振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

「第1回ウィキペディアタウンすみだ」に参加する

(写真)すみだ北斎美術館

2022年6月18日(土)、東京都墨田区すみだ北斎美術館で開催された「第1回ウィキペディアタウンすみだ」に参加しました。

sumidasdgs.onamaeweb.jp

 

1. イベント概要

主催はWikipediaTownすみだ実行委員会(仮)、協力としてすみだすみすみほりおこし隊(すみほり隊)、有志のウィキペディアン。すみほり隊とはすみだガバナンスリーダー養成講座が基になった有志の集まりだそうです。会場はすみだ北斎美術館にある講座室であり、ガラス張りの開放的な空間でした。

 

スケジュール

10:00~10:10 主催者挨拶(すみだ北斎美術館

10:10~11:00 まちあるき(江島杉山神社

11:00~12:00 ウィキペディア説明 or ウィキペディア編集(すみだ北斎美術館

12:00~13:00 昼食

13:00~15:00 ウィキペディア編集(すみだ北斎美術館

15:00~15:30 成果発表(すみだ北斎美術館

 

セミクローズドなイベントだったため参加者は図書館界隈の方が多く、墨田区立図書館の方、都内や京都府学校図書館の方、都内の専門図書館の方、図書館活動をしている方、ウィキペディアン、ウィキペディアサークルの方などがいました。私はウィキペディアンとして参加しています。運営スタッフは講師2人を含めて6人、参加者は13人、取材1人、計20人が参加したようです。

(写真)主催者挨拶。


2. まちあるき

まちあるきの目的地は江島杉山神社Googleマップによるとすみだ北斎美術館からの距離は1.3km、徒歩17分の場所です。参加者の年齢層が若かったのでさくさく歩いて到着。神社に関する説明を受けた後、5~10分程度設けられた自由時間に境内を散策しました。2021年(令和3年)11月にはやはり江島杉山神社を対象とするプレイベントが開催されており、プレイベントから連続での参加者が多かったせいか、神社に関する説明や自由時間はだいぶあっさりしていた印象。

(写真)江島杉山神社点字の石碑を見学する参加者。

 

私は事前にWikimedia Commonsにおける江島杉山神社のカテゴリー(Category:Ejima-Sugiyama Shrine - Wikimedia Commons)をチェックし、誰もアップロードしていなかった玉垣の写真や洞窟内の写真を撮りました。江戸時代に活躍した鍼灸師の杉山和一を祀る神社だけあって、国際鍼灸専門学校同窓会、文京鍼研究会、東洋はり医学会、鍼光会、漢方鍼医会など鍼灸に関する組織の名が刻まれた玉垣が多数ありました。

ガイドの方に聞いてみると、江島杉山神社は氏子がいる神社ではなく、千歳地域には別に氏神があるとのこと。東京都神社庁における墨田区の神社の一覧を見ても、墨田区千歳の神社として初音森神社の名前がありますが、江島杉山神社の名前はありません。玉垣に刻まれた組織の分布を地図に起こし、氏神である初音森神社の信仰範囲と比較すれば、江島杉山神社の特徴が可視化できて面白そう。

(左)ガイドの説明を聞く参加者。(右)鍼灸関係の組織の名が刻まれた玉垣

 

3. ウィキペディア説明

講師という立場でウィキペディアに関する説明を行ったのは、ウィキペディア日本語版の管理者でもある利用者:Araisyohei - Wikipedia(あらいしょうへい)さん。ウィキペディアの基本的なルールや、ウィキペディアタウンというイベントの意義について説明を受けました。

(写真)Araisyoheiさんによるウィキペディアの説明。

(写真)Araisyoheiさんによるウィキペディアの説明。

 

Araisyoheiさんから説明を聞いた後、ウィキペディア編集初心者は2グループに分かれて軽いワークショップを行い、出典に基づいたウィキペディアの文章の書き方を教わっています。

(写真)ワークショップ中の参加者。

(左・右)ワークショップ中の参加者。

 

昼食は参加者が各自で。主催者によって作成されたランチマップが配布されたので、すみだ北斎美術館から徒歩5分のイタリア料理店 オステリアデコに行きました。

(写真)オステリアデコ

 

