振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

九鬼町の映画館

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(写真)トンガ坂文庫。ねこ「まだ」。

2020年(令和2年)1月、三重県の東紀州地域にある尾鷲市九鬼町(くきちょう)を訪れました。かつて九鬼町には映画館「日之出東映劇場」と「磐館」がありました。

 

1. 九鬼町を歩く

1.1 九鬼町の街並み

尾鷲市九鬼町は尾鷲市街地と熊野市街地の間にある漁師町であり、戦国時代に九鬼水軍 - Wikipediaが根拠地としたことで知られています。九鬼町の約10km沖合は全国有数のブリの漁場として知られ、明治中期以降には大型定置網によるブリ漁が盛んに。年間約20万匹を水揚げした昭和初期がブリ漁のピークであり、人口のピークは戦後の昭和30年代。

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(写真)九鬼市街地の遠景。

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(地図)三重県における尾鷲市九鬼町の位置。 

 

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(写真)九鬼町のねこ。

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(写真)九鬼町の路地。

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(写真)九鬼小学校付近から見た九鬼市街地。

 

集落の入口にある尾鷲市立九鬼中学校は2009年(平成21年)3月に閉校、集落の奥にある尾鷲市立九鬼小学校は2010年(平成22年)3月に閉校。現在の九鬼町には学校がなく、直線距離で約8km離れた賀田町の学校までスクールバスで通っているようです。

九鬼中学校テニス部は三重県屈指の強豪だったそうで、1983年(昭和58年)に全国中学校ソフトテニス大会で優勝、全校生徒がわずか20数人になってからも東海大会に出場していたというから驚き。

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(左)尾鷲市立九鬼小学校。2010年3月閉校。(右)尾鷲市立九鬼中学校。2009年3月閉校。 

 

1.2 トンガ坂文庫

九鬼町の映画館について調べる中で、やはりトンガ坂文庫が気になりました。2018年(平成30年)8月に開店したトンガ坂文庫を運営するのは、長野県出身の木沢結香さん地域おこし協力隊出身(任期終了後に定住)で東京都出身の豊田宙也さんという2人の若い移住者。入り組んだ路地の先にいきなり現れる都会風の古書店の空間には気持ちが高揚します。窓際の書架の上には置物のように三毛猫の「まだ」が座っていましたが、とらねこの「ない」が勤務している日もあるようです。

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(写真)トンガ坂文庫の店内。

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(左)看板。(左)ねこ「まだ」。(右)新刊。

 

2015年(平成27年)5月に開店した食堂・喫茶店網干場」(あばば)は、地域おこし協力隊時代の豊田宙也さんが中心となって開店させた九鬼町唯一の飲食店。学校が相次いで閉校した2000年代末とはうってかわって、2010年代後半のトンガ坂文庫と網干場は集落に活気をもたらす動きに思えます。Uターン者による日本唯一の肉球雑貨専門店「ホワイト&ピーチ」なる店もあり、人口約400人という数字以上の存在感がある集落です。

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 (写真)網干場。

 

 

2. 映画館に関する調査

2.1 文献調査

『映画年鑑別冊 映画便覧』(時事通信社、1953年から2020年までの各年版)や『全国映画館名簿』(全国映画館新聞社、1960年)によると、九鬼町には「日之出東映劇場」と「磐館」という2館の映画館があったようです。これらの映画館について、三重県立図書館の郷土資料、三重県立図書館の住宅地図やその他の地図、尾鷲市立図書館の郷土資料、中日新聞データベースなどで調査を行いましたが、2種類の映画館名簿以外にはどのような言及も発見できていません。

映画館名簿における2館の所在地はいずれも「尾鷲市九鬼町」であり、小字や番地などは掲載されていません。『映画年鑑別冊 映画便覧』の各年版を確認すると、「日之出東映劇場」は1968年(昭和43年)まで、「磐館」は1964年(昭和39年)まで掲載されており、最後に掲載されている年に閉館したと思われます。

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(左・中)1964年版『映画年鑑別冊 映画便覧』時事通信社。(右)1960年版『全国映画館名簿』全国映画館新聞社。

2.2 聞き取り調査

九鬼町には和菓子屋の錦花堂があり、こしあんをカステラ生地で巻いた「九鬼水軍 虎の巻」は尾鷲の名物とされているようです。1977年(昭和52年)には全国菓子大博覧会で名誉大賞を受賞し、2013年(平成25年)には尾鷲市を訪れた皇太子に茶菓子として献上しています。中日新聞朝日新聞の記事データベースで錦花堂を検索すると、歌手の鳥羽一郎が楽屋で配ったり、遠洋漁業の乗組員が航海出発前に買い込んだりするというエピソードも出てきました。

