振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

新世界東映を訪れる

(写真)日劇会館。

2024年(令和6年)11月、大阪府大阪市浪速区恵美須東2丁目2-8(新世界)の日劇会館にある映画館「新世界東映」を訪れました。

 

1. 新世界の映画館

かつて新世界は大阪屈指の映画館街であり、1980年(昭和55年)時点では9施設13館が、2000年(平成12年)時点でも5施設11館の映画館が営業していました。

その後、2006年(平成18年)に新世界公楽劇場が、2007年(平成19年)に4スクリーンのシネフェスタが、2015年(平成27年)に新世界日活劇場が閉館したことで、2024年現在も営業中の映画館は日劇会館の3館(新世界東映日劇会館・日劇ローズ)、新世界国際会館の2館(新世界国際劇場・新世界国際地下劇場)の2施設5館となっています。

 

2. 新世界東映

2.1 映画館の歴史

1947年(昭和22年)6月に開館した新世界日劇日劇会館・光映座が日劇会館の前身の映画館だと思われます。やがて新世界東映・新世界日劇会館・新世界日劇地下劇場という名称だった時代が長いのですが、3館体制だったのは現在と変わりありません。

1986年(昭和61年)10月に日劇会館ビル(≒マンションのサニーコート恵美須)が竣工し、2階部分に3館が入りました。2024年(令和6年)の映画館名簿によると、新世界東映が95席、日劇シネマが56席、日劇ローズが26席であり、かなり小規模なスクリーンが3つ並んでいることになります。

(写真)新世界東映のホール内部。

 

2.2 映画館の経営

新世界東映の経営者は株式会社松下商会であり、新世界東映日劇シネマ・日劇ローズの他に、大阪市天王寺区上本町で上六シネマを、兵庫県神戸市兵庫区で福原国際東映を、兵庫県尼崎市で尼崎パレスを経営しています。新世界東映以外の5館は全て成人映画館です。

一般的な映画上映案内サイトには上映作品や上映時間が掲載されていませんが、2018年(平成30年)2月から稼働している非公式X(Twitter)、2023年(令和5年)頃に立ち上げられた公式サイトなどで上映作品が確認できます。

(写真)新世界東映のホール入口。

 

2.3 東映博徒解散式』

1968年(昭和43年)の東映作品『博徒解散式』は深作欣二監督、鶴田浩二主演。昭和30年代の東映時代劇を経て、昭和30年代後半以降に東映が目を付けたのがヤクザ映画です。なお、深作欣二監督による『仁義なき戦い』シリーズが始まるのは5年後の1973年(昭和48年)のことです。

主人公の黒木(鶴田浩二)は岩崎組の幹部であり、1958年(昭和33年)から1966年(昭和41年)という高度経済成長真っただ中の8年間を刑務所で過ごした人物。刑期中の暴力団取り締まりによって組は弱体化しており、海運会社の社長という堅気の仕事に収まりますが、古臭い考えを捨てられないことで進歩的な考えの唐沢(渡辺文雄)と刺し違えることになります。時代についていけない昔気質の男の悲哀というテーマがあるのでしょうが、それにしても黒木は要領が悪い。

若い頃の鶴田浩二は誰もが納得する二枚目ですが、この作品の鶴田浩二はどこにでもいそうな人間臭い中年男です。

(写真)新世界東映のチラシ。

 

2.4 東映『玉割り人ゆき 西の廓夕月楼』

1976年(昭和51年)の東映作品『玉割り人ゆき 西の廓夕月楼』は牧口雄二監督、潤ますみ主演。昭和初期の金沢を舞台とし、娼妓に性技を教える師匠(玉割り人)と妓楼の楼主の悲恋を描きます。製作費500万円という低予算映画ですが金沢ロケが行われています。能登に向かう汽車が登場したり、一万円札が聖徳太子だったり、毛色の異なる複数の浮浪者が出てくる点などに時代背景が現れています。

