振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

「石川喜平先生頌徳碑」を訪れる

(写真)喜平公園。

2023年(令和5年)5月、愛知県安城市高棚町にある石碑「石川喜平先生頌徳碑」と胸像「石川喜平直頼翁像」を訪れました。
 

1. 安城市高棚町を訪れる

明治用水 - Wikipedia開削の功労者として都築弥厚がいますが、石川喜平は測量面で都築弥厚に協力した和算家です。高棚神明神社の東側には石川喜平の顕彰を目的として整備された喜平公園があり、揚げ川方式による明治用水の仕組みが再現されています。石碑「石川喜平先生頌徳碑」が建立されており、碑文の意訳が書かれた説明看板が立てられています。

他には、安城市立高棚小学校の敷地内には胸像「石川喜平直頼翁像」があります。高棚町郷403の高龍義氏邸の場所に喜平の生家があったようです。

(写真)喜平公園にある明治用水の再現。

 

1.1 石川喜平の経歴
天明8年(1788年)、石川喜平は三河国碧海郡高棚村前久手(現・安城市高棚町郷)の富農の家に生まれた。父は理平であり、喜平は三男である。碧海郡合歓木村(現・岡崎市合歓木町)の清水幸三郎に師事したが、清水は関孝和直系の第8代の師範である。喜平は測量・天文・暦などを会得した学者であり、農民・大工・商人・武士らに教えた。
文政5年(1822年)には用水開削を目指す都築弥厚に協力し、弟子の石川浅右衛門らとともに実地測量を実施した。文政10年(1827年)秋には測量を終えて正確な測量図が完成した。天保6年(1835年)には都築弥厚が用水の完成を見ることなく病没した。文久2年(1862年)8月20日、喜平も75歳で死去した。
1868年(明治元年)には碧海郡大浜村(現・碧南市)の岡本兵松が水路の開削計画を提出した。1872年(明治5年)には碧海郡阿弥陀堂村(現・豊田市畝部西町)の伊豫田与八郎も水路の開削計画を提出し、1874年(明治7年)には両者の計画が一本化された。
喜平の死去から17年後の1879年(明治12年)、用水本流の開削工事が開始され、1880年明治13年)には本流が完成、1881年明治14年)には明治用水命名された。1957年(昭和32年)5月には「石川喜平先生頌徳碑」が建立された。喜平の墓は高棚町の中島墓地にある。

(写真)喜平公園にある説明看板。

(写真)喜平公園にある説明看板。

(写真)喜平公園にある説明看板。
 
1.2 石碑「石川喜平先生頌徳碑」
石川喜平先生は天明八年碧海郡高棚村前久手に理平の三男として生文久二年八月享年七十五歳にて没せらる資性は温厚篤実しかも偉丈夫の風格を備う 
先生は和算の学聖関孝和の直統の第八代の師範同郡合歓木村の清水幸三郎の門に入り算学天文暦法を学びて奥義を究め第九代の師範を継承し多数の門弟を教導せり 
当時和泉村の都築弥厚は碧海郡の広野に一大用水路の開発を計画し喜平先生に実地の測量を委嘱せしも諸般の複雑なる事情に鑑み先生は中止方を再三忠告せり
然るに弥厚の決意の固きを知るや兹に決死的な覚悟をもって協力を約し高弟の石川浅右衛門等を従え文政五年の春に測量に着手す
素より事業の困苦は言語に絶し生命の危機も冒して文政十年の秋遂に測量を完了せり
思うに遠大なる広野の開発計画も喜平先生の非凡なる技量によりてその成立を見るに至りやがて百世の利澤を布く明治用水の渕源をな
嗚呼この偉大なる科学的作為この烈々たる郷土愛の精神これぞわれ等の学ぶべき道
蓋しその功績は永遠に不滅なり
讃えん哉
敬せん哉
わが郷土の大先覚者石川先生の遺徳を万代に伝えんため茲に有志謀りて些か頌徳の誠を致す所以なり
 
昭和三十二年五月建立
高棚町民一同

 

(写真)「石川喜平先生頌徳碑」碑文の一部。

 

1.3 胸像「石川喜平直頼翁像」

安城市立高棚小学校の正門脇にある胸像「石川喜平直頼翁像」です。

(写真)「石川喜平直頼翁像」。