錦花堂で九鬼町にあった映画館について聞いてみると、「日之出東映劇場」の跡地を知っているとのことで、跡地の西隣に住んでいる田崎さんの家まで軽トラで連れて行ってくださいました。玄関先で少し話を聞ければと思ったのですが、結局は田崎さんの家に上がらせてもらい、30分以上も話をお聞きしました。

田崎さんは九鬼村に生まれ、1951年(昭和26年)頃に中学校を卒業した後、1954年(昭和29年)に田崎家に嫁ぎ、1955年(昭和30年)には尾鷲市街地に転居しています。それぞれの映画館が閉館した1960年代には九鬼町ではなく尾鷲市街地に暮らしており、1972年(昭和47年)に義父のこともあって九鬼町に戻ったとのことです。

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(写真)和菓子屋 錦花堂。

 

 

3. 九鬼町の映画館

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(写真)九鬼町にあった映画館の位置。地理院地図

 

3.1 磐館(1954年-1960年代中頃)

所在地 : 三重県尾鷲市九鬼町(1964年)
開館年 : 1954年5月
閉館年 : 1964年以後1966年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1954年5月開館。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「磐館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「九鬼郵便局」。最寄駅はJR紀勢本線九鬼駅。

国立国会デジタルコレクションで図書館送信資料(参加館公開)となっている1960年の『全国映画館名簿』(全国映画館新聞社、1960年)によると、「磐館」の経営者は尾崎美天、支配人は尾崎東吾、定員260、各社を上映、電話は九鬼9番。

「磐館」の名前を最後に確認できる1964年の『映画年鑑別冊 映画便覧』(時事通信社)によると、経営者は中村国助、支配人は須田真一郎、木造2階建暖房付、定員350、邦画・洋画を上映。1960年から1964年の間に経営陣が交代しているのが気になります。磐館の読みは「いわかん」だと思っていましたが、田崎さんの話によると「いわ」ではなく「いし」のようです。

 

田崎さんの話「現在の九鬼郵便局の場所にも映画館があった。屋号は『おいしや』。1950年(昭和25年)くらいに開館したと思われる。中学校に通っていた1951年(昭和26年)頃にはジェームズ・ディーン主演の『エデンの東』が上映され、先生に見つからないようにして何度も観に行ったものである。この映画館の隣には九鬼郵便局があり、郵便局長の住居と郵便局を兼ねた建物だった

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(写真)磐館跡地にある九鬼郵便局。

 

3.2 日之出東映劇場(1958年頃-1968年頃)

所在地 : 三重県尾鷲市九鬼町(1966年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「日の出座」。1966年・1968年の映画館名簿では「九鬼日之出東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「九鬼郵便局」の南東120mにある民家。最寄駅はJR紀勢本線九鬼駅。

国立国会デジタルコレクションで図書館送信資料(参加館公開)となっている1960年の『全国映画館名簿』(全国映画館新聞社、1960年)によると、「日之出館」の経営者は尾崎秋之助、支配人は尾崎鉄也、定員407、邦画・洋画を上映、電話は九鬼33番。

この映画館の名前を最後に確認できる1968年の『映画年鑑別冊 映画便覧』(時事通信社)によると、「九鬼日之出東映劇場」経営者は尾崎荘右衛門、支配人は記載なし、木造平屋建、定員200。田崎さんの話に登場する九鬼村議会議員が尾崎秋之助氏か尾崎荘右衛門氏かははっきりしませんが、話に登場する"てっちゃん"は尾崎鉄也氏のことのようです。

 

田崎さんの話「田崎家の隣にあった映画館は日之出座と呼ばれ、戦前からあった芝居小屋だった。経営者は九鬼村議会議員であり、運営は次男の"てっちゃん"が担っていた。秋屋(あきや)という屋号だった。興行前には拍子木を打って回っていた。固定座席はなく、観客は座布団を抱えて日之出座に入った。1階だけではなく中2階にも座席があった。映画の上映以外に、踊りや歌の発表会も行われた。戦後しばらくするまで、九鬼町にはバスも汽車も通じておらず、尾鷲市街地の映画館を訪れるのは容易ではなかった。日之出座は数少ない娯楽施設としてにぎわった

1972年(昭和47年)に九鬼町に戻ってきたときにはもう映画館は営業しておらず、建物を間借りして八百屋が営業していた。建物は1987年(昭和62年)に取り壊され、跡地にアパートが建った。田崎家と日之出座の建物の間の隙間は半間しかなかったため、取り壊されたことで光が入るようになって明るくなった

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(写真)左が日之出東映劇場跡地にある建物。中央が田崎さんの家。

 

田崎さんの話を聞いてから三重県立図書館で改めて住宅地図を確認すると、1970年(昭和45年)の地図に閉館後と思われる「日の出座」が載っていました。1978年(昭和53年)の住宅地図では九鬼スーパーに代わっており、田崎さんの話にある"八百屋"のことだと思われます。

