振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

紀伊長島の映画館

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(写真)三河劇場の建物を転用したガレージ。

2020年(令和2年)12月、三重県南部の北牟婁郡紀北町にある紀伊長島地区を訪れました。

昭和30年代の紀伊長島には「長島中央劇場」「大洋館」「三河劇場」「長島映画劇場」の4館の映画館がありました。三河劇場の建物はガレージに転用されて現存しています。「紀北町紀伊長島図書室を訪れる」からの続きです。

 

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1. 紀伊長島を歩く

1.1 魚まち

紀伊長島で最も建物の密度が濃い通りは、「魚まち」と呼ばれるエリアの旧熊野街道です。「魚まち」には現在もそれなりの数の個人商店が残っています。JR紀伊長島駅の北側にはスーパーマーケットやドラッグストアなどの大型店が並ぶ新市街地が形成されていますが、「魚まち」と新市街地の間には赤羽川が流れており、それなりに距離があるためだと思われます。

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(写真)旧熊野街道。(左)紀北信用金庫付近。(右)魚まちのたまり場付近。

 

漁師町である紀伊長島の路地は、海岸線に並行する数本の通りと、その通りを結ぶ短い路地で構成されています。民家の密集度合はかなりのものであり、隣接する民家と壁面が接続している民家が多く残っています。空き家も多いと思われますが、取り壊すのにも一苦労なのかもしれません。

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(写真)魚まちの通りと民家。(中)壁面が接続している2軒の民家。(右)行き止まりに見える路地。

 

紀伊長島氏神長島神社 - Wikipediaであり、伊勢神宮周辺の多くの神社同様に20年ごとに式年遷宮が行われるようです。三河湾に浮かぶ篠島尾張国)の神明神社や八王子社なども式年遷宮を行いますが、伊勢国から山を隔てた紀伊国の神社でも遷宮を行うというのが意外でした。長島神社の鳥居の脇には、推定樹齢800年(1000年とも)というクスノキがあります。

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(写真)長島神社の社殿。

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(左)長島神社のクスノキ三重県指定天然記念物。(右)長島神社の境内から見た魚まち。

 

2. 紀伊長島の映画館

三河劇場跡地にあるガレージの近くには紀北町長島多目的会館があります。長島多目的会館の男性(60代?)に紀伊長島の映画館について聞くと、「三瀬谷出身なので詳しくは知らない」とのことでしたが、はす向かいにある喫茶ルミの店主の女性(80代?)に聞きに行ってくれました。喫茶ルミの店主によると、「紀伊長島には5館の映画館があった。歌舞伎座、長島座、大洋館、中央劇場、三河屋である」とのことです。

※(注)歌舞伎座は1960年以前に閉館した映画館であるため、本ブログでは紀伊長島の映画館を4館としています。

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(写真)三河劇場の跡地。Google マップ

 

長島多目的会館の男性や喫茶ルミの店主と立ち話をしている際、三河劇場跡地付近から男性(70代?)が出てきました。この男性によると「紀伊長島には映画館が4館あり、銀行が7行もあった。自分は三河屋では顔パスだった」とのことです。最も早く閉館した歌舞伎座のことは知らない様子でした。喫茶ルミの店主もこの男性も、"三河劇場"ではなく"三河屋"と呼んでいたのが印象に残りました。

長島多目的会館の男性は定年退職前は教員だったそうで、「この周辺の地域で最も遅くまで営業していた映画館は尾鷲ロマン座である。尾鷲ロマン座では映画を観たことがある。生まれ育った三瀬谷にも映画館があったが、小学生の時に閉館した。三瀬谷駅の北西すぐの場所にあり、今でも建物が残っているのではないか」とのことです。

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(写真)長島映画劇場、大洋館、長島中央劇場の跡地。Google マップ

 

2.1 長島座/長島映画劇場(1931年秋-1965年頃)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1965年)
開館年 : 1931年秋
閉館年 : 1965年頃
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「長島座」と「長島映画劇場」の双方が掲載されているが重複と判断した。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「長島映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森林組合おわせ紀伊長島事務所」南東の空き地。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

1931年(昭和6年)秋、大正座の跡地に開館した劇場が「長島座」です。長島座は500人を収容する洋館であり、松本通りは「長島の上海」と呼ばれたそうです。長島座は後に「長島映画劇場」に改称。長島映画劇場が最後に登場する映画館名簿である1964年版では、経営者・支配人ともに浜口安平、木造2階建、定員500、邦画を上映。浜口安平は長島映画劇場と大洋館の2館を経営していた人物です。

