(写真)岩屋映劇の跡地にあるパチンコ店コンドル廃墟。
2024年(令和6年)2月、兵庫県の淡路島北部にある淡路市を訪れました。「淡路島を訪れる」からの続きです。「南あわじ市の映画館」に続きます。
1. 映画館名簿
1954年の映画館名簿
1954年(昭和29年)と1955年(昭和30年)の『全国映画館総覧』は「開館年」の欄がある点で価値が高い。残念ながら淡路市域の多くの映画館は開館年の欄が空欄なのですが、生穂劇場が1929年(昭和4年)12月開館ということが分かります。
(写真)『全国映画館総覧 1954年版』時事通信社、1954年。
1960年の映画館名簿
日本の映画館数が最も多かったのは1960年(昭和35年)であり、2024年(令和6年)現在のスクリーン数の2倍以上に相当する約7500館がありました。淡路島では洲本市に7館、現在の淡路市域に相当する津名郡に10館、現在の南あわじ市域に相当する三原郡に5館がありました。
(写真)『映画便覧 1960』時事通信社、1960年。
1970年の映画館名簿
1970年代初頭には津名郡と三原郡の映画館がすべて閉館し、淡路島では洲本市以外から映画館がなくなります。1970年(昭和45年)の映画館名簿を見ると、現在の淡路市域では津名町志筑の志筑三島座、淡路町岩屋の岩屋映劇、北淡町室津の室津映劇の3館のみが残っています。
(写真)『映画便覧 1970』時事通信社、1970年。
2. 淡路市の映画館
2.1 生穂劇場(1928年12月-1961年頃)
所在地 : 兵庫県津名郡津名町生穂町(1961年)
開館年 : 1928年12月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1929年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「生穂劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
2.2 仮屋劇場(1954年頃-1961年頃)
所在地 : 兵庫県津名郡淡路町仮屋(1961年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「仮屋淡路劇場」。1958年・1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「仮屋劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
2.3 東淡銀映(1959年頃-1964年頃)
所在地 : 兵庫県津名郡淡路町久留麻1964(1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「東淡銀映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
津名郡淡路町久留麻にあった東淡銀映。映画館名簿には久留麻1964という番地が掲載されている年度があり、1963年(昭和38年)や1975年(昭和50年)の航空写真を見ると、この番地の場所に巨大な建物が建っています。
(写真)1975年の久留麻市街地。地図・空中写真閲覧サービス
2.4 岩屋淡路劇場(1923年8月-1965年)
所在地 : 兵庫県津名郡淡路町岩屋(1961年)
開館年 : 1923年8月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「岩屋淡路劇場」。1956年・1957年・1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「淡路劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
淡路島の北端にある岩屋は明石海峡を臨む集落であり、9世紀には既に本州の明石との間に渡し舟が運航されていました。瀬戸内海から大阪湾に入る戦略的重要性の高い場所にあることから、戦国時代には毛利軍と織田軍の海戦も行われています。1998年(平成10年)に明石海峡大橋が開通してからも、淡路ジェノバラインが岩屋と明石を結ぶ定期船の運航を続けています。なお、淡路島南端の福良と四国を結ぶ定期航路は廃止済です。
演劇や活動写真の興行を行う劇場として、1923年(大正12年)8月には給田の浜辺に岩屋淡路劇場が新築されています。2階に桟敷席があった木造2階建の劇場であり、総工費は3万7000円。1926年(大正15年)以後は岩屋倶楽部(後の岩屋映劇)と競合し、岩屋映劇より早い1965年(昭和40年)に閉館しています。
住宅地図や文献では正確な跡地が分かりませんが、文献に見える「給田の浜辺」という記述と航空写真を照らし合わせると、淡路市岩屋公民館に近い岩水橋の南西側の敷地にあったようです。
(写真)1961年の岩屋市街地。地図・空中写真閲覧サービス
(写真)岩屋淡路劇場の跡地と思われる地点。Googleストリートビュー