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(地図)1970年の九鬼市街地のゼンリン住宅地図。中央右に日の出座。

 

尾鷲市九鬼町にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(中部版)」にマッピングしています。

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熊野市の映画館

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(写真)熊野東映劇場の建物を転用した商店。

2020年(令和2年)1月、三重県南部の東紀州地域にある熊野市を訪れました。かつて熊野市街地には「熊野東映劇場」(明治座)、「新明治座」、「丸山映画劇場」の3館の映画館があり、「熊野東映劇場」の建物は現存しています。現在の東紀州地域に映画館は存在せず、最寄りの映画館は和歌山県新宮市の複合映画館「ジストシネマ南紀」です。

 

1. 熊野市を歩く

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(地図)三重県における熊野市の位置。©OpenStreetMap contributors

 

1.1 記念通り

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(写真)JR紀勢本線熊野市駅

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(写真)記念通り。  

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(写真)記念通りの和菓子屋 志ら玉屋。

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(写真)紀南ツアーデザインセンター。旧奥川吉三郎家。

 

1.2 本町通り

三重県|景観:松本峠~木本古道通り~花の窟歴史散策

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(写真)本町通り。

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(写真)本町通りにある熊野古道おもてなし館。旧栃尾邸。登録有形文化財

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(左)左は脇本家。(中)丸田商店。旧木本町役場。(右)西衣料品店。旧紀新銀行・旧大同銀行。

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(左)みはま湯。営業中。(右)ときわ湯。廃業。

 

2 熊野市立図書館

2.1 図書館の歴史

JR熊野市駅のすぐ西、2009年(平成21年)に開館した熊野市文化交流センター内に熊野市立図書館 - Wikipediaがあります。旧館は1972年(昭和47年)竣工の熊野文化会館内にあったようで、図書館が単独館だった時代はないみたい。旧館の床面積は108m、『日本の図書館 統計と名簿』(日本図書館協会)における2009年の蔵書数は4万7000冊(うち開架4万4000冊)とのことで、名称や条例上は図書館ですが公民館図書室と同等だったようです。同年時点の熊野市の人口は2万人弱であり、住民1人あたり蔵書数が約2冊というのは全国的に見ても少ない。

開館から10年が経過し、2019年の蔵書数は17万4000冊(うち開架6万9000冊)となりました。同年の図書費は1000万円であり、同規模自治体よりも多い図書費を維持しているからこその伸びですが、10年間で蔵書数が3.7倍というのはすごい。開館時の新聞記事には収容可能冊数が18万冊(開架9万冊、閉架9万冊)とあり、もう書庫にはあまりゆとりがないのかもしれません。郷土資料コーナーには戦前の文献も多数ありました。

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(写真)熊野市立図書館が入る熊野市文化交流センター。

 

2.2 館内の写真撮影

図書館の男性職員(50代?)に「図書館内の書架や展示を撮影することは可能か」と聞くと「ダメ」とのことで、「利用者が写り込むといけないからダメ」という理由でした。「利用者が写り込まないように撮影してもダメか」と聞くと、「著作権の関係もあるのでダメ」とのことでした。"~の関係"という表現が気持ち悪いと思ったので「著作権には十分に配慮し、書籍の表紙が写らないように撮ってもダメか」と聞くと「ダメ」、「館内での写真撮影を禁じているのは(あなたの個人的な見解ではなく)熊野市立図書館としての方針か」と聞くと、「そうです」とのことでした。

職員とのやり取りを総合的に判断すると、写真撮影に関する図書館としての方針は存在しないと思われます。次に訪れる際は別の職員に聞いてみようと思いました。

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(写真)熊野市立図書館の入口。※図書館側の意向を尊重するために一部をぼかしています

 

 

3. 熊野市の映画館

かつて熊野市街地には「熊野東映劇場」(1899年-1972年)、「新明治座」(戦前-1970年)、「丸山映画劇場」(1956年-1966年)の3館の映画館があました。「熊野東映劇場」の建物は現存し、商店などに転用されています。熊野東映劇場の閉館後には東紀州地方の映画館が尾鷲市の「尾鷲ロマン座」(1955年-1986年)のみとなり、最寄りの映画館は和歌山県新宮市の各映画館となりました。

紀南ツアーデザインセンターで熊野東映劇場について聞いてみると「和菓子屋の志ら玉は古くから営業しているので、主人が映画館について知っているかも。熊野市駅前の西書店の主人は観光ガイドをしているので何か聞けるかも」とのことでした。

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(地図)熊野市にあった映画館の位置。地理院地図
 

3.1 丸山映画劇場(1956年-1966年)

所在地 : 三重県熊野市木本町丸山(1966年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1966年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「丸山映画劇場」。1966年の映画館名簿では「熊野丸山映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「あい眼科リハビリクリニック」。