4. 常設展見学・墨田区講座

午後のイベントはやや複雑な構成。講座室の後方では参加者が興味の対象に応じて「江島杉山神社」「すみだ北斎美術館」「すみだトリフォニーホール」「その他」の4グループに分かれ、グループごとにウィキペディア記事の編集を行いました。

講座室の前方では五味和之さん(すみだ北斎美術館学芸員)によるミニ講座「北斎とすみだ」が開催され、すみだ北斎美術館の常設展を見学した後、北斎が生まれ育った墨田区に関する講義を聞きました。

(写真)すみだ北斎美術館の常設展示室。

(左・右)すみだ北斎美術館

 

五味さんによる墨田区の歴史の講義はとても面白かった。午後のメインはウィキペディアの編集でしたが、つい五味さんの話に聞き耳を立ててしまいました。

(写真)五味さんによるミニ講座。

 

5. ウィキペディア編集

今回の参加者は図書館界隈の方が多く、また一般参加者のウィキペディアンも複数いたことで、講師であるAraisyoheiさんは手持無沙汰そうでした。

 

他の方の編集記事

江島杉山神社 - Wikipedia(加筆)

弥勒寺 (墨田区) - Wikipedia(加筆) - 杉山和一の菩提寺

すみだ北斎美術館 - Wikipedia(加筆)

隅田川両岸景色図巻 - Wikipedia(新規作成) - すみだ北斎美術館の所蔵物。

すみだトリフォニーホール - Wikipedia(加筆)

立花大正民家園 旧小山家住宅 - Wikipedia(新規作成)

隅田川 - Wikipedia(加筆)

 

準備された文献には『東京人』や『散歩の達人』や『芸術新潮』などが並んでいましたが、書籍よりも雑誌が多かったのが新鮮。ウィキペディアタウンでは自治体史など厚くて重い文献が並ぶことが多いのですが、"美術館" や "音楽ホール"という今回の題材ならではの、さらに運営側に図書館司書がいるイベントならではの文献準備だと思います。一般的な蔵書検索ではなかなか引っかからない文献ばかりだと思いましたが、どういう検索をするとこれらの文献を発見できるんだろうか。

文献の一覧はGoogleスプレッドシートで参加者に配布されています。これがあるとイベント後に文献情報の統合などを行うのが楽です。

(写真)事前に準備された文献。

(左・右)事前に準備された文献。

(写真)事前に準備された文献の一覧(※一部)。

(写真)ウィキペディア編集中の参加者。

 

私は1980年代まで錦糸町にあった娯楽街「江東楽天地」に興味を持っていたため、自宅である程度完成させた記事を持参してイベント中に投稿しました。題材としてはひとつですが、結果的には5記事を新規作成して2記事を加筆しています。

 

私の編集記事

江東楽天地 - Wikipedia(新規作成)

東京楽天地 - Wikipedia(加筆) - 江東楽天地を運営していた企業。

江東劇場 - Wikipedia(新規作成) - 江東楽天地にあった映画館。

本所映画館 - Wikipedia(新規作成) - 江東楽天地にあった映画館。

キネカ錦糸町 - Wikipedia(加筆) - 楽天地ビルにあった映画館。

吉岡重三郎 - Wikipedia(新規作成) - 東京楽天地社長。

那波光正 - Wikipedia(新規作成) - 東京楽天地社長。

 

「江東楽天地」や「東京楽天地」の軸となる文献は愛知県図書館が所蔵している『東京楽天地80年史』(東京楽天地、2017年)。この文献で記事の骨格を作成し、他の文献で肉付けしていきました。

(写真)『東京楽天地80年史』。

 

もうひとつ重宝した文献が『江東楽天地二十年史』(江東楽天地、1957年)。2018年時点で公表後50年が経過した団体名義の著作物であるため、日本の著作権法では著作権が切れています。このため国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービス資料となっており、自宅のパソコンからも閲覧することができました。とはいえ、大部分は事前に墨田区立緑図書館でコピー済でした。

(写真)1938年の開業時の江東楽天地。『江東楽天地二十年史』。

 

2022年(令和4年)春には朝日新聞のデータベースである聞蔵Ⅱビジュアルがリニューアルされて朝日新聞クロスサーチとなりました。朝日新聞クロスサーチは昭和時代の朝日聞記事も検索/閲覧できるようになったため、1938年(昭和13年)に江東楽天地が開業した際の広告なども発見できました。江東楽天地の歴史の古さを示すための説得力が増す文献だと思います。