楼主役の坂口祐三郎をウェブ検索すると『赤影』のシュッとした美男子の写真が出てきますが、『玉割り人ゆき~』では貫禄のある男前の姿であり、役柄を演じ分ける技量の高さを感じます。オープニングでゆき(潤ますみ)が金沢にやってくるシーン、エンディングでゆきが金沢から去るシーンでは印象的な橋が使われていますが、この橋は京都府の木津川に架かる上津屋橋(流れ橋)だそうです。

(写真)日劇会館の入口。

(写真)新世界東映の注意書き。

足利東映プラザ劇場を訪れる

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

2024年(令和6年)3月、栃木県足利市を訪れました。

井草町にある足利小山信用金庫本店の南西には、映画館「足利東映プラザ劇場」の建物が現存しています。「足利市の映画館(1)」「足利市の映画館(2)」からの続きです。

 

ayc.hatenablog.com

ayc.hatenablog.com

1. 足利東映プラザ劇場

1.1 映画館の歴史

所在地 : 栃木県足利市井草町2408(2000年)
開館年 : 1921年12月、1977年8月6日
閉館年 : 2000年4月17日
『全国映画館総覧 1955』によると1921年4月開館。1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「有楽館」。1936年の映画館名簿では「足利有楽館」。1943年・1947年の映画館名簿では「有楽館」。1950年の映画館名簿では「足利有楽館」。1953年・1955年の映画館名簿では「有楽館」。1958年の映画館名簿では「足利東映有楽館」。1960年の映画館名簿では「有楽館」。1963年の映画館名簿では「東映遊楽館」。1966年の映画館名簿では「足利東映有楽館」。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「足利東映」。1978年の映画館名簿では「足利東映劇場・足利東映プラザ劇場」(2館)。1980年・1985年の映画館名簿では「足利東映劇場・足利東映プラザ」(2館)。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「足利東映劇場・足利プラザ」(2館)。2002年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「足利小山信用金庫本店」南西40mに現存。

1921年(大正10年)12月、足利市井草町に有楽館が開館しました。足利郡足利町が市制施行したのは同年1月のことであり、有楽館の開館と同月には足利市庁舎も竣工しています。経営者は高崎市で様々な事業に関わっていた吉井梅次郎であり、高崎電気館の発起人でもあった人物です。

(写真)吉井梅次郎。『高崎大観』高崎大観刊行会、1928年。

(地図)中央に有楽館が描かれた1932年の『足利市全図』。足利市立図書館所蔵。

 

戦後には足利有楽館、足利東映有楽館と改称します。1960年(昭和35年)頃の映画館名簿には経営者の欄に小林圭一郎と書かれていますが、小林はもともと織物工場の経営者だった人物のようです。

(写真)有楽館が描かれた『足利市詳図』人文社、1959年。

(地図)中央左に足利東映有楽館が描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

 

1977年(昭和52年)、東映の傍系企業である東興映画は、足利東映有楽館を鉄骨造3階建のビルに建て替え、足利東映劇場・足利東映プラザ劇場の2館を有する映画館ビルとなりました。1984年(昭和59年)の住宅地図を見ると、スナックやパブなども内包するビルとして描かれています。

(写真)足利東映・足利東映プラザの開館を報じる『映画年鑑 1978』時事映画通信社、1977年。

(地図)中央に足利東映プラザ劇場が描かれた1984年の『ゼンリン住宅地図』。


晩年の経営者は堀越清市の八景中央興業であり、この企業は埼玉県川越市の川越プラザ(旧・鶴川座)の経営者でもありました。1996年(平成8年)に両毛地域初のシネコンとして7スクリーンの太田コロナシネマワールドが開館すると、2000年(平成12年)4月に足利東映プラザ劇場が閉館しました。

閉館後も建物が残され、2018年(平成30年)公開の映画『今夜、ロマンス劇場で』では作中に登場する映画館(ロマンス劇場)として用いられています。蔦の生えた建物の外壁、作中で用いられた「劇場通り」のアーチなどがわかりやすい廃墟感を出しており、映画ファンと廃墟マニアの双方に受けの良い聖地巡礼地となっていたようです。

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

 