明治座跡地の裏手でねこの散歩をしていた女性(60代?)に話を伺うと、「熊野市街地には3館の映画館があった。丸山映画劇場はJR熊野市駅前のあい眼科の場所にあったと思う。丸山映画劇場には浪花節の演者などが訪れた」とのこと。

 

『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 熊野』(郷土出版社、1980年)によると、「紀南映画劇場」(後の新明治座)を経営していた人物が紀南映画劇場を伊東為次郎に渡した後に開館させたのが「丸山映画劇場」です。

『ローカル映画館史』(三重県興行環境衛生同業組合、1989年)によると、丸山映画劇場もすぐに新明治座との競争に敗れ、やはり伊東為次郎の経営に。各年版の映画館名簿によると、伊東為次郎は熊野市街地の映画館以外にも、熊野市新鹿町の新鹿劇場、南牟婁郡御浜町の阿田和劇場などを経営していました。1966年(昭和41年)の閉館後にもしばらくは建物が残っていたようで、1970年代の航空写真にも映画館らしき建物が見えます。

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(写真)丸山映画劇場跡地のあいクリニック。奥は熊野市役所。

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(地図)1970年代の航空写真における丸山映画劇場の建物。地理院地図

 

3.2 新明治座(戦前-1970年)

所在地 : 三重県熊野市木本町栄町(1969年)
開館年 : 1941年以前
閉館年 : 1970年2月1日
『全国映画館総覧1955』によると1945年8月開館。1950年の映画館名簿では「朝日館」。1953年・1955年の映画館名簿では「紀南映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新明治座」。1966年・1969年の映画館名簿では「熊野明治座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヤマト酒店」の2軒北と建物と駐車場。

ねこの散歩をしていた女性(60代?)によると「しんめい(※新明治座)はこの敷地にあり、洋画を上映していた。映画館を取り壊して現在の建物が建っている」とのこと。

和菓子屋の志ら玉屋の女性(80代?)は「明治座は志ら玉の西から路地を北に入った先にあった」とのことで、この映画館を(新明治座ではなく)「明治座」と呼んでいました。

 

『ローカル映画館史』によると、戦前には熊野市唯一の常設映画館として「朝日館」があり、戦後には「昭和館」「紀南映画劇場」と改称。「明治座」の経営者である伊藤為次郎の手に渡った際に「新明治座」に改称し、1970年(昭和45年)2月1日に閉館しています。映画館のホールだった部分は駐車場になっていますが、現在も残る不思議な形状の建物は映画館の舞台部分だった可能性があります。

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(写真)新明治座跡地の駐車場と奇妙な形状の建物。

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(左)新明治座跡地に残る奇妙な形状の建物。(右)新明治座が面していた道路。

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(写真)1970年代の航空写真における熊野東映劇場と新明治座の建物。地理院地図

 

3.3 熊野東映劇場(明治座、1899年-1972年)

所在地 : 三重県熊野市木本町記念通(1969年)
開館年 : 1899年2月17日
閉館年 : 1972年9月
『全国映画館総覧1955』によると1899年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「明治座」。1950年の映画館名簿では「木本明治座」。1953年・1955年の映画館名簿では「明治座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「熊野東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「熊野東映劇場」。跡地に建物が現存して「いこらい広場」(熊野市記念通商店街振興組合事務所)などに転用されている。

和菓子屋の志ら玉屋の女性(80代?)によると「志ら玉の向かいの大きな建物は映画館だった。映画館の建物を手直しして使っているようだ」とのこと。

ねこの散歩をしていた(60代?)によると「東映は記念通り沿いの商店などがある場所にあった。熊野市では一番大きな映画館であり、芸能人が来ることもあった」とのこと。

熊野古道おもてなし館の女性(60代?)によると「洋服の製縫場になっている建物には映画館の面影が残っており、映画館だった建物をそのまま使っているのではないか。この建物には2階があったという話を夫から聞いた事がある」とのこと。

 

『ローカル映画館史』によると、1899年(明治32年)2月17日に紀南地域唯一の劇場である「明治座」が開館。1924年大正13年)からは伊東為次郎が経営し、1926年(大正15年)にはデマが元で朝鮮人労働者が斬られて死去する木本事件が起こっています。1955年(昭和30年)には熊野市の市制施行記念式の会場にもなりました。

戦後には映画の上映が主力に。1957年(昭和32年)には「熊野東映」に改称し、昭和30年代の映画黄金期には紀南地域随一の映画館とされています。1972年(昭和47年)9月に閉館しましたが、跡地に映画館時代の建物が残っています。『目で見る新宮・熊野の100年』(郷土出版社、1994年)には「明治座跡地にはアパートが建っている」とのことであり、2階部分が集合住宅に転用されていたのだと思われます。

