 間人劇場(1926年12月-1965年6月)

所在地 : 京都府竹野郡間人町(1943年・1947年・1949年・1952年)、京都府竹野郡間人町字向地(1953年)、京都府竹野郡間人町(1954年・1955年)、京都府竹野郡丹後町間人(1956年・1957年・1958年・1959年)、京都府竹野郡丹後町(1960年・1961年・1962年・1963年)、京都府竹野郡丹後町間人(1964年)
開館年 : 1900年(庚子館)、1926年11月(間人劇場)
閉館年 : 1965年6月
『全国映画館総覧 1955』によると1927年設立。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1949年・1952年・1953年・1954年・1955年・1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「間人劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は旅館「昭恋館 よ志のや」西50mの空き地。

各年版の映画館名簿によると、丹後町間人には間人劇場がありました。前身は1900年(明治33年)に開館した芝居小屋の庚子館であり、1926年(大正15年)11月に間人劇場に建て替えられました。間人劇場の経営者は東史郎 - Wikipediaであり、東は間人劇場のほかに弥栄映劇(弥栄町)、久美浜館(久美浜町)、日高映画劇場(兵庫県日高町)、香住映劇(兵庫県香住町)、あずま館(兵庫県香住町)、大富座(兵庫県浜坂町)も経営していました。1965年(昭和40年)、間人劇場は『東京オリンピック』を最後に閉館したようです。

(写真)間人劇場が掲載されている『映画便覧 1960』時事通信社、1960年。

 

間人劇場については『町政三十五年史 町村合併廃町記念』(間人町、1954年)と『丹後町史』(丹後町、1976年)に記載されていますが、正確な場所に関する言及はありません。丹後地域公民館の女性に話を聞くと、

間人トンネルの北側出口にはガソリンスタンドがあり、そのわきから旅館のよ志のやに向かって細い道路がある。よ志のやの手前には山側に向かう坂道があり、坂道の上に映画館があったと聞いている。くろねこという看板がある辺りである。50年以上前のことだろう

とのことでした。

(写真)間人劇場跡地の空き地とガレージ。

(写真)間人劇場跡地の表側にあるガソリンスタンドと間人トンネル。

(写真)間人劇場跡地周辺の航空写真。Googleマップ

(写真)間人の航空写真。地図・空中写真閲覧サービス

 

間人の映画館ついて調べたことは「京都府の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(京都府版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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