振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

山尾宰胸像を訪れる

(写真)山尾宰の胸像。

2024年(令和6年)5月、愛知県西尾市桜木町5丁目の山尾病院を訪れました。

玄関前には初代院長である山尾宰(やまおおさむ)の胸像があります。山尾病院の開業時には宮崎洪(みやざきひろし、詩人の茨木のり子の父)が副院長を務めました。

 

1. 山尾宰の経歴

1.1 学生時代

1901年(明治34年)11月30日、三重県に山尾宰(やまおおさむ)が生まれた。1921年(大正10年)に徴兵検査を受けたが、身体が小さかったため第二乙種補充兵役陸軍輜重輸卒となった。

1924年大正13年)5月12日に京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)を卒業し、6月11日に医籍登録されている(52953番)。外科学教室で鈴木正治教授の副手や助手となった。1928年(昭和3年)8月、京都帝国大学医学部解剖学教室に入って木原卓三郎教授に師事し、1930年(昭和5年)8月に京都帝国大学医学部専修科を修了した。その後は京都府立医科大学で内科学や産婦人科学教室に在籍し、1932年(昭和7年)2月に京都帝国大学から「体深部淋巴管系ノ研究」で学位を授与された。

 

1.2 開業後

1932年(昭和7年)7月1日、幡豆郡西尾町大字鶴城字永吉に山尾診療所を開設した。京都帝国大学時代の知人として宮崎洪(現・茨木のり子の父)がおり、宮崎洪が副院長に就任している。1934年(昭和9年)4月29日、現在地に病院を新築移転した。1941年(昭和16年)には幡豆郡吉田町に、山尾病院分院という形で宮崎洪が独立開業した。

1945年(昭和20年)3月に応召して中部第38部隊に入隊し、朝鮮の全羅南道天安郡天安村などに駐屯した。同年6月には軍医少尉に昇進し、終戦後の同年10月15日に復員した。

 

1.3 戦後の経歴

戦後には長年にわたって、西尾実業学校や福地北部小学校で学校医を務めた。1950年(昭和25年)から1971年(昭和46年)には西尾幡豆医師会長を務めた。1958年(昭和33年)には西尾准看護婦学校の創設に尽力している。また、8年間に渡って西尾市議会議員を務めた。

1979年(昭和54年)11月30日、碧南市出身の日展作家である加藤知彦によって胸像が製作された。1984年(昭和59年)に死去した。

(写真)山尾宰。

 

2. 山尾宰の役職と栄誉

2.1 役職

愛知県医師会理事

愛知県医師会代議員

西尾幡豆学校保健会長

愛知県学校保健会長

愛知県学校保健会顧問

日本学校保健会評議員

愛知県高等学校学校保健会理事

日本学校安全会愛知県支部審査会委員

西尾保健所運営協議会長

西尾保健所地区結核審査協議会委員

西尾市国民健康保険運営協議会委員

西尾市議会文教厚生委員長

愛知県社会教育講師

生活保護法事務嘱託

西尾警察署嘱託医

 

2.2 受賞・受章

1950年(昭和25年)11月 愛知県教育委員会表彰

1956年(昭和31年)10月 文部大臣表彰

1961年(昭和36年)8月 愛知県医師会表彰

1963年(昭和38年)11月 愛知県知事表彰

1969年(昭和44年)1月 愛知県警察本部長感謝状

1971年(昭和46年)5月 愛知県納税貯蓄組合連合会長表彰

1977年(昭和52年)4月 紺綬褒章

1977年(昭和52年)11月 勲五等双光旭日章

1979年(昭和54年)11月 厚生大臣表彰

(写真)山尾病院。

 

3. 宮崎洪の経歴

3.1 山尾病院時代

1897年(明治30年)7月1日、長野県長野市に宮崎洪(みやざきひろし)が生まれた。

1920年大正9年)に金沢医学専門学校(後の旧制金沢医科大学)を卒業した。医籍登録番号は45290番。秋田日赤大阪済生会病院や、1922年(大正11年)に大阪回生病院に勤務した後、1923年(大正12年)にスイスのベルン大学に留学し、博士号を取得した。

1925年(大正14年)には済生会大阪府病院に勤務し、1928年(昭和3年)には京都帝国大学医学部解剖学教室専修科に入り、その後医学部副手を務めた。1932年(昭和7年)、幡豆郡西尾町で山尾病院の副院長となった。

 

3.2 独立開業後

東京で開業することを考えていたが、幡豆郡吉田町が病院を招聘したことで、1942年(昭和17年)11月16日には山尾病院分院という形で宮崎洪が独立開業した。花火によって迎えられ、盛大な披露宴が催された。吉良吉田駅が統合されて蒲郡線西尾線の直通運転が開始されたのは1943年(昭和18年)のことである。

(写真)宮崎医院。

3.3 死去後の宮崎医院

娘ののりこ(詩人の茨木のり子)に対しては自立した生き方を説き、のり子は東京の帝国女子医学・薬学・理学専門学校を卒業した。宮崎洪は1963年(昭和38年)4月2日に死去した。

同年には宮崎英一が2代目院長に就任し、1967年(昭和42年)には2代目診療所が完成した。2002年(平成14年)には宮崎英一が死去し、宮崎仁が3代目院長に就任した。2006年(平成18年)には3代目診療所が完成した。

 

4. 参考文献

山尾宰『西尾幡豆医師会史』西尾幡豆医師会、1963年

西尾の人物誌編集委員会『西尾の人物誌』西尾市教育委員会、1995年

『詩人茨木のり子とふるさと西尾 増補版』西尾市教育委員会、2023年