建物の竣工時期は判然としませんが、1950年(昭和25年)と推測されます。

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(写真)熊野東映劇場の建物。

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(左)熊野東映劇場の建物。(右)建物の内部。飲食店街の廃墟。

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(左)建物の一部にあるいこらい広場。(右)建物の裏側。

 

熊野市にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(中部版)」にマッピングしています。

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大垣市の映画館

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(写真)JR大垣駅

2020年(令和2年)11月、岐阜県大垣市を訪れました。

映画黄金期の大垣市街地には9館の映画館があり、昭和末期には「大垣東宝会館」と「大垣東映会館」の2施設5スクリーンとなりました。2000年(平成12年)には大垣市から映画館がなくなりますが、2005年(平成17年)には10スクリーンのシネコン「大垣コロナシネマワールド」が開館しています。

 

1. 大垣市を歩く

1.1 OKBストリート郭町商店街

2007年(平成19年)JRに大垣駅北側に開店したアクアウォーク大垣(アピタ大垣店)などの影響で、大垣駅南側の中心市街地の商店街が衰退著しい大垣市。戦後に建設された商店兼住宅の鉄筋コンクリート造商店街は、大垣市中心市街地活性化基本計画に「地方都市としては規模も大きく近代的な建築が全国の商業関係者の注目を集めた」と書かれています。レトロな街並みが好きな方を吸い寄せているようで、「お城街」と呼ばれる路地には撮影禁止の貼り紙がありましたが、これらの街並みはいつまで残るのだろうか。

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(写真)戦後に建設された鉄筋コンクリート造建築が並ぶOKBストリート郭町商店街。

 

OKBストリート郭町商店街の南側、大垣のへそと言える郭町交差点の南東角には大垣共立銀行 - Wikipedia(OKB)本店があります。1973年(昭和48年)の竣工から50年近く建っていますが、青空に映える白い建物は古さを感じません。ライバルの十六銀行を超えるという意味がある17階建てで、60mという高さは岐阜県一だったそう。

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(写真)大垣共立銀行本店。

 

2 大垣市立図書館

2.1 映画館に関する文献

大垣市の映画館に関して、『大垣市史』など書籍ではこれといった言及がなく、『写真アルバム 大垣市の昭和』などに個別館の断片的な情報が掲載されているのみです。『中日新聞』や『岐阜新聞』などの新聞記事には個別館の開館や閉館に関する記事が掲載されていることもありますが、『岐阜新聞』のデータベースはやや使いづらい上に、『中日新聞』と比べた際の優位性はあまり感じられません。集めた情報は「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめてあります。

1977年(昭和52年)から2011年(平成23年)まで、西濃地域では内容の濃いタウン誌『西美濃わが街』(有限会社西美濃わが街)が発行されており、1987年の124号には江巣奨による記事「大垣映画館ものがたり」が掲載されています。大垣市立図書館では準備室(閉架)が『西美濃わが街』の所蔵場所となっており、開架にあると便利なのですが。

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(写真)大垣市立図書館。

 

大垣市立図書館には「大垣にあった映画館」という新聞スクラップブックがあり、3階の郷土資料室カウンター脇に別置されています。2016年(平成28年)に寄せられた「昭和30年から40年代にかけて大垣市内にあった映画館の数や場所が知りたい」というレファレンスの際に作成したと思われますが、作成した男性職員はまだ若い方でした。1950年代・1960年代の新聞記事のコピー、映画黄金期の映画館名簿のコピー、1950年代末の住宅地図のコピーなどが集められた価値のあるファイルです。

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(写真)「大垣にあった映画館」。(中)文献一覧。(右)新聞記事。

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(地図)映画黄金期の郭町・竹島町周辺の住宅地図。『大垣市住宅明細地図』(日新出版部、1958年)。

 

 

3. 大垣市の映画館

大垣市の映画館街は郭町や竹島町に形成されており、大垣市街地の9館中7館はこのエリアにありました。大垣共立銀行本店の裏手のエリアです。「大垣東宝会館」は郭町交差点と大垣駅の中間付近の栗屋町に、「主婦の店会館」は大垣駅北側の林町にありました。その他の大垣市域では赤坂町に「赤坂劇場」があり、平成の大合併大垣市になった地域では墨俣町に「盛栄座」がありました。

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(地図)大垣市の映画館。Google My Maps

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(地図)大垣市郭町・竹島町の映画館。Google My Maps

 

3.1 日本劇場(1946年-1960年代中頃)

所在地 : 岐阜県大垣市郭町3-82(1964年)
開館年 : 1946年3月21日
閉館年 : 1964年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1946年2月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日本劇場」。1964年の映画館名簿では「大垣大映」。1960年-1965年のゼンリン住宅地図では「パチンコ金生」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年のゼンリン住宅地図では「日劇」。1977年のゼンリン住宅地図では跡地に「駐車場」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。1986年・1991年のゼンリン住宅地図では跡地に「月極駐車場」。跡地は「セブンイレブン大垣郭町3丁目店」建物部分。

