2019年(令和元年)12月、岐阜県不破郡垂井町を訪れ、垂井町立タルイピアセンター図書館や映画館跡地をめぐりました。
1. 垂井町を訪れる
垂井町は岐阜県の西濃地方にある人口2万7000人の自治体。美濃国府跡や美濃国一宮(南宮大社)などがあり、近世には中山道の宿場町(垂井宿)として栄えました。JR東海道本線の垂井駅があるおかげで岐阜市や名古屋市へのアクセスも良く、人口の減少度合いは緩やかです。
JR東海道本線は大垣駅と米原駅間で毎時2本の電車が運行されています。大垣駅から1区間の垂井駅では多くの乗客が下りるのを目にしていましたが、自分が垂井駅で下りたのは今回が初めてです。
(地図)愛知県名古屋市から見た岐阜県垂井町。©OpenStreetMap contributors
2. 垂井町を歩く
JR東海道本線垂井駅は垂井市街地の南東にあります。東海道本線の北250mには鉄道と並行して旧中山道が通っており、垂井駅から旧中山道には駅前通りが伸びています。まずは垂井市街地の北西を流れる相川を渡り、図書館や資料館があるタルイピアセンターに向かいました。
(写真)垂井市街地を流れる相川。
(写真)現在の垂井市街地の航空写真。
2.1 垂井町立タルイピアセンター図書館
タルイピアセンターは1993年(平成5年)に開館した複合施設です。垂井駅から相川を渡ってすぐの場所にあることから中心市街地に近く、また河岸の農地だった場所に建設しているために駐車台数も十分あります。
図書館部分の延床面積は877m2、蔵書冊数は約10万冊、来館者数は約13万人/年、貸出冊数は約20万冊/年です。住民1人当たり貸出冊数は約7.5冊であり、指標面では岐阜県内でも優秀な町立図書館です。
なお、垂井町は大垣都市圏の自治体であり、大垣市に通勤通学する住民が多いと思われます。しかし、大垣市立図書館は現行館の開館から40年が経過しており、蔵書やサービス面でもやや古さを感じることから、都市圏内の他自治体の住民の利用率は高くないのではないかと思います。
(写真)タルイピアセンター。
(写真)垂井町立タルイピアセンター図書館。
タルイピアセンターには垂井町歴史民俗資料館もあり、常設展示室では主に中山道垂井宿に関する展示を行っていました。隣の企画展示室では2019年(令和元年)12月から2020年(令和2年)5月まで、「1600年 関ヶ原合戦」という展示を行っています。垂井町に隣接する関ケ原町では、2020年7月に岐阜関ケ原町古戦場記念館が開館する予定。既存の関ケ原町歴史民俗資料館の収蔵品は工事期間中のみ垂井町歴史民俗資料館に移動され、その一部を用いた企画展示のようです。
(写真)垂井町歴史民俗資料館。(左・中)中山道垂井宿の展示。(右)現代の垂井町の展示。
2.2 中山道垂井宿周辺
垂井町は大垣市八木父子のベッドタウン化が進行しているとはいえ、旧中山道沿いにはまだまだ古い街並みが残されています。文化財では重要文化財の南宮大社石鳥居や登録有形文化財の旅館亀屋がありました。近世の建築では旅籠や町屋、近代の建築では旧浅沼銀行や旧三浦醸造所があります。私が訪れた際は年末で観光案内所が空いていなかったため、建築物のマップは自分で準備したほうがよかったかも。
(左)南宮大社石鳥居。国の重要文化財。1642年建立。1971年重文指定。(右)南宮大社石鳥居がある交差点。
(左)旧浅沼銀行。(右)旧浅沼銀行正面のはす向かいにある鎧張りの木板が美しい土蔵。
(写真)中山道沿いの旅籠亀丸屋。安永6年(1777年)建築。本陣・脇本陣の次に格が高かった上旅籠屋。2016年時点で82歳の8代目主人が経営。営業中なのか事実上廃業してるのか不明。
(左)長浜屋。江戸時代は旅籠であり明治期は酒屋。(右)旅館亀屋(小林家)と木下家。旅館亀屋は登録有形文化財。木下家は日野商人の常宿であり昭和期には医院。
(写真)旅館亀屋付近から東を向いて撮影した中山道。
(左)垂井の泉。垂井という地名の由来。(右)垂井の泉の傍らに植わっていた垂井の大ケヤキ。岐阜県指定天然記念物。2015年の倒壊後は垂井町歴史民俗資料館に丸太が展示されている。
(写真)駐車場に転用された煉瓦造の旧三浦醸造所。
3. 垂井町の映画館
垂井町を訪れる前、垂井町の映画館についてわかっていることと言えば、1960年代後半まで垂井町に「垂井劇場」があったこと、1960年代初頭まで垂井駅前には「八重垣劇場」があったことだけでした。『映画館名簿』以外の文献では垂井町の映画館についての言及を確認できず、せめて場所だけでも判明させたいと思って垂井町を訪れました。
図書館で聞く
まずは図書館クラスタらしく垂井町立タルイピアセンター図書館へ。郷土資料コーナーをあさっていると、戦前の垂井劇場の写真と文章が掲載された『想い出の20世紀 垂井の写真集』という文献を見つけることができました。