1.2 映画館の建物

足利市は井草町周辺で区画整理事業を進めています。2024年(令和6年)5月に建物の所有者が代わったこともあり、同年11月には新聞等で「今年度中にも解体される」と報じられました。11月19日から11月28日にはNPO法人足利歴史まちづくりの会によって、足利市民活動センターで旧市街地に思いをはせる写真企画展も開催されています。

参考:『足利東映プラザ』解体へ『今夜、ロマンス劇場で』ロケ地で人気」『毎日新聞』2024年11月9日

参考:「再開発で消えゆくレトロな面影 足利のNPOが写真企画展 解体迫る映画館など30点展示」『東京新聞』2024年11月20日

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

 

足利市の映画館について調べたことは「足利市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(栃木県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

足利市の映画館(2)

(写真)足利市街地。

2024年(令和6年)3月、栃木県足利市を訪れました。

足利市の映画館(1)」からの続きです。「足利東映プラザ劇場を訪れる」に続きます。

 

ayc.hatenablog.com

ayc.hatenablog.com

2. 足利市の映画館

2.1 アサヒ松竹(1951年12月-1969年頃)

所在地 : 栃木県足利市伊勢町218(1969年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「足利演舞場」。1960年・1963年の映画館名簿では「アサヒ松竹」。1966年の映画館名簿では「足利アサヒ松竹」。1969年の映画館名簿では「アサヒ松竹」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「群馬銀行足利支店」東隣の駐車場など。閉館後の土地区画整理事業で敷地が変化しているので参考程度に。

1951年(昭和26年)12月に足利演舞場として開館し、1959年(昭和34年)4月2日に経営者が交代してアサヒ松竹に改称しました。『キネマ旬報』によるとアサヒ松竹の経営者は東武鉄道内のアサヒ自動車映画部とのことですが、(東武足利市駅ではなく)最も国鉄足利駅に近い場所にあった映画館です。

(写真)アサヒ松竹の開館を報じる「映画館」『キネマ旬報キネマ旬報社、1959年6月1日。

(地図)中央にアサヒ松竹が描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

 

映画館名簿によるとアサヒ松竹の閉館は1969年(昭和44年)頃。1963年(昭和38年)から1970年代には足利駅土地区画整理事業が行われ、特にアサヒ松竹の北側の道路が大きく変化しています。跡地は群馬銀行足利支店と足利銀行東支店に挟まれた場所だと思われますが、厳密な跡地は定かではありません。。

(写真)土地区画整理事業におけるアサヒ松竹跡地周辺。『足利駅前土地区画整理事業』。

(写真)アサヒ松竹跡地周辺。

 

2.2 高砂館(1950年2月-1972年頃)

所在地 : 栃木県足利市足利通1丁目(1972年)
開館年 : 1936年以後1941年以前、1950年2月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年2月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「高砂館」。1966年の映画館名簿では「足利高砂館」。1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「高砂館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「ルートイン足利駅前」南西80mの月極駐車場「通一丁目パーキング」東側。

(地図)右下に映画館タカサゴが描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

(地図)高砂館の跡地付近が描かれた1984年の『ゼンリン住宅地図』。

(写真)高砂館跡地の駐車場とJR両毛線の線路。

 

2.3 足利京王(1951年6月-1974年頃)

所在地 : 栃木県足利市足利通り2丁目(1974年)
開館年 : 1951年6月
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「足利劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「足利サン劇場」。1960年の映画館名簿では「京王劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「足利京王」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は中橋北詰にある「アベ中央ビル」建物西側。

1932年(昭和7年)の『足利市全図』には、渡良瀬川に架かる中橋の北詰に足利座が描かれています。1933年(昭和8年)の『足利大観』によると足利座は映画館ではなく劇場であり、郷土資料によると翌年の1934年(昭和9年)3月18日に焼失したようです。

終戦までの動向は定かでありませんが、戦後には足利座の跡地に足利劇場が開館しており、映画館名簿によると開館は1951年(昭和26年)6月のことです。1950年代後半にはサン興業が経営者となって足利サン劇場に改称し、1950年代末以降は京王劇場/足利京王として映画館名簿に掲載されています。経営者の京王映画は茨城県水戸市などで多数の映画館を経営していた京王グループの企業です。