(写真)1938年の開業時の江東楽天地の新聞広告。『東京朝日新聞』1937年12月3日夕刊。

 

1953年(昭和28年)5月上旬号から1959年(昭和34年)4月下旬号までの約6年間、映画雑誌『キネマ旬報』には全国各地域の映画館事情を取り上げた連載「新・盛り場風土記」が掲載されました。1954年(昭和29年)8月上旬号では江東楽天地が取り上げられており、当時の娯楽街の匂いを感じることができます。

(写真)「新・盛り場風土記 江東楽天地」『キネマ旬報』1954年8月上旬号。

 

2022年(令和4年)5月には国立国会図書館デジタルコレクションの個人送信サービスが開始されました。江東楽天地は1950年代~60年代にピークを迎えた娯楽街であるため、国立国会図書館デジタルコレクションとは親和性が高い。大宅壮一『僕の日本発見』(中央公論社、1957年)などいくつもの文献を見つけることができました。大宅壮一による評論の一部は江東楽天地の記事に引用しています。

(写真)大宅壮一『僕の日本発見』中央公論社、1957年。国立国会図書館デジタルコレクション。

(写真)『コンサイス東京区分地図帖』日地出版、1960年。国立国会図書館デジタルコレクション。

 

主催者には事前に「江東楽天地について書く」と伝えていました。基本的には自宅で記事を完成させていましたが、「特集小林一三って」が掲載されている『東京人』(1998年5月号)など、自力では入手できなかった文献も準備してくださっていました。ありがたい。

(写真)「特集小林一三って」『東京人』1998年5月号。

 

ウィキペディアンとしてアウトリーチ活動に参加するようになって、ウィキペディアの限界も感じるようになりました。例えばウィキペディアに用いる画像は日本だけでなくアメリカの著作権法の制約も受けるため、日本の著作権法でパブリック・ドメインになっている画像でもウィキペディアに掲載できない場合があるのです。

ウィキペディアにこだわらずに情報を後世に伝えるため、2022年(令和4年)5月には江東楽天地の映画館について個人ブログ「墨田区の映画館(楽天地) - 振り返ればロバがいる」にまとめました。また、個人ブログに取り込みづらい情報も含めて、江東楽天地に関するあらゆる情報は個人サイト「墨田区の映画館 - 消えた映画館の記憶」に貯めこんでいます。

ayc.hatenablog.com

hekikaicinema.memo.wiki

 

江東楽天地は40年前に姿を消した娯楽街ですが、運営スタッフや参加者の中でも年配の方と話せば、確実に想い出を聞くことができる娯楽街です。しかし、図書館からウェブへの情報の移行がうまくいっていない題材でもあり、誰かが伝えていかないと失われてしまう情報だとも思っています。

ウィキペディアの編集にしても、個人ブログの投稿にしても、個人サイトの作成にしても、私は個人での活動が主軸であり、アウトリーチ活動を行う他のウィキペディアンとはやや性格が異なるかもしれません。他者からの評価にとらわれることなく、この先も自分が大事だと思った活動に取り組みたいと思います。

(写真)現在の楽天地ビル。

 

6. 成果発表

ウィキペディアの編集時間は13時から15時までの2時間。自分の編集やミニ講座の参加で忙しかったため、他の方の編集過程は追っていませんが、全員が何かしらの成果を上げたようです。

成果発表に対する講評がほとんどなかったのは気になりました。墨田区ではプレイベントに次いで2回目のウィキペディアタウンであり、3回目も予定されているようです。また、江島杉山神社についてはプレイベントでも編集している記事でもあります。今回の参加者は地域の方ではなく図書館界隈の参加者が軸でした。"楽しさ" や "達成感" を目的にしつつも、異なる目標を設定してもよいのではないかと感じました。

主催者の方々が控えめだったのもやや気になりました。例えば今回のイベントでまちあるき場所となったのは江島杉山神社ですが、なぜこの神社を見学するのか、なぜこの神社をウィキペディアに書くのか。たまたま選んだわけではないのは主催者の方々と話していてわかりましたが、(ウィキペディア講師ではなく)主催者の側からもこの題材を選んだ意図の説明があるとよいと思いました。