この文献をカウンターで見せ、女性職員(40代?)に「垂井劇場の場所が知りたい」と尋ねました。この女性職員は知らないとのことだったので、「この文献に掲載されている"北横町" という地名は現在の市街地のどのあたりか」と聞くと、奥から出てきた男性職員(50代?)が住宅地図を手に「古老から(駅前の)このあたりに映画館があったと聞いたことがある」と教えてくれました。実際には 北横町の映画館と駅前の映画館は異なっているのですが、貴重な情報を得られました。
垂井駅前で聞く
続いて、図書館の男性職員が指し示してくれたJR垂井駅前に向かいます。垂井駅からは中山道に向かって北西に駅前通りが伸びており、駅前通りの中央付近に映画館があったようです。駅前通りにある「銘菓処みどりや」の前で井戸端会議をしていた女性2人(70代?)に「この辺にあった劇場の場所を知りたい」と聞くと、「(銘菓処みどりやの手前にある)駐車場の場所に映画館があった。名前は覚えていない。劇場ではなかった」とのことでした。この映画館はパチンコ店を経て駐車場になったそうです。垂井劇場という名前を出すと「相川橋のたもとの松坂屋から西に向かい、突き当たりの金物屋の隣にあった」とのことでした。
垂井劇場跡地で聞く
続いて、井戸端会議の女性たちが教えてくれた金物屋の松井商店に向かいます。松井商店の正面を南北に走る通りは南宮大社と美濃国府を結んでおり、歴史的に見て重要な通りだったようです。松井商店の北側には映画館跡地に見える駐車場があります。ちょうど松井商店の前を男性(80代?)が通りがかったので「垂井劇場はここにあったのか」と聞くと、「この駐車場だけでなく北側の民家2軒分も劇場の敷地だった」とのことでした。
垂井劇場跡地の民家に住む女性(80代?)にも話を聞くと、「経営者は別の場所で暮らしていてこの辺りにはいない」とのことでした。なお、このあたりが北横町という地名だそうです。男性によると「かつて国鉄垂井駅そばには跨線橋があり、そばにあった垂井座がこの地に移転して垂井劇場になった。歌舞伎の興行もしたし映画も上映した」とのことでした。
この男性に駅前の映画館のことを聞くと「ロマン座」という名称だそうで、「ロマン座はパチンコ店になり、現在は駐車場になっている」とのことでした。なお、女性はロマン座のことを知りませんでした。
3.1 八重垣劇場/ロマン座(-1960年代初頭)
所在地 : 岐阜県不破郡垂井町垂井駅前(1958年)、岐阜県不破郡垂井町(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1960年以後1963年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「八重垣劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の映画館名簿では跡地に「正村会館」。近年まで跡地にパチンコ店。現在の跡地は駐車場。
映画館名簿では垂井駅前にあったとされる「八重垣劇場」は、図書館の男性職員や垂井劇場跡地の男性が話してくれた「ロマン座」と同一施設だと思われますが、確証はありません。現在はマルカツ電気有限会社が所有する月極駐車場となっています。
(写真)垂井駅前通。中央左側が八重垣劇場/ロマン座跡地。
(写真)八重垣劇場/ロマン座跡地にある駐車場。
3.2 垂井劇場(-1960年代後半)
所在地 : 岐阜県不破郡垂井町(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1953年・1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「垂井劇場」。1968年の住宅地図では跡地に北から「中村小間物」「安田」「児玉畳店」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。現在の跡地は3軒分の民家と空地。
垂井町で遅くまで残っていたほうの映画館が垂井劇場です。中山道から北に延びる通り沿いにあり、往時のにぎわいが想像できます。垂井町歴史民俗資料館には戦前の垂井劇場の広告がありました。
(左)垂井劇場跡地にある駐車場と建物。(右)垂井劇場跡地付近。右奥が垂井劇場跡地。右手前は金物屋の松井商店、左は山車蔵である紫雲閣。
(左)戦前の垂井劇場の広告。年末に京都の五色会という劇団による興行があったらしい。(右)垂井町歴史民俗資料館の常設展示。左下に垂井劇場の広告。
(写真)「垂井劇場」が掲載された『映画年鑑 1963年版 別冊 映画便覧 1963』(時事通信社、1963年)。