振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

南あわじ市の映画館

(写真)南あわじ市の特産品である淡路島産玉ねぎ。

2024年(令和6年)2月、兵庫県の淡路島南部にある南あわじ市を訪れました。「淡路島を訪れる」「淡路市の映画館」からの続きです。

 

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1. 映画館名簿

1954年の映画館名簿

全国的に映画館数が増加傾向にあった1954年(昭和29年)の映画館名簿を見ると、現在の南あわじ市域に当たる三原郡には、湊劇場、阿万劇場、都劇場、市村劇場、福良劇場の5館の映画館がありました。

(写真)『全国映画館総覧 1954年版』時事通信社、1954年。

 

1960年の映画館名簿

日本の映画館数が最も多かったのは1960年(昭和35年)であり、2024年(令和6年)現在のスクリーン数の2倍以上に相当する約7500館がありました。淡路島では洲本市に7館、現在の淡路市域に相当する津名郡に10館、現在の南あわじ市域に相当する三原郡に5館がありました。

(写真)『映画便覧 1960』時事通信社、1960年。

 

1970年の映画館名簿

1970年代初頭には津名郡三原郡の映画館がすべて閉館し、淡路島では洲本市以外から映画館がなくなります。1970年(昭和45年)の映画館名簿を見ると、現在の南あわじ市域では南淡町福良の福良劇場のみが残っています。現在の淡路市域と比べて残っていた映画館数が少ないのには、大都市との距離が関係していると思われます。

(写真)『映画便覧 1970』時事通信社、1970年。

(写真)南あわじ市域の映画館。地理院地図

 

2. 南あわじ市の映画館

2.1 都劇場(1950年7月-1961年頃)

所在地 : 兵庫県三原郡南淡町北阿万(1961年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「都劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「薬王寺」北100mの空き地。最寄港は福良港。

北阿万は三原平野の南部にある集落。JAあわじ島北阿万支所の敷地内には「武岡豊太翁頌徳碑」が建っています。北阿万出身の武岡は、神戸市の湊川の付け替え工事を完成させて新開地を築いた実業家であり、神戸最大の映画館街である新開地の発展に間接的に貢献した人物ともいえます。

北阿万は人口800人程度の町丁ですが、武岡の碑の他に「米田悦郎翁頌徳碑」(北阿万村長として大日川ダムの完成を実現)、「穀内定爾翁頌徳碑」(北阿万農協組合長)、「坂本亀太翁頌徳碑」(畜産業者?)という顕彰碑も建立されています。

(写真)筒井集落と「都劇場前」バス停。

 

南あわじ市コミュニティバス「らん・らんバス」は北阿万の集落を縦断していますが、北阿万字筒井に「筒井」バス停はなく、代わりに「都劇場前」バス停があります。映画館名簿によると、都劇場は1961年(昭和36年)頃には既に営業を終えているため、2024年(令和6年)現在もバス停名として残っているのはやや奇妙だと感じました。

(写真)南あわじ市らん・らんバス「都劇場前」バス停。

 

制服なども取り扱う衣料センターひがしらで店主と客に話を伺うと、

ひがしらから通りを南に約100m、青い屋根の民家の南側から西に入る路地があり、その奥に都劇場があった。都劇場では腹話術の興行があったのを覚えている。映画館が営業していた頃、バス通りから路地に入る場所の脇にはお好み焼き屋があった。現在も建物にはお好み焼き屋の面影があるかも知れない

映画館が閉館した後には富士電子が工場として使っていたが、私(66歳)が大学生だった46年前(1968年)頃に火事で焼けた」とのことです。跡地は空き地となっていました。

(写真)建物が残っていた1970年の都劇場跡地。地図・空中写真閲覧サービス

(写真)都劇場跡地の空き地。

 