(写真)成果発表。

浦安市の映画館

(写真)浦安市郷土博物館

2022年(令和4年)6月、千葉県浦安市を訪れました。2000年(平成12年)以後の浦安市にはシネコン「シネマイクスピアリ」があります。1990年(平成2年)から2006年(平成18年)にはビデオシアター「浦安ポケットシネマ」がありました。映画黄金期の昭和30年代には「浦安映画劇場」「浦安シネマ」がありました。

 

1. 浦安市を訪れる

漁業で栄えていた時代に浦安の中心だったのは、東京メトロ東西線浦安駅の南500mにあるフラワー通り(浦安銀座)です。旧江戸川につながる境川の南側にあります。

(写真)浦安市堀江を流れる境川

(写真)1940年代後半頃の浦安町と23区東部。南東端に浦安町。浦安市郷土博物館

 

1.1 フラワー通り(浦安銀座)

かつて浦安銀座と呼ばれたフラワー通りを歩くと、旧宇田川家住宅(浦安市指定文化財)、旧大塚家住宅(千葉県指定文化財)、旧濱野医院(文化財指定なし)という3棟の建築物が目立ちます。銭湯の末広湯(2021年後半解体)や米の湯(2021年後半解体)、看板建築の光誠堂時計店(2020年以後解体)など近年に取り壊された建築物も多いが仕方ないか。浦安市としてはこの3棟は存続させたいはずですが、旧濱野医院の文化財登録/指定は行わないのかな。

(左・右)旧宇田川家住宅。浦安市指定文化財

(写真)旧大塚家住宅。千葉県指定文化財

(左・右)旧大塚家住宅。千葉県指定文化財

(左・右)旧濱野医院。1929年竣工。浦安初の洋風建築。

(左・右)1931年の「千葉県浦安町商工庶家案内」。「千葉県浦安町鳥瞰」の裏面。旧濱野医院。

 

1.2 浦安市立中央図書館

浦安市は猫実(ねこざね)1丁目を文化ゾーンとして整備しており、浦安公園を中心として浦安市役所、浦安市文化会館、浦安市立中央図書館、浦安市郷土博物館が集まっています。浦安市立中央図書館の開館は1983年(昭和58年)であり、浦安市内に巨大テーマパークが開園したのと同年。浦安市が巨大テーマパークを誘致したわけではないものの、自治体としての未来を模索する際に図書館にも投資したのは優れた判断でした。

浦安市立中央図書館は図書館業界で高く評価されている図書館であり、特に開館当初は貸出冊数を大きな指標とした図書館運営を行っていたようです。1983年度(昭和58年度)の貸出数は約90万冊で11.4冊/人、ピーク時の2010年度(平成22年度)の約235万冊で14.3冊/人。その後は減少傾向にあるものの、現在でも浦安市は全国屈指の貸出密度を誇っています。『図書館の街 浦安 新任館長奮戦記』(未来社、1985年)、『浦安の図書館と共に』(未来社、1989年)、『浦安図書館にできること』(勁草書房、2003年)、 『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会、2004年)など、浦安市立中央図書館を主題とする書籍も複数出版されています。

(写真)浦安市立中央図書館。

(写真)浦安市立中央図書館の開館を伝える「図書館の読み方」『グラフ浦安』第12号、1983年1月。

(写真)浦安市立中央図書館。(左)開架書架。(右)図書館情報学に関する書籍。

(写真)浦安市立中央図書館と同年に開園した巨大テーマパーク。

 

1.3 浦安市郷土博物館

浦安市郷土博物館は屋外展示場「浦安のまち」が興味深い博物館でした。1952年(昭和27年)頃の浦安が再現されており、境川沿いの堀江から移築された建物も多い。文化財指定されている建築物だけでも、浦安の三軒長屋(千葉県指定文化財、旧所在地は堀江3-18-15)、旧本澤家住宅(たばこ屋、浦安市指定文化財、旧所在地は浦安市猫実5-4-8)、旧吉田家住宅(漁師の家、浦安市指定文化財、旧所在地は堀江2丁目)、旧太田家住宅(魚屋、浦安市指定文化財、旧所在地は現在のフラワー通り公園)があります。