1946年(昭和21年)に開館したのが日本劇場であり、開館を報じる新聞記事には「2000人を収容できる」とありますが、いささか "盛っている" 数字に思われます。「日本劇場」の跡地はパチンコ店を経て駐車場になり、2016年(平成28年)にはセブンイレブンが開店しました。セブンイレブンの建物部分に「日本劇場」があり、駐車場部分には「大垣松竹」がありました。

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(写真)日本劇場跡地のセブンイレブン大垣郭町3丁目店。奥は大垣共立銀行本店。

 

3.2 主婦の店会館(1958年-1960年代後半)

所在地 : 岐阜県大垣市林町2-111(1966年)
開館年 : 1958年6月1日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「主婦の店会館」。1965年の映画館名簿では「ニュース劇場」。1966年の映画館名簿では「大垣主婦会館」。1969年のゼンリン住宅地図では「主婦の店」。大垣駅北側にあった唯一の映画館。跡地は「コメダ珈琲店大垣林町店」駐車場。

近代的スーパーマーケットである主婦の店大垣店に付随する施設として、1958年(昭和33年)に大垣市連合婦人会員らの出資によって開館したのが「主婦の店会館」です。営利より社会事業面に重点を置いた全国でも珍しい映画館とされ、開館記念式典には武藤嘉門岐阜県知事も出席しています。

1970年代後半から1980年代前半の跡地は食品会社の倉庫となり、1980年代後半から1990年代はパチンコ店となりました。2005年(平成17年)には跡地の東側にコメダ珈琲店が開店し、跡地はその駐車場となりました。

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(写真)主婦の店会館跡地のコメダ珈琲店大垣林町店駐車場。

 

3.3 大垣日活(1956年-1973年)

所在地 : 岐阜県大垣市郭町3-207(1973年)
開館年 : 1956年3月6日
閉館年 : 1973年前半
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「大垣シャトル」。1960年の映画館名簿では「大垣シヤトル」。1963年の映画館名簿では「大垣日活」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「大垣日活劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大垣共立銀行本店」から岐阜県道57号を挟んで西にあるパン屋「ヒシヤの店リボリ」。

1956年(昭和31年)に「大垣シヤトル」として開館。劇場を意味するtheaterが館名の由来かとも思いましたが、大垣市の伝統産業として繊維産業があることから、織機に使用する杼を意味するshuttleが由来かもしれません。1973年(昭和48年)の閉館後、1980年代にはパン屋のヒシヤの店リボリ(ヒシヤパン)となりました。

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(左)大垣日活跡地のヒシヤの店リボリ。(右)大垣日活跡地とその周辺。右はキックス中央ビル。

 

3.4 初代大垣松竹(1946年-1976年)

所在地 : 岐阜県大垣市郭町3-84(1973年)
開館年 : 1946年3月、1954年6月25日(ビル化)
閉館年 : 1976年11月23日
『全国映画館総覧1955』によると1946年3月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「スイト会館」。1958年の映画館名簿では「大垣スイト会館」。1960年の映画館名簿では「スイト会館」。1963年の映画館名簿では「大垣松竹」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「大垣松竹映画劇場」。1976年11月、休館中のロマン座の建物に移転。跡地は「セブンイレブン大垣郭町3丁目店」の駐車場部分。

1946年(昭和21年)には木造の「スイト会館」が開館。1954年(昭和29年)には西濃地域初の鉄筋4階建てに建て替え、「大垣松竹」として松竹系作品を上映しました。1980年代以降は駐車場として使われ、2016年(平成28年)にはセブンイレブンが開店しました。セブンイレブンの建物部分に「日本劇場」があり、駐車場部分には「大垣松竹」がありました。

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(写真)日本劇場跡地のセブンイレブン大垣郭町3丁目店。奥は大垣共立銀行本店。

 

3.5 大垣テアトル国際(1948年-1980年代前半)

所在地 : 岐阜県大垣市竹島町43(1980年)
開館年 : 1948年12月
閉館年 : 1982年以後1984年以前
『全国映画館総覧1955』によると1948年12月開館。1958年の映画館名簿では「大垣国際劇場」。1960年の映画館名簿では「大垣国際日活劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「大垣国際劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1982年の映画館名簿では「大垣テアトル国際」。1984年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は雑貨店「バルーンアート&ギフト アリサ」。

1948年(昭和23年)には洋画上映館として「国際劇場」が開館。やがて「大垣テアトル国際」となり、1980年代前半に閉館しています。

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(左)大垣テアトル国際跡地のバルーンアート&ギフト アリサ。(右)大垣テアトル国際跡地とロマン座/大垣松竹跡地の駐車場。中央奥は大垣共立銀行本店。

 

