(写真)毛原の棚田。
2022年(令和4年)7月3日(日)、京都府福知山市大江町毛原で開催された「第2回毛原ウィキペディア勉強会」に参加しました。
1. 毛原を訪れる
毛原は「毛原の棚田」で知られている集落です。京丹後市にある「袖志の棚田」とともに、京都府で日本の棚田百選に選定されている2件のみの棚田です。2021年度(令和3年度)には宇川地域で複数回のウィキペディアタウンを開催し、袖志 - Wikipediaや袖志の棚田 - Wikipediaも作成しています。
(写真)毛原の棚田。(左)中央部。(右)下部。
(左)耕作放棄された棚田。(右)棚田の水利。
イベント中はずっと雨が降っていましたが、降りやんだイベント後に軽く集落内を散策しました。棚田を撮る観光客は一定数いると思われますが、棚田以外の集落の様子についても今の記録を残したい。撮った写真はCategory:Kehara - Wikimedia Commonsにアップロードしています。
(写真)棚田と集落。
(左・右)集落。
(写真)化粧地蔵。
(左・右)入母屋造の民家。
(左・右)入母屋造の民家。
(左・右)入母屋造の民家。
(写真)野菜畑。家庭菜園。
(左)クリ畑。(右)柿畑。
2. Wikipedia編集
毛原では地域活性化のために様々な取り組みを行っています。取り組みの一つが「縁側喫茶」であり、第1・第3日曜の昼間に持ち回りで民家の縁側を開放する試みです。毛原の住民と住民、毛原の住民と他地域の毛原ファンが交流する場であり、縁側喫茶の中の勉強会として今回のウィキペディア講習会が企画されました。
(写真)縁側喫茶。
編集記事
毛原 - Wikipedia - 新規作成
毛原の棚田 - Wikipedia - 新規作成
河守鉱山 - Wikipedia - 新規作成
宮川 (福知山市) - Wikipedia - 新規作成
(写真)大型モニターで成果発表。新規作成された「毛原の棚田」。
2.1 河守鉱山
毛原集落から北西に2km、日本の鬼の交流博物館などがある酒呑童子の里には、かつて河守鉱山(日本鉱業株式会社河守鉱業所)がありました。毛原の範囲内ではありませんが、住民の方にとってなじみ深い歴史ということで編集対象となりました。
日本鉱業株式会社の旗艦となる鉱山は久原房之助によって買収された日立鉱山。大正期には第一次世界大戦による好景気が起こり、1918年(大正7年)には金の生産量で全国比40%、銀で50%、銅で30%という日本最大の鉱業会社となっています。戦後恐慌による経営難の際に縮小整理や合理化を進め、所有鉱区面積が縮小していた1928年(昭和3年)に取得したのが河守鉱山です。日本鉱業の主力鉱山とまでは言えないものの、戦後の昭和30年代には京都府最大の鉱山であり、1969年(昭和44年)に休山、1973年(昭和48年)に閉山するまで稼働を続けました。
昭和30年代の最盛期には200人の炭坑夫、家族を合わせて1000人の人口を抱えていた鉱山です。同時期の毛原の人口は約100人。毛原の10倍もの人口の街が、わずか数十年間だけ存在していたわけで、かつての鉱山の立ち位置や存在感などを詳しく聞いてみたいところです。
(写真)最盛期の河守鉱山。『五十年史』(日本鉱業、1957年)。
私は前から河守鉱山の名前を知っていました。河守鉱山には映画を上映していた福利厚生施設として「河守会館」があり、河守会館の建物は体育館として現存するからです。毛原の方が河守鉱山に関する『両丹日日新聞』の記事をもってきてくださいましたが、この記事の中にも河守会館が言及されていました。
2.2 宮川
私が新規作成したのは宮川 (福知山市) - Wikipedia。毛原を流れる毛原川が合流する河川であり、その後は南流して大江市街地で由良川に合流しています。ウェブ検索ではほとんど情報が出てこず、延長距離の点でも流域面積の点でも規模の大きな河川ではありますが、『大江町誌』を読んで興味深い河川であることがわかったため新規作成に踏み切りました。
自然・施設
上流部は丹後天橋立大江山国定公園の選定範囲にあり、中流部の二瀬川渓流は「京都の自然200選」に選定されています。本流の脇には内宮発電所と橋谷発電所という2つの水力発電所があります。規模の割にキーワードが多い河川であり、文献をキーワードで検索すればさらに面白い言及が見つかるかもしれません。
名称
宮川の中流域には元伊勢と呼ばれる皇大神社があります。私は愛知県に住んでいて伊勢神宮には馴染みがあるため、(本家伊勢神宮のそばにも同名の河川がある)宮川という名称の由来について気になりました。福知山市の宮川の一部区間は五十鈴川と呼ばれますが、本家伊勢神宮のそばにもやはり五十鈴川という河川が流れています。今回閲覧した文献では宮川という名称の由来やエピソードなどを発見できませんでしたが、いつか探してWikipediaに書き加えたい。
歴史
平安時代には源頼光一行が二瀬川渓流にやってきた逸話があり、江戸時代には俳人の加賀千代女、地誌書『丹哥府志』などが千丈ヶ滝に言及しています。2018年(平成30年)の「井手町ウィキペディア・タウン」で玉川 (井手町) - Wikipediaという記事を作成した時にも感じましたが、軽く調べただけで歴史的なエピソードが多数見つかる点には京の都からの距離の近さを感じます。
加賀千代女『老足の拾ひわらじ』(18世紀)
仏性寺村から十町ばかり登ると千丈ヶ瀧あり、ほかの瀧とことかわり、流れするどく岩の上落ちては踊り上り水玉水煙、分けて洪水の時は、目を驚かすと人の語りける
『丹哥府志』(1763年)
千丈ヶ瀧は、千丈ヶ嶽鬼の窟の西にあり、此滝二瀬川へ落るなり、瀧の広さ三間余、高さ四五十間、岩に添ひて流る不動堂あり。二瀬川といふは、二川合流のところなり。よって名とす。一は千丈ヶ瀧より流れ、一は千歳嶺より流る。