振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

川島町の映画館

(写真)旧川島町役場の鬼瓦。

2024年(令和6年)7月、岐阜県各務原市川島地区(旧・羽島郡川島町)を訪れました。かつて川島町には映画館「川島劇場」がありました。

 

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1. 川島地区を訪れる

1.1 木曽川中洲の集落

川島地区は木曽川の北派川(本流)と南派川(分流)に挟まれた川中島=中洲にある町です。古くから水害に悩まされた町であり、民家の基礎としてごんぼ積みと呼ばれる石積みが見られます。

(写真)西養寺のごんぼ積み。

(写真)水野家住宅のごんぼ積み。主屋は登録有形文化財

(写真)白髭神社のごんぼ積み。

 

2006年(平成18年)から2010年(平成22年)の間には各務原市にある61件もの建造物が登録有形文化財に登録されており、各務原市登録有形文化財は全件がこの4年間に集中しています。

川島松倉町の尾関幸一家住宅は主屋に加えて立派な離れと納屋を持つ豪農ですが、主屋の基礎は石1個分高くなっているだけであり、遠目には地盤と同じ高さに見えます。川島地区では立派な民家なのに主屋の地盤が低いと違和感があるほどです。

(写真)尾関幸一家住宅。離れ(左)、主屋(中央奥)、納屋(右)が登録有形文化財

 

2. 川島会館

2.1 木曽川文化史料館

木曽川北派川(本流)を見下ろす川島会館には木曽川文化史料館と川島ほんの家が入っており、川島地区を訪れる際には毎回起点とする建物です。

川島会館西側の岐阜県道180号は川島地区で最も交通量の多い道路のはずですが、川島大橋の架け替えの影響で閑散としていました。川島大橋は羽島郡川島町に映画館があった時代(1962年)に架けられた橋ですが、2021年(令和3年)5月には橋脚に異常が見つかり、旧橋が解体されて新橋を建設している最中です。

(写真)木曽川文化史料館が入る川島会館。

(写真)原寸大に近い木曽川の渡船の模型。木曽川文化史料館。

(写真)岡田式渡船方式の模型。木曽川文化史料館。

(写真)木曽川文化史料館。

 

2.2 川島ほんの家

(写真)郷土資料の書架。

(写真)川島町に関する資料。

 

3. 川島町の映画館

美濃地方は歴史的に農村歌舞伎が盛んであり、特に東濃には農村歌舞伎舞台が多く現存しています。木曽川文化史料館には川島町域における村芝居に関する展示があります。

(写真)木曽川文化史料館における村芝居に関する展示。

 

この2024年(令和6年)3月には『新発見! 各務原市の歴史』が刊行されました。写真などを多用している現代的な自治体史であり、各務原市域における地芝居や農村歌舞伎舞台にも言及しています。

(写真)農村歌舞伎舞台に言及している『新発見! 各務原市の歴史』各務原市教育委員会、2024年。

 

3.1 川島劇場(1957年頃-1971年頃)

所在地 : 岐阜県羽島郡川島町阿田島(1971年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1971年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「川島劇場」。1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「川島劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「川島劇場」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JAぎふ川島支店」南西50mの建物。

1958年(昭和33年)から1971年(昭和46年)までの映画館名簿には、川島町の映画館として川島劇場が掲載されています。映画館名簿に掲載された経営者は恩田正雄であり、恩田は岐阜市黒野黒野劇場、山県郡美山町の美山劇場なども経営していました。

『川島町史』には娯楽について言及している節があり、小網集落における小網舞台など村芝居の話が書かれていますが、川島劇場には全く言及していません。『川島町史』どころか書籍レベルの郷土資料には川島劇場がいっさい登場せず、正確な跡地すらわからない状態でした。

(写真)川島劇場が掲載されている『映画便覧 1969』時事通信社、1969年。

 

川島公民館が発行していた館報『川島公民』をひたすらめくると、1962年(昭和37年)2月号に「映画館」という文字のある略地図を掲載している記事がありました。

雑な地図なので映画館がどの地点なのか分かりづらいのですが、現在の各務原市立川島小学校の南西の三角地帯の中にあったようです(※地図中では小さな四角で示された地点)。

川島町役場は1927年(昭和2年)から45年間使用された木造2階建の建物であり、1972年(昭和47年)には道路を挟んだ南側に移転して4階建ビルとなりました。2004年には川島町が各務原市に合併し、2016年(平成28年)に建物が取り壊されています。なお、内田医院は建て替えを経て現在も営業中です。

(写真)「映画館」の文字がある『川島公民』川島町公民館、1962年2月。川島ほんの家所蔵。

 

1961年(昭和36年)の航空写真を見ると、上記の地図の場所に巨大な建物が写っています。道を挟んだ北側には林が広がっているようであり、川島劇場があったのは三角地帯の北西角で間違いないと思われます。

なお、岐阜県道180号を渡る場所に横断歩道橋が竣工したのは1963年(昭和38年)7月22日のことであり、航空写真の撮影時点では完成していません。

(写真)1961年の航空写真における川島劇場周辺。地図・空中写真閲覧サービス

(写真)現在の川島劇場跡地周辺。中央奥の黄色い看板のある建物が跡地。

 

川島町の映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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