(地図)中央下に足利座が描かれた1932年の『足利市全図』。足利市立図書館所蔵。

(地図)中央に足利京王劇場が描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

 

1977年(昭和52年)には足利京王の跡地にアベ中央ビルというマンションが竣工しました。県道に面した1階と2階に焦点が入る下駄ばきマンションであり、大半の店舗区画はシャッターが下りていますが、アベ中央ビルが建つ前からこの場所で営業していたマルケイ帽子店は現役の商店かもしれません。

(地図)足利京王の跡地付近が描かれた1984年の『ゼンリン住宅地図』。

(写真)足利京王跡地のアパート。

(写真)足利京王跡地のアパート。1977年1月8日竣工を示す定礎プレート。

 

2.4 足利末広劇場(1923年6月-1982年頃)

所在地 : 栃木県足利市通り4-2801(1982年)
開館年 : 1923年6月
閉館年 : 1982年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年6月開館。1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「末広座」。1936年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「末広劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「末広館」。1966年の映画館名簿では「足利末広劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「末広劇場」。1980年・1982年の映画館名簿では「足利末広劇場」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「足利警察署織姫交番」南東80mにある駐車場。

1913年(大正2年)時点の足利郡足利町には劇場として足利座と末広座がありました。末広座はその後活動常設館に転向したようであり、昭和初期時点の足利市には映画アkんとして末広座、大成館、有楽館の3館がありました。市街地西側(通4丁目の末広館)、中央部(井草町の有楽館)、市街地東側(助戸町の大成館)と、足利市街地にはバランスよく映画館があったことになります。

(地図)中央に末広座が描かれた1932年の『足利市全図』。足利市立図書館所蔵。

 

1959年(昭和34年)の『足利市詳図』では旧国道50号(中央通り)沿いに末広劇場が描かれていますが、末広劇場がブロックの南東角から北東角に移転したわけではなく、『足利市詳図』の誤りだと思われます。

(写真)末広劇場や有楽館が描かれた『足利市詳図』人文社、1959年。

(地図)右下に末広劇場が描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

 

昭和30年代の足利市には8館の映画館がありましたが、メインストリートである旧国道50号に面していたのは足利スカラ座とアサヒ松竹のみであり、その他の映画館は旧国道50号から分岐する路地、旧国道50号に並行する裏通りにあったのは興味深い点です。末広劇場と足利東宝アサヒ座はいずれも裏通り沿いにありました。

(地図)足利末広劇場の跡地付近が描かれた1984年の『ゼンリン住宅地図』。

(写真)足利末広劇場跡地の駐車場。

(写真)足利末広劇場跡地とその周辺。

 

2.5 足利東宝アサヒ座(1956年頃-1994年頃)

所在地 : 栃木県足利市通り5-3213(1992年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1994年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「アサヒ座」。1966年の映画館名簿では「足利アサヒ座」。1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「東宝アサヒ座」。1980年・1985年・1990年・1992年・1994年の映画館名簿では「足利東宝アサヒ座」。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン足利通五丁目店」南西40mにある駐車場。

足利市街地で最も西にあった映画館が東宝アサヒ座です。1956年(昭和31年)頃開館の後発の映画館であり、アサヒ松竹と同様に東武鉄道内のアサヒ自動車映画部が経営者だった点が特徴です。下の住宅地図右下には料亭の相洲楼がありますが、明治初期創業の相洲楼は2024年(令和6年)現在も現役です(公式サイト)。

(地図)中央に東宝アサヒ座が描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

(地図)中央に東宝アサヒ座が描かれた1984年の『ゼンリン住宅地図』。

(写真)足利東宝アサヒ座跡地の駐車場。

(写真)足利東宝アサヒ座が面していた路地。

 

2.6 足利スカラ座(1949年12月-1997年1月31日)

