振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

稲沢市を訪れる

(写真)稲沢市の旧稲葉宿。

2023年(令和5年)2月、愛知県稲沢市の旧稲葉宿を訪れました。「稲沢市の映画館」に続きます。

 

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1. 稲沢市の和風建築

1.1 山田市三郎邸(18世紀前半)

旧稲葉宿の中央には山田市三郎邸があり、間口10間半、奥行7間半という大きな町屋が目を引きます。

山田市三郎家は江戸時代に尾張藩の為替御用達を務めた素封家であり、50町歩以上の土地を持つ大地主でした。1900年(明治33年)には山田市三郎家の北向かいに稲沢銀行が設立され、嘉永3年(1850年)生の6代目山田市三郎(山田深三郎)が取締役頭取となっています。稲沢銀行は戦時中に千秋銀行や清洲銀行の営業権を譲り受け、一時期は尾張地方唯一の本店銀行となっていますが、戦時下の一県一行主義(戦時統合)によって東海銀行に吸収されています。

(写真)山田市三郎邸。

 

7代目山田市三郎(山田佑一)は1876年(明治9年)生であり、1907年(明治40年)には稲沢織布を設立、1912年(明治45年)には稲沢電気を設立して経営者となっています。その他には特に耕地整理事業による農業振興に取り組んだようです。1939年(昭和14年)には稲沢田園土地の社長に就任し、住宅地の開発にも着手したようですが、戦争の影響で実現には至らなかったという点に興味を持ちました。

1965年(昭和40年)の『東海人物春秋』(報道春秋社)には、8代目山田市三郎が掲載されています。8代目山田市三郎は1901年(明治34年)3月21日に生まれ、旧制第八高等学校(現・名古屋大学)、東京大学法学部英法科というエリートコースを進み、父が頭取を務めていた稲沢銀行に就職すると、東海銀行取締役を務めていた1952年(昭和27年)に太道相互銀行(現・中京銀行)頭取に就任しています。

(写真)山田市三郎邸。

 

1.2 山田文七邸(1881年

山田市三郎邸の北東には山田文七邸があり、『新修稲沢市史 研究編1 建造物』(稲沢市、1978年)には詳細な解説があります。山田文七(名跡)も山田市三郎と同じくこの地の名士であり、稲沢銀行や稲沢電気の発起人に名を連ねています。

(写真)山田文七邸。

(写真)山田文七邸。

 

1.3 藤市酒造店

藤市酒造は1870年(明治3年)創業の酒蔵。銘柄は「なおい」や「菊鷹」。

(写真)藤市酒造店。

(写真)藤市酒造店。(左)「瑞豊」の酒屋看板。

(写真)藤市酒造店。勝幡街道側。

 

2. 稲沢市の近代建築

2.1 中高記念館(1880年

1880年明治13年)10月17日、中島郡稲葉村の禅源寺近くにこの建物が建築されましたが、当初の用途については記録がないようです。1887年(明治20年)4月には中島郡高等小学校が開校し、この建物が高等小学校に転用されると、1893年明治25年)には稲沢高等小学校に改称しています。1912年(明治45年)1月には中島郡稲沢町大字高御堂に移築され、一時期は稲沢町役場として使用されます。

1929年(昭和4年)には稲沢町役場が新築され、この建物は再び高等小学校となりますが、その後は稲沢町農会や宮田用水が使用していたようです。海軍大臣を務めた大角岑生を総裁として移転と保存が計画され、1940年(昭和15年)10月に現在の稲沢市立稲沢中学校の敷地内に移築されて中高記念館となります。戦後の1957年(昭和32年)7月からは愛知県中島地方駐在員室として使用されました。

1960年(昭和35年)には現在地の小池正明寺町(現・国府宮2丁目)に移築され、稲沢市教育委員会によって使用されました。1970年(昭和45年)には稲沢市役所が郊外に移転すると同時に教育委員会も移転し、福田悪水土地改良区や稲沢市役所北出張所などが入りました。1975年(昭和50年)に稲沢市有形文化財に指定され、1978年(昭和53年)6月には郷土資料館として一般開放が開始されました。

この建物は3度も移築し、高等小学校以外にも様々な用途に利用されました。現在は有効に活用されていません。

(写真)中高記念館。

(写真)中高記念館。

 

2.2 旧中部電力稲沢営業所(1936年)

藤市酒造店のはす向かいにはひときわ目だつ近代建築があります。鉄筋コンクリート造2階建(一部3階建)の建物の前面にはパラペット部分までスクラッチタイルが貼られ、和風建築の多い旧稲葉宿ではものすごい存在感です。

1912年(明治45年)、7代目山田市三郎(山田佑一)を社長とする稲沢電気が設立され、1920年大正9年)には稲沢電灯に改称しています。1936年(昭和11年)にこの近代建築が建てられ、1939年(昭和14年)には東邦電力に吸収されています。

(写真)旧中部電力稲沢営業所。

(写真)旧中部電力稲沢営業所。

(写真)旧中部電力稲沢営業所。

 

2.3 旧稲葉郵便局(戦前)

稲葉郵便局の初代局長は先にも述べた山田市三郎であり、山田市三郎邸が郵便局の所在地だったようです。1887年(明治20年)には小沢村と稲葉村が合併して稲沢町が発足し、初代稲沢町長には郵便局長を務めていた山田市三郎が当選。逓信大臣による認可状を受けて兼任が認められました。

1893年明治26年)には田島新蔵が2代目稲葉郵便局長に就任し、稲葉郵便局の場所は田島新蔵邸に移ります。この場所は現在の稲沢市西町2丁目12-23であり、漆喰壁、格子、虫籠窓などがある町屋の玄関先にある丸型ポストが郵便局の名残です。その後田島新蔵は愛知県会議員に選出されており、1896年(明治29年)には郵便局長を辞任しています。

1896年(明治29年)には飯田要吉が3代目稲葉郵便局長に就任し、稲葉郵便局の場所は飯田要吉邸に移ります。1945年(昭和20年)10月には稲沢郵便局に改称。この場所は現在の稲沢市稲葉3丁目6-18であり、1958年(昭和33年)までこの場所で郵便業務が営まれました。

(写真)1946年の稲沢郵便局。改称翌年であり「局便郵澤稲」の文字が見える。『写真アルバム 稲沢・清須の昭和』樹林舎、2014年。

 

1962年(昭和37年)の住宅地図では稲沢郵便局電話分室、1966年(昭和41年)の住宅地図では尾西信用金庫、1976年(昭和51年)の住宅地図では家具センターキムラとあり、郵便局移転後にも様々な用途に使われたようです。2023年(令和5年)現在、和風建築の飯田要吉邸の東側には旧稲葉郵便局の近代建築が現存しています。

(写真)旧稲葉郵便局。

(写真)飯田要吉邸と旧稲葉郵便局。

 

2.4 旧稲沢郵便局(1959年)

1957年(昭和32年)には特定郵便局から普通郵便局に変更され、1959年(昭和34年)には稲葉郵便局が移転して稲沢郵便局に改称します。1974年(昭和49年)には稲沢郵便局が再度移転して現行の局舎となっています。1959年(昭和34年)から1974年(昭和49年)まで使用された建物は、稲沢市シルバー人材センターとして現存しています。

(写真)旧稲沢郵便局。

 

3. その他の建物

禅源寺には寛永年間(1624年~1645年)建立の勅使門があり、稲沢市有形文化財に指定されています。

(写真)禅源寺勅使門。