3.6 竹島劇場(1959年-1985年)

所在地 : 岐阜県大垣市竹島町38(1985年)
開館年 : 1959年5月
閉館年 : 1985年11月25日
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1966年の映画館名簿では「竹島劇場」。1969年の映画館名簿では「大垣大映竹島劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「大垣竹島劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はバー「WAVE」などが入っている「ホライゾンビル」。

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(写真)竹島劇場跡地のホライゾンビル。

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(写真)竹島劇場跡地のホライゾンビル。

 

3.7 ロマン座/大垣松竹(1952年-1986年)

所在地 : 岐阜県大垣市竹島町60(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1980年・1985年)
開館年 : 1952年12月30日(ロマン座)、1976年11月26日(大垣松竹)
閉館年 : 1974年(ロマン座)、1986年1月(大垣松竹)
『全国映画館総覧1955』によると1952年12月開館。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ロマン座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「大垣ロマン座」。1974年にロマン座が閉館。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1976年11月26日に大垣松竹がロマン座跡地に移転開館。1980・1985年の映画館名簿では「大垣松竹映画劇場」。現在の跡地は「田中工業契約駐車場」。

1952年(昭和27年)に洋画専門館として「ロマン座」が開館。座席は個別でビロード張り、ウエスタン式の高級発声装置、開館当初から冷暖房装置も備えていました。1974年(昭和49年)にロマン座が閉館すると、1976年(昭和51年)には80m北にあった「大垣松竹」がロマン座跡地に移転し、1986年(昭和61年)まで営業しています。

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(写真)ロマン座/大垣松竹跡地の駐車場。左奥は大垣テアトル国際跡地。

 

3.8 大垣東映会館(1948年-1997年)

所在地 : 岐阜県大垣市郭町3-69(1995年)
開館年 : 1945年10月(芝居小屋?)、1948年(映画館化)、1969年(ビル化)
閉館年 : 1997年1月17日
『全国映画館総覧1955』によると1945年10月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「大垣劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「大垣東映劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大垣東映劇場・大垣スター劇場」(2館)。跡地はマンション「キャッスルハイツ大垣郭町」。

1948年(昭和23年)に映画館「大垣劇場」(後に「大垣東映劇場」)が開館。1969年に鉄筋コンクリート造4階建ての「大垣東映会館」が開館し、東映や日活の作品を上映していました。1994年(平成6年)1月には外壁の一部が崩れる事故が発生、同年5月には社長の松岡稔が71歳で死去し、1997年(平成9年)に閉館しました。

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(写真)大垣東映会館跡地のキャッスルハイツ大垣郭町。

 

3.9 大垣東宝会館(1950年代後半-2000年)

所在地 : 岐阜県大垣市栗屋町47(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年)、岐阜県大垣市栗屋町34(1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1955年以後1958年以前、1977年8月2日(ビル化)
閉館年 : 2000年秋頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「大垣東宝劇場」。1977年7月30日に大垣東宝会館ビルが開館。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「大垣東宝劇場・大垣スカラ座・大垣シネマ」(3館)。大垣市最後の従来型映画館。跡地は有料駐車場「名鉄協商大垣栗屋町駐車場」。

大垣東宝会館の竣工から8年後、1977年(昭和52年)には大垣東宝劇場も鉄筋コンクリート造6階建のビルを建て、3スクリーンからなる大垣東宝会館が開館しました。1997年(平成9年)には大垣市唯一の映画館となりました。2000年(平成12年)3月に約8kmの距離に「ユナイテッド・シネマ真正16」が開館すると、大垣東宝会館は同年秋に閉館し、大垣市から映画館がなくなりました。

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(写真)大垣東宝会館跡地の駐車場。

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(左)西から東を見る。右奥の駐車場が大垣東宝会館跡地。(右)東から西を見る。左奥の駐車場が大垣東宝会館跡地。

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(写真)栗屋町周辺の大垣市商工案内図。製作時期不明。(右)大垣市商工案内図の拡大。中央にうっすら東宝会館。

 

3.10 大垣コロナシネマワールド(2005年-営業中)

所在地 : 岐阜県大垣市三塚町字西沼523-1(2020年)
開館年 : 2005年12月17日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年の映画館名簿では「大垣コロナワールド1-10」(10館)。2015年・2020年の映画館名簿では「大垣コロナシネマワールド1-10」(10館)。

「大垣東宝会館」が閉館してから5年後の2005年(平成17年)に開館したのが10スクリーンのシネコン「大垣コロナシネマワールド」です。2000年代中頃の岐阜県では相次いでシネコンが開館。「県南部から愛知県北部にかけての地域は全国屈指の映画館激戦区」とされ、大垣市に近い場所では2011年(平成23年)に本巣市の「ユナイテッド・シネマ真正16」が閉館しています。

 

大垣市にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(中部版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

