振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

浜坂町の映画館

(写真)あじわら小径。

2022年(令和4年)9月、兵庫県美方郡新温泉町浜坂(旧・浜坂町)を訪れました。かつて浜坂町には映画館「浜坂映劇」と「大富座」がありました。

 

1. 浜坂町を訪れる

1.1 あじわら小径

浜坂市街地の東端には味原川が流れており、川に沿ってあじわら小径が整備されています。新温泉町加藤文太郎記念図書館の付近には立派な石垣が見られ、往時の繁栄の様子が偲ばれます。

(写真)あじわら小径。

 

あじわら小径から坂を上ると、立派な石垣の敷地が浜坂先人記念館 以命亭(旧森家住宅、七釜屋屋敷)であるのがわかりました。酒造業を営んでいた七釜屋森家の主屋であり、七釜屋森家に関する展示、浜坂町出身の著名人に関する展示などがあります。

(写真)浜坂先人記念館 以命亭。登録有形文化財

(左・右)浜坂先人記念館 以命亭。

 

1.2 加藤文太郎記念図書館

新温泉町浜坂には新温泉町加藤文太郎記念図書館(旧・浜坂町立加藤文太郎記念図書館)があります。「人名」+「記念図書館」という名称の場合には図書館建設費の寄付者を冠している場合が多いですが、この図書館の場合は出身著名人の名前を冠しているだけのようです。

建物の外観、書架などの什器、壁面などは "山" がモチーフになっていて遊び心があります。ただし、旧浜坂町出身の著名人の中で加藤文太郎知名度が際立って高いかどうかは疑問。名称は浜坂町立図書館でもよかったのではと思いました。

『日本の図書館 統計と名簿 2021』(日本図書館協会、2022年)によると、加藤文太郎記念図書館の床面積は1,153m2、蔵書冊数は10.6万冊、貸出冊数は7.0万冊。住民1人あたり貸出冊数は4.9冊/年であり、特徴が似通った自治体の中では高くも低くもない数字だと思われます。

(写真)新温泉町加藤文太郎記念図書館。

(写真)山をモチーフにした棚見出しが並ぶ館内。

(写真)山をモチーフにした壁面がある館内。

 

郷土資料の地域別分類は「旧浜坂町・旧温泉町・新温泉町」と「但馬」。浜坂映劇に言及している数少ない郷土資料として『写真でつづる浜坂町 明治 大正 昭和のすがた』(浜坂町、1984年)がありますが、なぜかこの図書館は所蔵していなくて困惑しました。

新温泉町鳥取兵庫県境をまたいだ「因幡・但馬麒麟のまち連携中枢都市圏」に含まれており、鳥取市立図書館の利用者カードを発行できるみたい。この連携中枢都市圏には鳥取市、岩美町、若桜町、智頭町、八頭町(ここまで鳥取県)、新温泉町兵庫県)の1市5町が加わっています。

(写真)郷土資料コーナー。

 

2階には山岳図書閲覧室があります。1994年(平成6年)の開館時に各所から寄贈された文献が蔵書の中心。『山と渓谷』などの山岳関連雑誌は開館後の号が永年保存されているし、開館前の号も収集に努めているようです。もちろん加藤文太郎を主題とする漫画『孤高の人』もありました。

(写真)山岳図書閲覧室。右は鍵付き書架。

(写真)山岳図書閲覧室。低層書架。(右)上段は加藤文太郎を題材とする漫画『孤高の人』、下段は雑誌『山と渓谷』。

(写真)山岳図書閲覧室。鍵付き書架。

 

2. 浜坂町の映画館

2.1 大富座(1942年1月-1961年)

所在地 : 兵庫県美方郡浜坂町(1961年)
開館年 : 1942年1月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1942年1月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「末広座」。1947年の映画館名簿では「大富座」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「大富座」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

1950年代から1961年(昭和36年)までの映画館名簿には浜坂町の映画館として大富座が、1960年(昭和35年)から1970年代初頭までの映画館名簿には浜坂町の映画館として浜坂映劇が掲載されています。

1960年(昭和35年)の映画館名簿には両者が掲載されており、経営者/支配人/構造/定員/電話番号などが異なっていることからも大富座と浜坂映劇は異なる映画館だと思われますが、『写真でつづる浜坂町 明治 大正 昭和のすがた』(浜坂町、1984年)には両者が同一の映画館であるかのような書き方がなされています。

晩年の大富座の経営者は東史郎であり、兵庫県但馬地域や京都府丹後地域で複数館を経営していた人物です。東史郎京都府竹野郡丹後町の間人劇場を旗艦館として、久美浜館(京都府久美浜町)、弥栄映劇(京都府弥栄町)、日高映画劇場(兵庫県日高町)、香住映劇(兵庫県香住町)、あずま館(兵庫県香住町)なども経営していました。

(写真)浜坂町に大富座と浜坂映劇が掲載されている『映画便覧 1960』時事通信社、1960年。

 

2.2 浜坂映劇(1959年頃-1972年頃)

所在地 : 兵庫県美方郡浜坂町新町(1973年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1972年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「浜坂映劇」。1962年・1963年の映画館名簿では「浜坂映画劇場」。1966年・1969年・1970年・1973年の映画館名簿では「浜坂映劇」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「宝宣寺」本堂北西20mにある複数の敷地。最寄駅はJR山陰本線浜坂駅

1960年(昭和35年)の映画館名簿を見ると、浜坂映劇の所在地は浜坂町1144となっています。浜坂市街地で1144に近い番地の建物を調べると、浜坂駅前の衣料品店 フミヤ(新温泉町浜坂1137)などがあり、1964年(昭和39年)の航空写真を見るとフミヤの背後に巨大な建物が写っています。

(写真)1964年の航空写真における浜坂映劇。矢印が入口。地図・空中写真閲覧サービス

(写真)浜坂町に浜坂映劇が掲載されている『映画館名簿 1973』時事映画通信社、1973年。

 

フミヤを経営する夫妻(70代後半?)に話を聞いてみると、

フミヤと宝専寺の間の場所に映画館があった。名前は覚えていないが入ったことがある。浜坂町の映画館はこの1館しかなかった。フミヤを創業してから10年間は借家で営業していたが、映画館が閉館した50年前に土地を購入してこの店を構えた。5軒が映画館の跡地を購入して、店を構えたり家を建てたりしている

浜坂の人は買い物や病院などの際に、豊岡市ではなく鳥取県鳥取市に向かうことが多い。大学進学時に鳥取市内の大学に進学する人も多いし、優秀な学生は高校から鳥取市の学校に通うこともある

とのことでした。店内にある橙色と緑色の照明は50年前の開店時から変わらないそうです。化粧品を売る "メイクコーナー" などもあり、古き良き昭和のブティックといった雰囲気でした。

(写真)浜坂映劇について話を聞いたフミヤ。

(写真)駅前通り。浜坂映劇の敷地を購入した5軒。

(写真)裏手に浜坂映劇があった宝専寺。

 

浜坂町にあった映画館について調べたことは「兵庫県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(兵庫県版)」にマッピングしています。

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