(写真)浦安市郷土博物館。旧本澤家住宅(たばこ屋)。

(写真)浦安市郷土博物館。(左)「浦安映画館」のポスターを模した展示。(右)モニターによる浦安の映画館の説明。

 

 

2. 浦安市の映画館

2.1 浦安シネマ(1938年6月-1963年頃)

所在地 : 千葉県東葛飾郡浦安町堀江23(1963年)
開館年 : 1911年12月、1938年6月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1938年6月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「浦安映画劇場」。1955年の映画館名簿では「浦安映劇」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「浦安シネマ」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧濱野医院」西隣の「堀江三丁目自治会集会所」。最寄駅は東京メトロ東西線浦安駅

漁村だった浦安では浪曲浪花節の人気が高かったといい、明治末期の浦安銀座には浦安亭と演技館という2館の寄席小屋が開館します。境橋南詰にあった浦安亭は浦安で初めて活動写真を上映した小屋であり、戦後の1965年(昭和40年)まで存続しています。

1928年(昭和3年)に演技館が焼失した後、1938年(昭和13年)に浦安初の映画館として開館したのが浦安映画劇場です。経営者の山崎清太郎は1955年(昭和30年)に新たな浦安映画劇場を開館させており、それまでの浦安映画劇場は浦安シネマに改称しています。

(写真)『映画年鑑 昭和18年』日本映画協会、1943年。

(写真)1963年の航空写真における浦安の映画館。地図・空中写真閲覧サービス

(写真)浦安シネマ跡地にある集会所。Googleストリートビュー

 

2.2 浦安映画劇場(1955年-1974年3月)

所在地 : 千葉県東葛飾郡浦安町堀江108(1974年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1974年3月
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「浦安映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「浦安映劇」。1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「浦安映画劇場」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「FREA堀江」。最寄駅は東京メトロ東西線浦安駅

1955年(昭和30年)には浦安町2番目の映画館として浦安映画劇場が開館。経営者は浦安シネマと同じく山崎清太郎であり、浦安シネマよりもやや定員の多い映画館でした。

(写真)『映画便覧 1963』時事通信社、1963年。

(写真)1967年頃の浦安映画劇場。『浦安市史 生活編』浦安市、1999年。

 

浦安市立中央図書館が所蔵する『浦安町住宅案内図 1969年度』(浦安町役場、1969年)には浦安映画劇場も描かれています。跡地はスーパーマーケットとなった後、現在は2007年(平成19年)竣工のマンションが建っています。

(地図)左下に浦安映画劇場。中央のパチンコ大宝は浦安シネマ跡地。『浦安町住宅案内図 1969年度』浦安町役場、1969年。浦安市立中央図書館所蔵。

(写真)『浦安町住宅案内図 1969年度』浦安町役場、1969年。浦安市立中央図書館所蔵。

(写真)浦安映画劇場跡地のマンション。

 

2.3 浦安ポケットシネマ(1990年7月2日-2006年3月31日)

所在地 : 千葉県浦安市入船1-4-1(2006年)
開館年 : 1990年7月2日
閉館年 : 2006年3月31日
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1991年・1992年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「浦安ポケットシネマ1・2」(2館)。2007年の映画館名簿には掲載されていない。ビデオシアター。

1990年(平成2年)にはJR京葉線新浦安駅前のショッパーズプラザ新浦安にビデオシアターの浦安ポケットシネマが開館。浦安市施設利用振興公社が運営、東宝が運営を委託された映画館であり、"全国初の公営常設映画館" とされています。日本初のビデオシアターは船橋市のコミュニティシアター船橋(1983年開館)とされ、若い世代の新住民が多い地域の大型商業施設に設置される傾向がありました。

2000年(平成12年)にシネコンのAMCイクスピアリ16が開館してからも営業を続けていましたが、2005年(平成17年)には独占的にビデオシアター用ソフトを製作していたソニー・シネマチックがソフトの生産を終了したため、全国のビデオシアターと同時期に閉館しています。

(写真)浦安ポケットシネマが掲載されている『映画年鑑 2006年版別冊 映画館名簿』時事映画通信社、2005年。

(写真)浦安ポケットシネマが入っていたイオンスタイル新浦安。Googleストリートビュー

 

