振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

「ウィキペディアタウンin弥栄 和田野」に参加する

(写真)和田野の街並み。

2022年(令和4年)9月10日(土)、京都府京丹後市弥栄町和田野で開催された「ウィキペディアタウンin弥栄 和田野」に参加しました。

 

主催は丹後地方でWikipediaを用いた地域情報発信に取り組むedit Tangoと、edit Tangoのメンバーかつ和田野でコミュニティスペース 古与曾(こよそ)の運営を手掛ける芦田久美子さん。京丹後市立古代の里資料館長かつ和田野在住の新谷勝行さんがガイド役です。午前中は和田野の集落内のまちあるき、午後は古与曾にてWikipedia編集というのがおおまかな流れです。

 

スケジュール

09:15 集合

09:30~12:00 まちあるき

12:00~13:00 昼食

13:00~13:30 Wikipedia講話

13:30~16:30 Wikipedia編集

16:30~ 成果発表

(写真)1975年の和田野(左)。中央は竹野川地図・空中写真閲覧サービス

 

1. まちあるき

和田野集落の北端にある古与曾に集合し、まずは参加者の車に分乗して大田南古墳群跡地に向かいます。1990年代には青龍3年(235年)の銘が入った「方格規矩四神鏡」(重要文化財)が出土。紀年銘鏡としては日本最古とのことで、"邪馬台国論争に新たな一石" などと報じられたそうです。竹野川中流域にある弥栄町は大田南古墳群以外にも重要な古墳が多いそうです。

(写真)大田南古墳群から出土した「方格規矩四神鏡」。重要文化財文化遺産オンライン

 

竹野川には和田野橋が架かっていますが、1909年(明治42年)には立派なトラス橋となり、1929年(昭和4年)には鉄筋コンクリート橋に、1983年(昭和58年)には現在の橋に架け替えられています。

(写真)1909年に架け替えられた和田野橋。古与曾が所蔵する古写真。パブリックドメイン

1934年(昭和9年)の地形図にも、鳥取村和田野と深田村溝谷を結ぶ和田野橋が描かれています。当時は和田野のほうが大きな集落だったような描き方がなされていますが、当時から溝谷には郵便局や病院などの公共施設があり、現在はこの地域における拠点性が逆転しています。

 

竹野川の河畔にはよく似た2つの石碑があります。前者は1924年大正13年)に建立された井堰改築碑、後者は1913年(大正2年)に建立された竹野川改修紀念碑です。井堰改築碑のそばには和田野の水田に水を引きこむための取水口があります。

竹野川はそれほど流量が多い河川ではありませんが、丹後半島の広い範囲から水を集めるため、かつては頻繁に氾濫していたようです。

(左)1924年建立の井堰改築碑。(右)1913年建立の竹野川改修紀念碑。

(写真)井堰改築碑付近の航空写真。Googleマップ

 

その後は京丹後市商工会弥栄支所に車を停め、集落内を歩いて春日神社や西方寺などを巡りました。

集落入口は三叉路となっており、壁が白く塗られた下見板張りの建物があります。近代建築に関する書籍や個人サイト等には登場せず、和田野公民館の旧館だろうかと想像していましたが、新谷さんによると公共施設ではなく個人宅だそうです。

(写真)集落入口の三叉路。

 

和田野の街道沿いにはだいまるしょうゆカフェで知られる大下倉醤油醸造所(大下倉=たかくら)があります。1908年(明治41年)創業というこの醸造所は当主の平野佐世子さんで4代目だそうです。2011年(平成23年)にはバラエティ番組『大改造!! 劇的ビフォーアフター』に取り上げられ、同年には醤油樽を改装した席のあるカフェがオープン。近年の和田野に人を集めている施設なので、Wikipediaには単独記事を作成したかったのですが、資料がなくて断念しました。

(写真)和田野の街並み。

 

集落中心部の街道沿いにはひときわ大きな建物がありますが、この建物は丹後ちりめんの機屋だった建物のようです。改装して何かに用いる予定があるのか、重機が出入りしていました。

和田野に関する文献を読むと、和田野で最も大きな工場として "春雨織物工場" が登場します。1935年(昭和10年)時点では120台もの織機がある大工場だったようですが、その跡地ははっきりしませんでした。冒頭に掲載した1975年(昭和50年)の航空写真には3棟が接続した大工場が写っており、この建物が春雨工場だったのではないかと思います。

(写真)和田野にある機屋の建物。

 

日本遺産「丹後ちりめん回廊」には構成文化財として「網野・弥栄の機屋の町並み」があり、具体的な地名として和田野と網野町浅茂川が挙げられています。現在の和田野で機音が聞こえる機屋は少なく、丹後ちりめんの代表的な集落として和田野が挙げられているのは奇妙ですが、他集落と比べて大工場が卓越していたという特徴があるのかもしれません。