2.5 郡家会館(1954年頃-1966年頃)
所在地 : 兵庫県津名郡一宮町郡家(1966年)
開館年 : 1954年頃
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「郡家会館」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1966年の映画館名簿では「郡家会館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。
2.6 富島劇場(1924年12月18日-1967年)
所在地 : 兵庫県津名郡北淡町富島847(1967年)
開館年 : 1924年12月18日
閉館年 : 1967年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1967年・1969年の映画館名簿では「富島劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「住吉神社」南東90mにある民家など。阪神・淡路大震災後の土地区画整理事業によって道路割が変化しているので参考程度に。最寄港は富島港。
淡路島西岸(西浦)の津名郡北淡町富島(としま)には富島劇場がありました。富島港は鮮魚運搬船である生船(なません)の中継基地であり、九州などで水揚げした魚を生船で大阪に運んでいた港町です。生きた高級魚が料亭などで珍重されたとのこと。劇場は大正初期の1924年(大正13年)という早い時期に開館しています。
映画館名簿に掲載された番地や航空写真から富島劇場跡地と推定できる場所で話を聞くと、
「(父はともかく)私は富島出身ではないが、この家の東側に映画館があったと聞いている」とのことでした。土地区画整理事業の影響で明確な跡地は存在しませんが、跡地は民家や道路用地などとなっています。
(写真)富島劇場の跡地付近にある道路や民家。
(写真)1963年の富島劇場。地図・空中写真閲覧サービス
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災では、淡路島で最大の犠牲者を出した自治体が北淡町でした。北淡町の中でも犠牲者数・死亡率が最大だったのが富島地区であり、富島市街地では倒壊した建物も多かったとのこと。
震災後には土地区画整理事業が行われましたが、区画整理への支持/不支持で地区が二分されたようです。多くの民家が震災後に再建された建物であり、住吉神社の鳥居にも平成八年十月吉日(震災翌年)と刻まれていました。かつて商店街だった通りも拡幅されています。
(写真)富島劇場に近い住吉神社。(右)震災翌年の1996年に建立された鳥居。
2.7 室津映劇(1952年頃-1970年頃)
所在地 : 兵庫県津名郡北淡町室津(1970年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「室津淡路劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「室津映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「室津映劇」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「淡陽信用組合室津支店」。最寄港は室津漁港。
西浦にある淡路市室津は水産加工業が盛んな地区です。集落の中心には立派な山門を有する室津八幡神社があり、山門の脇には室津村道路元標が建っています。航空写真から室津劇場の跡地を推測し、山門の南東にある高田酒店で店主夫妻に話を伺うと、
「高田酒店の西、神社の参道にある淡陽信用組合室津支店の場所に映画館があった。(映画館の名前を聞くと)名前は何だったか。室津映画館だったかもしれない。岩屋(現・淡路市岩屋)の岡田さんが経営していた。今は姓が変わっているかも知れない」
「なお、淡陽信用組合の東隣にあるビルは農協だった建物である。淡路島の地酒で特にお薦めなのは千年一酒造である。とてもおいしい酒である」とのことでした。
(写真)1961年の室津映劇。地図・空中写真閲覧サービス
(写真)室津八幡神社の参道。右は室津映劇跡地の淡陽信用組合室津支店。
2.8 志筑三島座(1914年-1970年頃)
所在地 : 兵庫県津名郡津名町志筑3029(1970年)
開館年 : 1914年
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三島座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「志筑三島座」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高島眼科クリニック」北東90mの「三嶋グリーンハイツ」。最寄港は津名港。