2.4 シネマイクスピアリ(2000年7月8日-営業中)

所在地 : 千葉県浦安市舞浜1-4-270 イクスピアリ(2020年)
開館年 : 2000年7月8日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2001年・2002年・2005年の映画館名簿では「AMCイクスピアリ16シアター1-16」(16館)。2008年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「シネマイクスピアリ1-16」(16館)。

2000年(平成12年)には日本AMCシアターズによって、東京ディズニーリゾート内の商業施設であるイクスピアリにAMCイクスピアリ16が開館。16スクリーンを有するシネコンであり、2022年(令和4年)現在も営業中です。

1998年(平成10年)開館のAMCなかま16 (福岡県中間市)、1999年(平成11年)開館のAMCホリディ・スクエア18 (愛知県豊橋市)、2000年(平成12年)開館のAMCリバーサイドモール16 (岐阜県本巣市)とともに4サイトのみ展開されたAMCによるシネコン外資シネコンに特有のスクリーン数の多さが特徴です。日本最大のスクリーン数を有するシネコンは18スクリーンのAMCホリディ・スクエア18ですが、AMCイクスピアリ16の総座席数はAMCホリディ・スクエア18を上回る3,504席です。

2005年(平成17年)にはAMCが日本での事業から撤退し、他の3サイトはユナイテッド・シネマに運営譲渡されていますが、イクスピアリオリエンタルランドに運営譲渡されました。

 

AMCによるシネコン

1998年 AMCなかま16 (福岡県中間市

    16スクリーン計2,654席

1999年 AMCホリディ・スクエア18 (愛知県豊橋市

    18スクリーン計3,310席 - スクリーン数日本最多

2000年 AMCリバーサイドモール16 (岐阜県本巣市

    16スクリーン計3,108席

2000年 AMCイクスピアリ16(千葉県浦安市

    16スクリーン計3,504席

(写真)AMCイクスピアリ16が掲載されている『映画年鑑 2006年版別冊 映画館名簿』時事映画通信社、2005年。

(写真)イクスピアリphoto : 掬茶 - Wikimedia Commons

 

浦安市にあった映画館について調べたことは「千葉県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(千葉県版)」にマッピングしています。

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根羽村立図書館を訪れる

(写真)根羽村中心部の街並み。

2022年(令和4年)6月、長野県下伊那郡根羽村を訪れました。「根羽村の映画館」に続きます。

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1. 根羽村を訪れる

根羽村は長野県の最南端部にある人口約850人の自治体。長野県ではありますが(信濃川でも天竜川でも木曽川でもなく)矢作川の流域にあり、根羽村に降った雨は南西方向に流れて三河湾に注ぎます。このため愛知県西三河地方との結びつきが強く、国道153号は根羽村を通って愛知県豊田市に通じています。また、豊田市稲武地区から根羽村に対して路線バスが運行されており、路線バスで県境を越えることが可能です。

(写真)根羽村中心部の街並み。

(写真)根羽村中心部の街並み。

 

矢作川と小川川の合流点にある狭い盆地に町並みが形成されており、中心部の"坂町"以外にも坂の多い町です。豊田市側の入口にあった劇場・映画館の森盛会館の存在は興味深く、愛知県稲武町岐阜県上矢作町などからも集客したといいますが、劇場の痕跡は何も残っておらず、図書館で得られる資料にも乏しいのが残念。都市部だったら跡地に説明看板が立てられる題材かもしれません。

(写真)根羽村中心部の街並み。

(左)タバコ屋ショーケース。(右)ゴハンギョの道標。三州街道など複数が交わる三叉路。

 

高台で目立つ場所にある根羽村歴史民俗資料館は閉鎖されている状態に見えましたが、自治体公式サイト上では開館扱いになっています。実際はどうなのでしょう。バス停に時刻表すら貼られていないコミュニティバスなども含めて、田舎にありがちな情報公開の意識が低い自治体だと感じましたが、人口や職員数を考えれば仕方ないのかもしれません。

(写真)根羽村中心部の街並み。中央は根羽村役場庁舎。

 