海津市平田町の映画館

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(写真)海津市平田図書館が入る海津市生涯学習センター。

2020年(令和2年)の正月、岐阜県海津市平田町(旧・海津郡平田町)を訪れました。かつて海津市平田町には映画館「今尾劇場」がありました。

 

 

1. 海津市平田町を歩く

1.1 千代保稲荷神社

海津市平田町にある千代保稲荷神社(おちょぼさん、おちょぼ稲荷)は岐阜県有数の初詣スポットであり、年間約200万人の参拝者が訪れるそうです。新型コロナの流行前ということで初詣にも例年通りの人出があり、人込みをかき分けて参道を進みます。おちょぼ稲荷がある平田町三郷は水田地帯にある小集落に過ぎず、なぜこの神社に初詣客が集まるのかわからず新鮮でした。

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(写真)千代保稲荷神社の鳥居。

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(左)初詣客でにぎわう参道の屋台。(右)稲藁で結んだ油揚げのお供え物を作る女性。

 

1.2 今尾市街地

おちょぼ稲荷から約2kmの距離には、海津市平田町の中心集落である今尾市街地があります。集落としての規模は海津市海津町海津市街地よりもやや小さいか。中心部でも3階建てビルが最高層の商店街でした。

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(写真)今尾商店街のアーチ。 

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(写真)今尾商店街の中心部。右は大垣共立銀行今尾代理店。

 

1.3 海津市平田図書館

海津市には旧海津町、旧平田町、旧南濃町の3町それぞれに図書館があり、海津市海津図書館が本館、海津市平田図書館と海津市南濃図書館が分館と位置付けられています。平田図書館がある海津市生涯学習センターの建物入口には、鐘紡社長を務めた武藤山治 (実業家) - Wikipedia銅像がありました。

 

海津市図書館の統廃合

分館とはいえ、平田図書館の蔵書数(約8万冊)は海津図書館のそれ(約9万冊)と遜色なく、平田図書館と同じく分館の南濃図書館(約2万冊)とは差があります。2019年(令和元年)8月には南濃図書館を訪れたこともあるのですが、南濃図書館は "機能の見直しと施設の集約化を図るため" に2020年(令和2年)3月末に閉館したようです。図書館の統廃合では和歌山県紀の川市立図書館などが知られていますが、紀の川市立図書館は片方の図書館の移転開館にともなったものです。愛知県周辺で "(新館の開館を伴わない)単純な閉館" というのは初めて聞きました。

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(写真)海津市平田図書館が入る海津市生涯学習センター。

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(左)武藤山治銅像。(右)海津市平田図書館の入口。

 

 

2. 平田町の映画館

2.1 今尾劇場(1930年以前-1960年代中頃)

『全国映画館名簿1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「今尾劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「辻中医院」敷地西側。

1964年の映画館名簿によると、経営者は近藤喜三、支配人は大橋山治、木造2階建、500席。500席というのはそれなりに大きい。

 

商店街の中心部にある山伝食料品店の男性(80代?)に聞くと、「今尾劇場は、商店街を東に向かってほぼ突き当り、辻中医院がある辺りにあった」とのこと。この男性は膝にかわいらしいねこを乗せてテレビを見ていました。

中医院に近い松川饅頭の主人(80代?)に聞くと、「今尾劇場は辻中医院の場所にあった。当時は商店街と県道を結ぶ道が通じておらず、劇場の西側に入口があった。和風建築だった。他の映画館で上映した後にフィルムが回ってくるため、フィルムの表面が傷んで雨のようになっていた。劇場が閉館した後、辻中さんが土地を購入して病院を建てた」とのこと。今尾商店街のアーチがある部分は後から開通したようです。現在の辻中医院は1990年代以降の建物に見えるので、病院の建物としては2代目かもしれません。

今尾神社で開催される今尾の左義長は人手不足のため、近くに住むベトナム人も参加している」という裏話も聞きました。技能実習生として来日しているベトナム人のようですが、海津市では何の仕事をしてるんだろう。

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(写真)今尾劇場跡地の辻中医院。

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(地図)海津市平田町における今尾劇場。Google My Maps

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(左)話を聞いた山伝食料品店。(右)話を聞いた松川饅頭。

 

現地を訪れてから10か月後の2020年(令和2年)10月、岐阜県図書館で「今尾劇場」が掲載された地図を発見。現在の辻中医院の場所にあることが地図からも確認できました。

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(地図)1930年の海津郡今尾町の地図。右に今尾劇場。

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(写真)1930年の岐阜県西濃地域・東濃地域にあった劇場の広告。可児郡広見町の東雲座、可児郡御嵩町の曙座、土岐郡多治見町の多治見館、土岐郡多治見町の榎元座、土岐郡瑞浪町の常盤座も掲載されている。

 

海津市平田町にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(中部版)」にマッピングしています。

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