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(写真)1931年の長島座。『目で見る尾鷲・紀北の100年』郷土出版社、2009年。

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(写真)『映画年鑑 1960 映画便覧』における北牟婁郡の映画館。

 

喫茶ルミの店主(70代後半?)によると、「琴比羅社のすぐ東には長島座があった。現在は空き地になっている」とのこと。たまたま喫茶ルミ付近を通りがかった男性(70代?)によると、「島倉千代子が長島座を訪れた際に事件があった」とのことです。

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(写真)長島映画劇場跡地にある空き地。

 

2.2 三河劇場(1952年‐1968年頃)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町新田(1968年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1968年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「三河劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「長島三河劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「紀北町長島多目的会館」北東100mにあるガレージ。映画館時代の建物が現存。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

戦前からあった「長島映画劇場」、戦後の1950年(昭和25年)に開館した「長島中央劇場」に続いて、1952年(昭和27年)に開館したのが「三河劇場」です。紀伊長島の4映画館の中で最も南にありますが、最も「魚まち」の中心部に近い映画館でもあります。1962年(昭和37年)の映画館名簿では経営者が酒井重一、支配人が西田伝蔵、木造2階建。1968年(昭和43年)の映画館名簿では経営者・支配人ともに酒井正男、木造2階建暖房付、定員250。

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(写真)三河劇場の建物を転用したガレージ。

 

喫茶ルミの店主によると、「喫茶ルミの斜め向かいにあるガレージは、三河屋という映画館の建物を改装したものである。映画館だった頃は2階席もあった。酒井正男さんが経営しており、日活と大映の作品を上映していた」とのこと。ガレージの南には酒井正男という表札があるオレンジ色の瓦屋根の民家があります。

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(写真)ガレージの内部。

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(左・右)ガレージの内部。

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(左)ガレージの内部。(右)舞台だった部分。

 

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(写真)ガレージの西面。

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(写真)ガレージの北面と東面。

 

2.3 長島中央劇場(1950年-1969年頃)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町(1969年)
開館年 : 1950年10月? 1951年?
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「長島中央劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「長島中央劇場」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は赤羽川に架かる長島橋東詰の「長島ショッピ―中州店」旧店舗の廃墟。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

赤羽川の北側にあった唯一の映画館が「長島中央劇場」であり、やはり唯一の洋画上映館でした。1968年(昭和43年)の映画館名簿では経営者が玉津大門、支配人は掲載なし、木造平屋建、定員200、洋画を上映。

喫茶ルミの店主によると、「赤羽川の北側にある唯一の映画館が中央館であり、長島橋北詰すぐ東にあった。中劇(ちゅうげき)とも呼ばれ、洋画を上映していた。跡地には長島ショッピー中州店が建ち、新店舗に移転した今もスーパーの建物が残っている」とのこと。

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(写真)長島中央劇場跡地にある長島ショッピー中州店の旧店舗廃墟。

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(写真)昭和中期の長島中央劇場。『紀伊長島町史』紀伊長島町史編さん委員会、1985年と『あの日あの頃』紀伊長島ふるさと懇話会、2000年(同一の写真)。

 

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(写真)話を聞いた紀北町長島多目的会館。

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(左・右)話を聞いた喫茶ルミ。

 

2.4 大洋館(1958年2月12日-1970年代初頭)

所在地 : 三重県北牟婁郡長島町新田(1970年)
開館年 : 1958年2月12日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大洋館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「長島大洋館」。1970年のゼンリン住宅地図では「大洋館(浜口)」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「濱口熊嶽邸跡」北側の駐車場。最寄駅はJR紀勢本線紀伊長島駅。

紀伊長島の4映画館の中で最も遅く、1958年(昭和33年)に開館したのが「大洋館」です。なお、同年には日本の映画人口(総観客館)がピークを迎え、1959年(昭和34年)には減少に転じています。1968年(昭和43円)の映画館名簿では経営者が浜口安平、支配人は掲載なし、木造2階建暖房付、定員350。浜口安平は長島映画劇場と大洋館の2館を経営していた人物です。

喫茶ルミの店主によると、「大洋館は東宝東映の作品を上映した」とのこと。

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(写真)大洋館跡地にある月極大洋館駐車場。

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(写真)昭和中期の大洋館。紀伊長島町史』紀伊長島町史編さん委員会、1985年と『あの日あの頃』紀伊長島ふるさと懇話会、2000年(同一の写真)。

 

紀伊長島にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(三重県版)」にマッピングしています。

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