1. 北浜川の地理
幹線流路延長は7.1 km、流域面積は22.8 km2[1][2]。2014年(平成26年)時点の流域内人口は4万7000人[2]。主として矢作川が形成した平野を流れる緩勾配の河川である。
1.1 流路
西尾市道光寺町に端を発し、南西に流れて西尾市の中心市街地などを通る[1]。2014年(平成26年)時点では流域の51%が市街化されており、流域内には西尾市役所、名鉄西尾線西尾駅、国道23号などの施設が集積している。
二の沢川の合流地点のすぐ上流側には深池堰があり、西尾市街地の南端部で二の沢川を集める。この合流地点より下流部は地盤高が低いことから自然排水ができず、洪水時には湛水防除ポンプによって北浜川に排水されている[2]。下流の寺津市街地には刈宿堰がある。栄生漁港で衣浦湾に注いでいる[1]。衣浦湾への流入部には北浜川水門がある。
2. 北浜川の歴史
2.1 排水路の開削
西尾町会議員の新家寛(にいのみひろし)は農業用の排水路(悪水路)の必要性を痛感し、1906年(明治39年)に用水路の工事に着工すると、1915年(大正4年)3月に北浜悪水路が竣工し、西尾町は洪水による被害が低減された。新家寛は1914年(大正3年)から1929年(昭和4年)まで西尾町長を務め、西尾町立高等女学校(現・愛知県立西尾高等学校)や愛知県立西尾蚕糸学校(現・愛知県立鶴城丘高等学校)の設立に尽力している。
2.2 戦後の歴史
1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風、1971年(昭和46年)8月の台風23号、2008年(平成20年)8月の平成20年8月末豪雨、2012年(平成24年)9月の集中豪雨などでは、西尾市街地に浸水被害があった。
2016年(平成28年)2月には二級河川北浜川水系河川整備計画が作成され、2045年度(令和27年度)までの計画で河道拡幅、河床掘削、橋梁改築、堰改築などが実施されている。
3. 新家寛
3.1 新家寛の経歴
嘉永6年(1853年)9月15日、三河国幡豆郡平島(現・愛知県西尾市一色町)の中島家に生まれた。中島家の家業は紺屋であり、寛は長男だった。1870年(明治3年)6月9日、新家せいと結婚して新家家の婿養子となった。
1883年(明治16年)、愛知県庁の黒川治愿(くろかわはるよし)土木課長と協力して北浜悪水路の開削を計画したが、この時は下流の農民らの反対に遭って頓挫している。1906年(明治39年)7月には再び北浜悪水路の開削を強行し、1915年(大正4年)3月に完成した。同年11月には永吉町に石碑「北浜悪水開削碑」が建立された。
1895年(明治28年)には西尾町会議員に就任し、1911年(明治44年)10月には幡豆郡会議員に就任し、1914年(大正3年)7月には62歳にして西尾町長に就任した。1918年(大正7年)4月には西尾町立高等女学校(現・愛知県立西尾高等学校)が開校し、1919年(大正8年)5月には西尾蚕糸学校(現・愛知県立鶴城丘高等学校)が開校した。
1920年(大正9年)9月に西尾町長を辞任したが、1926年(大正15年)5月には再び西尾町長に就任し、花ノ木耕地整理組合の組合長として都市計画や西尾駅の移転に取り組んだ。1928年(昭和3年)12月には西尾小学校の鉄筋コンクリート造の本館が竣工した。1929年(昭和4年)1月に西尾町長を辞任した。
1934年(昭和9年)5月2日に死去した。1935年(昭和10年)4月21日には山下町に銅像が建立されたが、1943年(昭和18年)3月には供出された。1950年(昭和25年)11月23日、銅像が再建立された。
4. 参考文献
「北浜川水系流域委員会~現地視察資料~」愛知県河川整備計画流域委員会
「河川事業 二級河川北浜川水系」愛知県
磯貝逸夫『明治の西尾人物誌』三河新報社、1993年