所在地 : 栃木県足利市通り3-2764(1995年)
開館年 : 1949年12月(ワンプラー劇場)、1956年(スカラ座
閉館年 : 1997年1月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1949年12月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「足利ワンプラー劇場」。1953年の映画館名簿では「ワンプラー劇場」。1955年の映画館名簿では「ワンプラ劇場」。1958年の映画館名簿では「ワンプラー劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「足利大映」。1966年・1969年の映画館名簿では「足利日活」。1973年・1975年の映画館名簿では「足利スカラ」。1978年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「足利スカラ座」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「足利商工会議所友愛会館」北西50mにある「足利商工会議所友愛会館第1駐車場」。

国道50号に面していた数少ない映画館が足利スカラ座です。1949年12月、大山呉服店の一部を用いたワンプラー劇場として開館し、経営者や上映作品が変わるとともに足利大映、足利日活、足利スカラ座と改称しています。

(地図)中央に足利日活が描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

(地図)中央右に足利スカラ座が描かれた1984年の『ゼンリン住宅地図』。

 

1997年(平成9年)の閉館後、しばらく建物が雑貨店として用いられた後、現在は近隣の足利商工会議所の駐車場となっています。

(写真)足利スカラ座跡地の駐車場。

 

2.7 足利東映プラザ劇場(1977年8月6日-2000年4月17日)

ayc.hatenablog.com

(写真)足利東映プラザ劇場の建物。

 

2.8 足利中劇・足利シネマ2(1956年頃-2001年1月31日)

所在地 : 栃木県足利市通り2-1-1(2000年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 2001年1月31日
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年の映画館名簿では「足利中央劇場」。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「中央劇場」。1978年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「足利中劇・中劇シネマ2」(2館)。1995年・2000年の映画館名簿では「足利中劇・足利シネマ2」(2館)。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「通三丁目児童公園」北東50mにある駐車場。

1968年(昭和43年)の住宅地図を見ると、中央劇場の東側や南側には複数の割烹料理店や旅館が、西側にはスナックやバーなどが集中しており、このエリアが小規模な歓楽街となっていたことが分かります。

2024年(令和6年)現在も数軒の居酒屋が点在しており、歓楽街の名残は感じられますが、割烹料理店や旅館は全て廃業してしまったようです。

(地図)中央に中央劇場が描かれた1968年の『足利市住宅地図』住宅地図出版。足利市立図書館所蔵。

(地図)右下に中劇 シネマ2が描かれた1984年の『ゼンリン住宅地図』。

(写真)足利中劇・足利シネマ2跡地の駐車場。

(写真)足利中劇・足利シネマ2跡地の駐車場とその周辺。

 

2.9 シネマックス足利(2007年12月-2009年2月27日)

所在地 : 栃木県足利市大月町3-2 あしかがハーヴェストプレース内(2009年)
開館年 : 2007年12月
閉館年 : 2009年2月27日
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2008年の映画館名簿では「シネマックス足利1-10」(10館)。2009年の映画館名簿では「シネマックス足利1-8」(8館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。あしかがハーヴェストプレース2階。

(写真)2007年12月のあしかがハーヴェストプレース。photo : Jara2000

 

2.10 ユナイテッド・シネマアシコタウンあしかが(2016年3月1日-営業中)

所在地 : 栃木県足利市大月町3-2 アシコタウンあしかが内(2020年)
開館年 : 2016年3月1日
閉館年 : 営業中
2015年の映画館名簿には掲載されていない。2017年・2020年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマアシコタウンあしかが1-8」(8館)。シネマックス足利の跡地を活用。

 

足利市の映画館について調べたことは「足利市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(栃木県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

足利市の映画館(1)

(写真)足利学校

2024年(令和6年)3月、栃木県足利市を訪れました。

かつて足利市街地には8館の映画館がありました。現在は郊外にシネコンユナイテッド・シネマアシコタウンあしかががあります。「足利市の映画館(2)」「足利東映プラザ劇場を訪れる」に続きます。