2. 根羽村立図書館

2.1 図書館の歴史

1969年(昭和44年)には鉄筋コンクリート造の根羽村役場庁舎が完成しています。2021年度の『長野県公共図書館概況』によると、5年後の1974年(昭和49年)9月には庁舎内に図書館条例とともに根羽村立図書館が設置されたようです。長野県で公共図書館を有している自治体としては最も人口が少ないのが根羽村。人口1000人を切る自治体が約50年も前に図書館条例を定めたという点が教育県らしい。

2018年(平成30年)9月には根羽村役場の新庁舎が開庁し、図書館は役場とともに新庁舎に移転しました。中央入口を入って左手に役場があり、右手に図書館があります。部屋は施錠されていませんが消灯されており、来館者は自分で照明を付けて入るようです。

(写真)根羽村立図書館が入る根羽村役場庁舎。

 

2.2 図書館の特色

『長野県公共図書館概況』によると年間の開館日数は243日と少ないのですが、これは土日祝日を閉館日としているため。一方で開館時間は8時~17時であり、朝の開館時刻は長野県で最速です。公共図書館の貸出期間は一般的に2週間ですが、根羽村立図書館は1週間であるのも特徴です。

根羽村役場庁舎内にある根羽村立図書館の床面積は37m2。長野県内の中央館としてはぶっちぎりで小さく、分館を含めても最も小さい公共図書館です。年間の資料費は12万円と著しく少ないものの、人口1人あたりでは143円となり、長野県の平均の1/2程度です。現在の蔵書数は4,646冊であり、数年前から大幅に減少しているのが気になる。一般的な学校図書館より少ない規模だと思われますが、人口1人あたりでは長野県の平均とちょうど同じ5.5冊となります。年間貸出冊数は580冊であり、1人あたり貸出冊数は0.7冊。長野県の平均を大きく下回る数字ですが、2019年度は0.2冊だったことを考慮すると前進していると言えるか。しかし、根羽村役場に併設されている割には図書館の認知度が低そうです。

『長野県公共図書館概況』を眺めていると、佐久地方にある南相木村立ふれあい図書館が目につきました。南相木村の人口は約900人で根羽村と同程度ですが、2014年(平成26年)に開館した図書館の床面積は429m2と、根羽村立図書館の10倍以上あります。人口1人あたり資料費は2,172円、人口1人あたり蔵書数は44.5冊。人口1人あたり資料費も蔵書数も、長野県の全自治体の中で最も多い数字です。

(写真)根羽村立図書館の館内。

(左)根羽村の資料と新着図書。(右)分類番号がよくわからない一般書。

(左)ニューアーク式のブックカード。(右)絵本コーナー。

 

根羽村公式サイト上には図書館の利用案内すら記載されておらず、正確な休館日や開館時間を知ることができません。悩ましい。

(写真)郷土資料。愛知県西三河地方の自治体もある自治体史。


(左・右)郷土資料。

根羽村の映画館

(写真)月瀬の大スギ付近を流れる矢作川

2022年(令和4年)6月、長野県下伊那郡根羽村を訪れました。かつて根羽村には映画館「森盛会館」がありました。「根羽村立図書館を訪れる」からの続きです。

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1. 根羽村の映画館

1.1 森盛会館(1955年5月29日-1965年)

1911年(明治44年)には八柱神社の旧舞台が下町に譲渡され、十王坂に移築されて芝居小屋の森盛座(しんもりざ)となりました。太平洋戦争中に浅井木材の浅井重治郎が森盛座を取得し、ガス薪の製造工場として使用されます。この森盛座を戦後に建て替えたのが森盛会館のようです。

浅井重治郎は家業の林業に従事しながら、根羽村商工会初代会長、根羽村漁業組合長、根羽村農業協同組合長などを務めています。愛知県刈谷市に本社を置く角文 - Wikipedia株式会社の先代、鈴木孝平の妻の父(義父)でもあり、伊勢湾台風後には根羽から刈谷に木材を供給するなどして角文の発展に寄与したそうです。

1955年(昭和30年)5月29日には映画館の森盛会館(しんもりかいかん)が開館し、29日と30日には落成記念興行が行われました。当初は映画館ではなく芝居小屋としての利用を想定していたことから、花道や桟敷席もある立派な劇場でした。週に1回程度の頻度で映画が上映され、1965年(昭和40年)の『東京オリンピック』の上映を最後に閉館しています。根羽村の住民以外にも、平谷村、愛知県北設楽郡稲武町岐阜県恵那郡上矢作町などから観客が訪れたそうです。山間部で3県から集客した映画館はかなり珍しいのでは。