(写真)春雨工場で犠牲となった18人の戒名も刻まれている西方寺の北丹震災供養塔。

(写真)和田野集落南部の航空写真。Googleマップ

(写真)和田野の街並み。

(写真)和田野の機屋。

 

和田野を通る街道の山際には、"芋穴"という貯蔵庫がありました。車で街道を通りすぎるだけでは気づかないかもしれないし、地元の方がいなかったら貯蔵庫ともわからなかったかもしれません。開口部よりも中のほうが広いので防空壕みたい。

(写真)貯蔵庫の芋穴。

(写真)和田野集落北部の航空写真。Googleマップ

 

弥栄町には「食を通じた新たな地域コミュニティづくりの推進」をミッションとする地域おこし協力隊員がおり、隊員自らが料理長を務めています。弥栄町の芋野郷赤米保存会が生産した赤米、弥栄町の梅本農場産の野菜、伊根町の三野養鶏場産の卵、丹後町袖志産の天草など、丹後地方の食材をふんだんに使った膳を昼食に食べました。

(写真)地域おこし協力隊員による郷土食材たっぷりの膳。

(写真)古与曾付近の航空写真。Googleマップ

 

2. Wikipedia編集

今回のイベントにおける編集記事は以下の通り。和田野の集落記事、和田野にある春日神社の新規作成や大田南古墳群の加筆、和田野で復興に取り組まれている赤米の加筆、弥栄町溝谷にある溝谷神社の新規作成などが行われました。私は事前に和田野の集落記事の骨格作り(初版投稿)を準備したうえで、イベント中には主に集落記事の加筆を行っています。

 

編集記事

和田野 - Wikipedia - 新規作成。

春日神社 (京丹後市弥栄町) - Wikipedia - 新規作成。

溝谷神社 - Wikipedia - 新規作成。

赤米 - Wikipedia - 加筆。

弥栄町 - Wikipedia弥栄村 (京都府) - Wikipedia - 加筆。

大田南5号古墳 - Wikipedia - 加筆。

 

日本遺産「丹後ちりめん回廊」では機屋の町並みの代表例とされている集落ですが、街道から外れた場所まで行かないと機音は聞こえてこず、昔の写真や文献に当たらないと大規模工場の存在は見えてきません。まちあるきや文献調査の意義がある集落でした。

(写真)古与曾。

 

3. 弥栄町の映画館

3.1 和田野座(1952年頃-1961年頃)

所在地 : 京都府竹野郡弥栄町和田野(1960年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1961年頃
1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年・1955年の映画館名簿では「和田野座」。1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「和田野座」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

戦後の和田野には2館の映画館があったようです。1953年(昭和28年)版から1961年版(昭和36年)の映画館名簿には和田野座という映画館が掲載されており、1958年(昭和33年)から1965年(昭和40年)の映画館名簿には弥栄映劇も掲載されています。

(写真)『映画便覧 1960』時事通信社、1960年。和田野座の"和田野町"は誤記。

 

『「恒枝保」考』(萩原勉、1990年)を読むと、昭和初期には和田野橋の西側の低地に芝居小屋があったと記されています。戦後の映画館名簿に登場する和田野座がこの芝居小屋ではないかと推測しています。

(写真)戦前の和田野にあった芝居小屋に関する言及。『「恒枝保」考』萩原勉、1990年。

 

3.2 弥栄映劇(1953年-1965年6月)

所在地 : 京都府竹野郡弥栄町(1965年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1965年6月
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「弥栄映劇」。1963年の映画館名簿では「弥栄劇場」。1964年・1965年の映画館名簿では「弥栄映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

映画館名簿によると和田野には弥栄映劇もあり、木造2階、冷暖房付、定員300。経営者は丹後・但馬で複数の館を経営していた東史郎 - Wikipedia。1960年(昭和35年)の映画館名簿を見ると、経営者の欄に東四郎が記されている映画館は弥栄映劇のほかに、旗艦館である間人劇場(丹後町)、久美浜館(久美浜町)、日高映画劇場(兵庫県日高町)、香住映劇(兵庫県香住町)、あずま館(兵庫県香住町)、大富座(兵庫県浜坂町)がありました。

『「恒枝保」考』(萩原勉、1990年)と『時を越えて 弥栄町の四十年』(弥栄町役場、1995年)には弥栄映劇に関するわずかな言及がありますが、和田野のどの地点にあったのかはわかりません。

(写真)『「恒枝保」考』萩原勉、1990年。(左)弥栄映劇の開館に関する言及。(右)閉館に関する言及。