 

ayc.hatenablog.com

ayc.hatenablog.com

1. 映画館名簿

1.1 『日本映画事業総覧 昭和5年版』

活動写真/活動常設館に代わって映画/映画館という表記が定着した頃、1930年(昭和5年)の『日本映画事業総覧 昭和5年版』には足利市の映画館として有楽館、末広座、大成館の3館が掲載されています。

有楽館は戦後に足利東映有楽館(→足利東映プラザ劇場)となり、末広座は戦後に足利末広劇場となりました。大成館のみは戦前で歴史が途絶えた映画館のようです。1932年(昭和7年)の『足利市全図』には大成館も描かれており、後に暗渠となった旧袋川東岸の助戸3丁目(現在のたか鮨や炭火焼真八付近)にあったようです。

(写真)足利市に3館が掲載されている『日本映画事業総覧 昭和5年版』国際映画通信社、1930年。

(地図)大成館が描かれている1932年の『足利市全図』。足利市立図書館所蔵。

 

1.2 『映画便覧 1958年版』

全国の映画観客数がピークに達した1958年(昭和33年)、足利市街地には8館の映画館がありました。8館すべてで経営者が異なっているのがこの時代らしい。なお、範囲を現足利市域に広げると、足利郡坂西町に葉鹿座と小俣座、足利郡御厨町に御厨セントラルもありました。

(写真)足利市に8館が掲載されている『映画便覧 1958』時事通信社、1958年。

 

1.3 『映画館名簿 1980年版』

映画人気が一気に冷えた1960年代を経て、町村部では映画館の閉館が進み、都市部でも個人経営から企業による経営への移行が進みました。1980年(昭和55年)時点の足利市には5施設7館があり、うち2施設3館は富士映画興行、1施設2館は東宝系の東興映画(旧・東宝東部興行)の経営でした。なお、栃木県では宇都宮市に拠点を置く斎藤興行部、群馬県では前橋市に拠点を置く野中興業などが有力な興行会社として存在していました。

(写真)足利市に5施設7館が掲載されている『映画館名簿 1980』時事映画通信社、1980年。

 

1.4 『映画館名簿 1995年版』

1993年(平成5年)には日本の映画館数が底をつき、1994年(平成6年)以降にはシネコンの影響で増加に転じます。1995年(平成7年)の栃木県にあった映画館はわずか34館ですが、12館の宇都宮市、6館の小山市に次いで、足利市には5館の映画館がありました。

小山市にはシネコンの小山シネマロブレが、栃木市にはビデオシアターのジャスコファミリーシアターが、鹿沼市にはモナミドライブインシアターがあり、既存興行館以外の形態の映画館が登場し始めた時期でしたが、足利市の3施設5館は従来の興行会社による経営だったようです。

(写真)足利市に3施設5館が掲載されている『映画館名簿 1995』時事映画通信社、1995年。

 

1.5 『映画館名簿 2008年版』

1996年(平成8年)には両毛地域初のシネコンとして、群馬県太田市に7スクリーンの太田コロナシネマワールドが開館しました。2000年(平成12年)には足利東映プラザ劇場の2館が、2001年(平成13年)には足利中劇・足利シネマ2が閉館し、足利市から映画館がなくなりました。

足利市の吉谷宗男市長は映画ファンでもあり、足利市の大型商業施設にシネコンを誘致した結果、2007年(平成19年)には千葉市の千葉興行を経営者とするシネマックス足利が開館しています。しかし、2003年(平成15年)開館のイオンシネマ太田、2005年(平成17年)開館の109シネマズ佐野も含めて両毛地域4サイト目のシネコンであり、供給過多によって観客数は低迷し、2009年(平成21年)にはもう閉館に追い込まれています。

その後2012年(平成24年)には太田コロナシネマワールドが閉館。2016年(平成28年)には7年前に閉館したシネマックス足利の施設を用いて、ユナイテッド・シネマアシコタウンあしかがが開館しています。

(写真)シネマックス足利が掲載されている『映画館名簿 2008』時事映画通信社、2008年。

 

足利市の映画館について調べたことは「足利市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(栃木県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com