昔の映画館はよく燃えている。一例として、1961年(昭和36年)9月から1962年(昭和37年)8月の1年間には全国の27館で建物が全焼または半焼する火災が起こっていますが、「前年同期の40件より13件の減少である」とのこと。1957年(昭和32年)9月から1958年(昭和33年)8月の一年間には50館も燃えており、毎週のように日本のどこかで映画館が燃えているという状況でした。

(写真)1961年9月から1962年8月の1年間に起こった映画館火災。『映画年鑑 1963年版』時事通信社、1963年。

 

1950年代には映画フィルムが難燃性フィルムに切り替わっているので、第二次世界大戦後すぐの時期が舞台の『ニュー・シネマ・パラダイス』のようにフィルム自身が発火するタイプの火災はほぼない。

最も多いのはボイラーの過熱であり、暖房器具の安全性がまだまだ低い時代だったのでしょう。ストーブやタバコの不始末という火災原因も一定数あり、「映写技師が映写室でタバコを吸っていたらフィルムに火が付いた」という例も。火災に対する意識が現代と比べると著しく低かったのがわかります。

 

2.2 美教劇場(1954年頃-1961年頃)

所在地 : 兵庫県三原郡三原町榎列(1961年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「美教劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

 

2.3 ワールド会館(1950年頃-1966年頃)

所在地 : 兵庫県三原郡三原町市557(1966年)
開館年 : 1950年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「市村劇場」。1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「ワールド」。1965年・1966年の映画館名簿では「ワールド会館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「淡路三原郵便局」南東100mの「ワールド会館駐車場」。最寄港は福良港。

三原町市(いち)の市中央商店街にはワールド会館がありました。三原平野の中央部にあり、1966年(昭和41年)までは淡路交通鉄道線(旧・淡路鉄道)の市村駅があった集落です。

「国際〇〇」という名称の映画館は洋画館であることが多いため、ワールド会館も洋画館かと思いましたが、映画館名簿によると邦画館であり、そもそも集落に1館のみの映画館が洋画館であるのは不自然。名称の由来は不明です。

(写真)建物が取り壊された1970年のワールド会館跡地。地図・空中写真閲覧サービス

 

跡地は月極駐車場となっており、「ワールド会館駐車場」の文字がうっすら残る看板もありました。※ワールド駐車場とも。

(写真)ワールド会館跡地のワールド会館駐車場。

(写真)ワールド会館跡地のワールド会館駐車場。

(写真)ワールド会館跡地のワールド会館駐車場。

(写真)ワールド会館が面していた市中央商店街。右が映画館跡地。

 

2.4 湊劇場(1927年4月-1967年頃)

所在地 : 兵庫県三原郡西淡町湊(1967年)
開館年 : 1927年4月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1966年・1967年の映画館名簿では「湊劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「南あわじ警察署湊駐在所」北東70mの「一井食品」。最寄港は湊港。

湊は淡路島西岸(西浦)において拠点性のある港町だったようであり、大正時代には大阪-高松航路の経由地となっていたほか、兵庫-明石-湊航路の終点でもありました。「日本三大瓦」のひとつである淡路瓦は、湊に近い津井や松帆が製造の中心であり、淡路瓦は湊港から大阪方面に運搬されていたようです。

湊劇場が開館したのは1927年(昭和2年)4月であり、西浦では早い時期に開館した劇場・映画館です。なお、開館の同年には三原郡湊村が町制を施行して湊町が発足しています。

(左)湊港に停泊する漁船。

 

航空写真には集落内でひときわ巨大な建物が写っているため、この場所で集落の方に話を伺いました。

映画館があったのは一井食品の場所であり、一井食品の北側と南側の建物の両方が映画館の敷地だった。南側の建物の手前から2番目のガレージ付近には、当時は稲荷神社があった。映画館の北側には和風建築の旅館があったが、10年くらい前に取り壊された。さらに北側にも旅館があった

映画館の経営者は遊び人だったため、映画館の建物が借金の抵当に入っていた。最終的には借金のために映画館を閉館せざるを得ず、その後すぐに敷地が分割された。この界隈ではよく知られた話である」とのこと。