江戸時代の志筑浦は風待ち港であり、淡路島東岸(東浦)における拠点のひとつでした。幕末に編纂された『淡路国名所図絵』には、淡路島で最も繁昌した港であることや、毎日の頻度で大阪に定期船が運航されていたことが記されています。志筑三島座の開館は1914年(大正3年)であり、洲本を除く東浦では最も早く開館した劇場のひとつです。
1970年(昭和45年)の映画館名簿によると、志筑三島座の所在地は津名郡津名町志筑3029とのこと。現在の淡路市志筑3209(※3029ではなく3209)にはスナックなどが入る2棟の三嶋グリーンハイツ(※三島ではなく三嶋)が建っています。三嶋グリーンハイツを映画館跡地と推測し、この場所に近い浅川食品店の女性に話を伺うと、
「浅川食品店の南東にある緑色の建物の場所に三島座という映画館があった。サリーちゃんの映画を観たことがある」とのことです。なお、『魔法使いサリー』は1967年と1968年に映画化されています。
(写真)1963年の志筑三島座。地図・空中写真閲覧サービス
(写真)志筑三島座跡地にある三嶋グリーンハイツ。
(写真)志筑三島座跡地にある三嶋グリーンハイツ。
2.9 岩屋映劇(1926年8月-1971年頃)
所在地 : 兵庫県津名郡淡路町岩屋(1971年)
開館年 : 1926年8月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「岩屋倶楽部」。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「岩屋クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿では「岩屋映劇」。1960年の映画館名簿では「岩屋映画劇場」。1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「岩屋映劇」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「円徳寺」北北東30mのパチンコ店廃墟。最寄港は岩屋港。
1923年(大正12年)には淡路島北端の岩屋に岩屋淡路劇場が開館しますが、その3年後の1926年(大正15年)には競合する岩屋倶楽部も開館しています。淡路島において戦前から複数の劇場があった集落は洲本と岩屋のみです。
映画館名簿によると、岩屋淡路劇場は1965年(昭和40年)に閉館しますが、岩屋倶楽部から改称した岩屋映画劇場は1970年代初頭まで営業していたようです。
(写真)1957年の岩屋映劇。『写真アルバム 淡路島の昭和』樹林舎、2015年。
(写真)岩屋映劇のファサード。『淡路町風土記』淡路町、1971年。
岩屋映劇の跡地と推測した喫茶モカの店員と常連客(いずれも70代か)に話を伺いました。
「モカの向かいにはパチンコ店の廃墟があるが、この場所に岩屋映画館があった。2本立てであり、後半1本だけだったら半額で入れた。終了間際には10円で入れた。子どもであれば建物の裏の塀を乗り越えて建物に入れたが、もぎりの怖いおばちゃんに捕まることもあった。学校の映画鑑賞会などで学年ごとに映画を観に行った」
「閉館後に建物を取り壊し、跡地にパチンコ店の建物が建った。モカが面する岩屋商店街はバス通りであり、かつてモカの場所には淡路交通のバス車庫があった(※モカは1962年創業の老舗喫茶店)」
(写真)1961年の岩屋市街地。地図・空中写真閲覧サービス
「岩屋にあった映画館は1館のみである。岩屋を離れると志筑まで行かないと映画館はなかった。志筑まではバスで行けたが遠かったのでそれほど観に行く機会はなかった。さらに遠くであれば、本州の明石、または淡路島中央部の洲本まで行く必要があった」
とのことでした。
(左)昭和初期の観音寺付近から見た岩屋市街地と岩屋港。『淡路島今昔写真集』樹林舎、2006年。(右)観音寺に向かう石段。左写真の180度逆方向。
(写真)岩屋映劇跡地にあるパチンコ店コンドルの建物。
(写真)パチンコ店コンドルのネオンサイン。
(写真)パチンコ店コンドルの建物。
喫茶モカでは「淡路島にはお好み焼き店や喫茶店が多い」とも聞きました。確かに岩屋商店街だけでも複数のお好み焼き店や喫茶店があり、人によって行きつけのお好み焼き店/喫茶店が異なるようです。
(写真)岩屋商店街の西端にある商店街アーチ。
(写真)岩屋商店街の中央部。左はパチンコ店コンドル廃墟、右は喫茶モカ。
岩屋商店街には看板建築の扇湯 - Wikipediaがありますが、長期休業中のようでした。建物は昭和初期の竣工とされ、2010年代にはファン有志による取り組みで廃業の危機を乗り切ったようです。2016年(平成28年)には笹野高史主演の映画『あったまら銭湯』の舞台となっています。
(写真)扇湯。
(写真)喫茶モカ。
(写真)喫茶モカのホットコーヒー。
淡路市の映画館について調べたことは「兵庫県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(兵庫県版)」にマッピングしています。