(写真)森盛会館の外観。取り壊し間際の1995年8月20日。『南信州新聞』1996年7月5日

(写真)森盛会館で使用されていた劇場用映写機。羽島市映画資料館。

 

閉館後の森盛会館は資材倉庫として活用されましたが、老朽化のために1996年(平成8年)に取り壊されました。森盛会館で用いられていた映写機は1947年(昭和22年)ローヤル製であり、森盛会館の竣工よりも早いのが気になる。岐阜県羽島市には羽島市映画資料館がありますが、その開館が森盛会館の取り壊しと同時期だったことから、森盛会館の映写機は羽島市映画資料館に譲渡されて常設展示されています。

デジタルシネマ化が一気に進んだ2012年(平成24年)以降、モノとしての映写機には希少価値が生まれましたが、それ以前に閉館した映画館の映写機は価値を顧みられることなく処分される場合が多かったのでは。森盛会館の映写機が残ったのはたまたまかもしれませんが、このブログから森盛会館自体の歴史も後世に継いで行きたい。

(写真)「日本映画のよき時代支えた さよなら『森盛会館』映写機など公共施設へ 近く取り壊し 根羽」『南信州新聞』1996年7月5日

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各年版の『映画館名簿』における森盛会館の所在地は「根羽村」とだけ。その他の郷土資料でも正確な場所がわかりませんでした。福嶋麺類食堂で根羽村の映画館について聞いてみると、「国道を西に下り、正面に公民館がある大きな家の場所にあった。映画館の所有者だった方の自宅が建っている。名前は『新しい盛り』で『シンモリカイカン』だった」(※正確には "新盛" ではなく "森盛")とのこと。事前調査で目を付けていた場所でした。

(写真)根羽村の街並み。もっとも豊田市側に位置する下町。

(写真)下町。左が森盛会館跡地。

(左)『南信州新聞』の写真と同角度で撮った森盛会館跡地。(右)根羽橋の親柱。



(写真)1989年の航空写真における森盛会館跡地。『根羽村誌 下巻』根羽村、1993年。

(写真)福嶋麺類食堂。看板メニューの「鍋焼うどん しょうゆ天ぷら」。

 

浅井 重治郎(あさい しげじろう、1895年6月21日 – 1976年8月4日)は、長野県下伊那郡根羽村中野出身の林業家。

尋常小学校高等科を卒業後、1911年(明治44年)には1年間だけ代用教員を務めたが、その他は60年以上に渡って家業の林業に従事した。1953年(昭和28年)に完成した根羽村立根羽中学校を施工したのも浅井である。昭和30年代以降には林業以外の事業にも取り組み、根羽米穀組合、根羽合同ハイヤー、根羽木材工業、根羽給油所などを設立して社長を務めた。娘婿は角文社長の鈴木孝平。

 

役職
根羽村産業組合専務理事(1932年-1935年)
根羽村木材組合長(1941年-1949年)
根羽学校父兄会会長(初代、1946年-1952年)
飯伊林業協同組合副組合長(1950年-1953年)
根羽村商工会会長(初代、1950年-1967年)
根羽村漁業組合長(1955年-????年)
根羽村林友会会長(初代、1957年-1970年)
根羽村農業協同組合長(1958年-1967年)

 

受賞
農林大臣賞 – 薪炭増産(1946年)
長野県社会福祉協議会会長賞(1957年)
長野県商工連合会長賞(1965年)
長野県林業改良普及協会長賞(1965年)
下伊那林産協同組合賞(1966年)
全国商工連合会長賞(1967年)
長野県警察本部長賞(1968年)
長野県知事賞 - 商工業総合改善発展(1970年)
長野県知事賞 – 林業改良普及事業(1970年)
下伊那商工連合会賞(1970年)
農林大臣賞 – 林業経営(1971年)
根羽村長賞 – 地域産業振興(1972年)
黄綬褒章(1975年)

 

根羽村にあった映画館について調べたことは「長野県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(長野県版)」にマッピングしています。

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