振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

岡田工業知多工場を訪れる

(写真)岡田工業知多工場の事務所。

2023年(令和5年)9月、愛知県知多市岡田町にある岡田工業知多工場を訪れました。

近代建築と思われるタイル張りの個性的な事務所があり、事務所の前には創業者である浅田磯弌(浅田磯一、あさだいそいち)の銅像「浅田磯弌翁像」があります。「知多岡田を訪れる」「知多岡田の映画館」に続きます。

 

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1. 銅像「浅田磯弌翁像」

1.1 碑文

浅田磯弌翁像

従六位勲六等浅田磯弌翁は明治二十二年一月四日大府町

に誕生大正八年岡田町に浅田織布工場を創設す爾来四十

八年間大高町に大高工場昭和八年大府町に浅田人絹織布

工場を建設昭和十四年名古屋市岡田工業㈱の社長に就任

率先垂範社運の高揚発展に盤石の礎を築かる繊維界及び

鉄鋼界の宏大なる功労に依り叙勲の御命に浴し単光旭日

章を授けられ昭和四十二年五月二十九日逝去せらるるや

生前の功績天聴に達し従六位に叙せらる 翁は至誠温厚

殊に敬神崇祖の念篤く社員一同は常住慈父の如く敬慕し

て止まず兹に会社創業五十周年を記念して胸像を建立し

謹みて翁の人徳雄姿を永劫に鑚仰せんとす

昭和四十四年十一月十一日 浅田繊維工業株式会社社員一同

(写真)銅像「浅田磯弌翁像」。

 

2. 浅田磯弌

2.1 浅田磯弌の経歴

「浅田磯弌翁像」から経歴の要点を抜き出すと以下のようになります。

1899年(明治22年)1月4日、浅田磯弌(浅田磯一)は愛知県知多郡大府町(現・大府市)に生まれた。1918年(大正7年)には知多郡岡田町(現・知多市)に浅田織布工場を作り、その後知多郡大高町(現・名古屋市)に大高工場を、1933年(昭和8年)に大府町に浅田人絹織布工場を作った。1939年(昭和14年)には名古屋市に岡田工業株式会社を設立し、自身が社長に就任した。

1967年(昭和42年)5月29日に死去した。生前には旭日単光章を受勲し、死後には従六位に叙せられた。1969年(昭和44年)11月11日、浅田繊維工業は創業50周年を記念して胸像を建立した。

(写真)岡田工業知多工場の事務所。

 

1923年(大正12年)の『愛知県商業名鑑』によると、合名会社浅田織布工場は1920年大正9年)6月創業、1924年大正13年)に知多商業会議所が発行した『知多商工案内』によると、合名会社浅田織布工場は1920年大正9年)6月8日設立とあります。碑文の年月とは2年のずれがありますが、創業が1918年(大正7年)で会社設立が1920年大正9年)ということでしょうか。

(写真)『知多商工案内』知多商業会議所、1924年

 

各年版の『大衆人事録』には浅田磯弌も掲載されています。1889年(明治22年)1月4日に伴政市の長男として生まれ、1905年(明治38年)に半田農業学校を卒業。時期は不明ですが浅田平太郎の養子となり、1919年(大正8年)に浅田織布工場を創設しました。

社業のほかには岡田町会議員、知多白木綿同業組合代議員、岡田自動車監査役知多郡綿布工維理事、福井精練名古屋工場監査役、愛知工機取締役、日本綿工連評議員、名古屋会館取締役、中部産業連盟理事なども務めていたようです。

1940年(昭和15年)に岡田工業の副社長に就任し、1943年(昭和18年)には岡田工業とアサダ商事の社長に就任し、1950年(昭和25年)には浅田貿易の社長に就任。1946年(昭和21年)に半田商工会議所が新発足した際には副会頭に就任しています。

(写真)『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年

(写真)『大衆人事録 第19版 東日本篇』帝国秘密探偵社、1957年。

 

2.2 料亭 櫻明荘

明治末期頃、2代目近藤友右衛門(近藤涛声)は名古屋・白壁に本宅として涛声閣を建造。近藤友右衛門は綿布問屋である信友の創業者です。

1948年(昭和23年)には浅田磯弌が涛声閣を買収した上で、愛妾(後に本妻)の芸者 浅田夏子を経営者とする料理旅館の鴎盟荘(鸚盟荘、おうめいそう)が開業しました。鴎盟荘は名古屋の財界人が集まる格調高い料亭とされていたようです。

 

1966年(昭和41年)に浅田磯弌が死去すると、浅田磯弌の息子と浅田夏子の間で遺産相続に関する一悶着があり、また浅田夏子は鴎盟荘の土地を狙った悪徳業者に騙されたことで、1971年(昭和46年)には12億~13億円の負債を抱えて廃業しました。

1972年(昭和47年)夏には日本信販が鴎盟荘の土地や建物を取得し、1974年(昭和49年)10月には名称を櫻明荘(読みは同じおうめいそう)に改めたうえで、会員制料亭として営業を再開しています。

 

2004年(平成16年)には坂倉建築研究所の設計によって、料亭 櫻明荘の跡地に7階建て高級マンションのグランドメゾン白壁櫻明荘が竣工。『新建築』2005年2月号にも掲載されています。敷地入口には長屋門がありますが、この門は料亭 櫻明荘時代の長屋門の復元であるように思われます。

参考:『中部財界』1973年9月号、『中部財界』1980年10月号、瀬口哲夫「櫻明荘の建築と空間構成」『芸術工学への誘い』名古屋市立大学、2004年3月