(写真)1970年の湊劇場跡地。地図・空中写真閲覧サービス

(写真)湊劇場跡地の一井食品。

 

通りから湊劇場に向かう路地の脇には、昭和レトロな街灯のあるスナック湊の廃墟があります。通りの北端には割烹旅館の文字が残る建物があるほか、かつて旅館だったと思われる民家、腰壁や玄関の床面にモザイクタイルを用いた民家などもあり、この通りはちょっとした繁華街だったことが分かります。

(左)湊劇場に至る路地沿いのスナック湊。(右)湊劇場に至る路地。奥が湊劇場跡地。

(写真)スナック湊の街灯。

(写真)湊劇場が面していた通り。

 

 

2.5 阿万劇場(1940年代末-1969年頃)

所在地 : 兵庫県三原郡南淡町阿万上町(1969年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「阿万劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。

2015年(平成27年)に刊行された『写真アルバム 淡路島の昭和』(樹林舎)には、昭和30年代後半の阿万劇場の入口前で撮られた写真が掲載されています。撮影時には1951年(昭和26年)に大映が製作した三船敏郎主演作『馬喰一代』、1962年(昭和37年)の東映作品『大江戸の鷹』の2本立でしたが、10年以上前の作品を2本立に入れることもあるんですね。

 

2.6 福良劇場(1901年-1971年頃)

所在地 : 兵庫県三原郡南淡町福良乙751(1971年)
開館年 : 1901年(桝井座)、1947年(福良劇場)
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「桝井座」。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「福良劇場」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「真光寺」東北東50mにある駐車場。最寄港は福良港。

淡路島の南端にある福良は、四国の撫養港(現・徳島県鳴門市)行のフェリーの発着地として栄えた港町です。1985年(昭和60年)に大鳴門橋が開通したことで、福良港と撫養港を結ぶ全ての定期船が廃止されましたが、現在も観光船「うずしおクルーズ」の発着地として観光客を集めています。

(写真)福良港のうずしおクルーズ待合所。

 

1960年(昭和35年)の福良市街地の航空写真を見ると、福良商店街の裏通りから1軒分奥まった場所に、とても分かりやすく劇場の建物が写っていました。

(写真)1960年の福良劇場。地図・空中写真閲覧サービス

 

1991年(平成3年)の郷土資料『福良むかしむかし』(前田勝一)には、「言うて悪いが、今残っている建物を見ても構造も造作も立派といえないし」とあり、1991年(平成3年)時点では建物が現存していたようです。2004年(平成16年)の航空写真にもまだ建物が写っており、その後取り壊されて駐車場になったようです。

(写真)福良劇場の建物が残っていた2004年の福良市街地。地図・空中写真閲覧サービス

 

福良商店街の吉田精肉店近くにいた女性2人に話を伺うと、

ここから東側に二本先の路地を北に入った場所に映画館があった」とのこと。

(写真)福良劇場跡地の駐車場。

(写真)福良劇場が面していた福良商店街。

 

福良商店街には瀬戸の潮みず交流広場が建てた「一丁目」の立て看板がありました。「町内の名所旧跡等」のひとつとして「福良劇場(桝井座)跡」が書かれており、看板を立てた時にはまだ福良劇場の建物が残っていたのだと思われます。

(写真)福良劇場に言及している「(福良)一丁目」の立て看板。

 

かつての福良村の中心は福良商店街の東端にある三叉路であり、ひっそりと福良村道路元標が建っています。三叉路の周囲には、やぶ萬、福良館、長尾屋と現役の旅館/民宿が3軒もあり、中でも文久3年(1863年)創業のやぶ萬は淡路島に現存する最古の旅館だそうです。

(写真)福良の中心部にある旅館街。

 

南あわじ市の映画館について調べたことは「兵庫県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(兵庫県版)」にマッピングしています。

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