振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

武芸川町跡部の映画館

(写真)小瀬鵜飼をモチーフにした看板。

2022年(令和4年)6月、岐阜県関市武芸川町跡部を訪れました。かつて武芸川町跡部には映画館「栄盛座」がありました。

 

1. 武芸川町跡部を訪れる

1.1 跡部の街並み

武儀郡(むぎぐん)の武芸川町(むげがわちょう)は2005年(平成17年)に関市に編入された自治体であり、関市街地から北東方向に6-8kmの距離にあります。水に恵まれている中山間地域としては小麦畑が多かったのですが、何か理由があるのだろうか。武芸川町には明確な中心集落がないように思えますが、跡部のみには映画館が存在したようです。

(写真)跡部の街並み。

(写真)跡部の街並み。

(写真)跡部の街並み。

(写真)跡部の街並み。

(写真)跡部の街並み。

 

(写真)秋葉神社

 

(写真)武儀川

 

2. 武芸川町文化施設

2.1 関市武芸川民俗資料館

武儀川の南岸には関市武芸川民俗資料館があります。武芸川町八幡にあった民家を移築したとのこと。

(写真)関市武芸川民俗資料館。

(写真)関市武芸川民俗資料館。

(写真)関市武芸川民俗資料館。

 

2.2 関市立図書館武芸川分館

2005年(平成17年)に関市に編入された2町3村はそれぞれ図書室を有していました。旧武芸川町と旧武儀町にあった図書室は関市立図書館の分館、旧洞戸村と旧板取村と旧上之保村にあった図書室は分室という位置づけになっています。

武芸川町の公共施設は八幡集落の北西に固まっており、関市武芸川事務所、関市武芸川ふるさと館(多目的ホール)、武芸川温泉(日帰り入浴施設)、武芸川健康プールなどが並ぶ一角に武芸川生涯学習センターがあります。

(写真)関市立図書館武芸川分館。

 

武芸川生涯学習センター内にある関市立図書館武芸川分館には靴を脱いで入ります。入口付近ではなく中央部にカウンターがあるのも珍しいのですが、基本的に職員は不在でした。武芸川地域の人口は6000人台。床面積は242m2、蔵書冊数は約3万冊です。

(写真)関市立図書館武芸川分館。図書室入口。

(写真)関市立図書館武芸川分館。閲覧席。

(写真)関市立図書館武芸川分館。カウンター付近。

(写真)関市立図書館武芸川分館。郷土資料。

(写真)関市立図書館武芸川分館。文芸書。

(写真)関市立図書館武芸川分館。雑誌コーナー。

 

3. 武芸川町跡部の映画館

3.1 栄盛座(1929年-1970年)

所在地 : 岐阜県武儀郡武芸川町跡部(1970年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1970年
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「栄盛座」。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「栄盛座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年の映画館名簿では「跡部劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1960年代前半の『映画館名簿』には武芸村の映画館として栄盛座が、1960年代後半の『映画館名簿』には武芸川町の映画館として跡部劇場が掲載されています。両者は同一施設だと思うのですが、栄盛座時代は木造1階建てで定員が382、跡部劇場時代は木造2階建てで定員が150と異なっているのは気になります。なお、この時代の映画館名簿における構造や定員の記述はあてにならないことが多いです。

(写真)栄盛座が掲載されている『映画便覧 1960』時事通信社、1960年。

(写真)跡部劇場が掲載されている『映画便覧 1970』時事通信社、1970年。

 

関市立図書館武芸川分館しか所蔵していない『武芸川町ふるさと探訪』(北瀬富男、1988年)には跡部集落内の地図が掲載されており、南武芸橋の東詰近くに栄盛座が描かれています。文章でも栄盛座の場所について言及しており、栄盛座の場所がわかる唯一の文献だと思われます。

(写真)栄盛座が描かれている『武芸川町ふるさと探訪』北瀬富男、1988年。

(写真)栄盛座に言及している『武芸川町ふるさと探訪』北瀬富男、1988年。

(写真)栄盛座に言及している『武芸川町ふるさと探訪』北瀬富男、1988年。

 

南武芸橋は何度も架け替えられており、1940年(昭和15年)には全長145m×幅3.1mの土橋となりました。1948年(昭和23年)の航空写真を見ると、南武芸橋の東詰正面に栄盛座が見えます。武儀川の河川敷には何やら人工的な区画が見えますが何でしょうか。

(写真)1948年の跡部と栄盛座周辺。地図・空中写真閲覧サービス

 

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では南武芸橋が流出。その後数年間は仮設橋と渡船でしのぎ、1961年(昭和36年)には永久橋が架けられています。木造橋時代より東詰が北側に移動し、栄盛座は南武芸橋からやや離れた位置となりました。

1999年(平成11年)には現行の南武芸橋が架けられています。東詰の位置は変わらなかったものの、西詰の位置は100mも南側に移動しており、現行の南武芸橋は武儀川を斜めに渡る橋となっています。

(写真)1960年代の跡部と栄盛座跡地周辺。地理院地図

 

跡地に栄盛座の痕跡はありません。跡地の東側には跡部地蔵大菩薩(川北の地蔵堂)があります。説明看板を読んでも由緒がよくわかりませんが、5体の地蔵が並んでいます。

(写真)栄盛座跡地。左の茶色の民家。右は武儀川の河川敷。

(写真)栄盛座跡地の西隣にある跡部地蔵大菩薩(川北の地蔵堂)。

 

武芸川町跡部にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

 

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