振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

足尾町を訪れる(4)下間藤・上間藤・赤倉

(写真)わたらせ渓谷鐵道間藤駅

2024年(令和6年)3月、栃木県日光市足尾町を訪れました。「足尾町を訪れる(1)通洞」「足尾町を訪れる(2)松原」「足尾町を訪れる(3)赤沢・掛水」からの続きです。

 

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1. 下間藤(しもまとう)

1.1 下間藤の町並み

わたらせ渓谷鐵道の終着駅は間藤駅であり、間藤駅の北側に下間藤の集落があります。本ブログで紹介した6集落の中では最も小規模なので、下間藤に終着駅があるのは不思議な感じがします。足尾町の中心地の松原にある通洞駅、観光スポットの古河掛水倶楽部に近い足尾駅と比べると、間藤駅前には商店などもなく寂しい印象です。

(写真)下間藤の集落。

(写真)下間藤の説明看板。

 

1.2 廃線跡水力発電所跡

かつては間藤駅の先にも線路が伸びており、赤倉集落に本山駅(ほんざんえき)がありました。

(写真)旧本山駅に向かう廃線跡

(左)旧本山駅に向かう廃線跡。(右)廃線跡をくぐる歩行者橋。

 

もともと足尾鉱業所の動力は蒸気機関でしたが、1890年(明治23年)には間藤水力発電所が建設されて水力に切り替わりました。崖下には水圧鉄管の一部が保存されており、松木川の河床にも煉瓦造の基礎が残されています。

(写真)間藤水力発電所跡。

 

1.3 旧本山小学校

1895年(明治28年)には古河鉱業が経営する私立古河足尾銅山尋常高等小学校が開校し、戦前には全国的にも珍しい私立小学校として存続します。校長を務めた人物としては鎌倉女子大学の創設者である松本生太もいました。

戦後の1947年(昭和22年)には足尾町に移管されて足尾町立本山小学校(ほんざんしょうがっこう)に改称し、足尾駅駅前通りより北が本山小学校の学区、駅前通りより南が足尾小学校の学区となりました。

2005年(平成17年)に閉校となりましたが、校舎や講堂は取り壊されることなく現存しており、2016年(平成28年)には「旧本山小学校講堂」が登録有形文化財に登録されています。2024年(令和6年)4月にはWikipedia足尾町立本山小学校 - Wikipedia」を作成しました。

 

松木川の対岸から見ると、背後の備前楯山(びぜんたてやま)もきれいに見えます。備前楯山の標高は1272mであり、後述する黒檜岳などとともに栃木百名山に選定されています。

足尾銅山が操業していた頃、備前楯山は精錬所から発生する亜硫酸ガスなどの影響でハゲ山だったそうですが、「足尾に100万本の木を植えよう」を合言葉に活動している足尾に緑を育てる会の努力などもあって、かなりの部分が緑の山に戻っているように見えます。

(写真)本山小学校跡と備前楯山。

 

2. 上間藤(かみまとう)

2.1 上間藤の町並み

正面には冠雪した黒檜岳(くろびだけ)が見えます。黒檜岳の標高は1976m、標高約680mの上間藤の集落とは1300m近い比高があるので壮観です。

(写真)上間藤の集落の南部。

(写真)上間藤の集落の北部。

 

明治初期に古河市兵衛足尾銅山の再興を企てました。説明看板によると、1887年(明治20年)の大火後には上間藤の集落が「(足尾で)最も賑わう街並に変貌」したとのことです。この説明看板は各集落に設置されていますが、やや誇張されているように思われ、松原・赤沢と上間藤のどちらがより繁栄していたのかわかりづらい。

 

とはいえ、明治末期から大正初期の上間藤には各種の商店が集積しており、劇場「城崎座」(しろさきざ)や劇場・映画館「エビス座」、複数の旅館、3軒の寺院などもあったようです。なお、現在の上間藤に寺院はなく、営業中の商店も2店舗ほどしかありません。

 

説明看板「足尾まちなか写真館 上間藤繁華街」には1916年(大正5年)の空中写真が掲載されており、山裾までびっしりと建物が建っている様子がうかがえます。現在は更地となっている敷地も多く、松原・赤沢よりも衰退が顕著です。

(写真)「足尾まちなか写真館 上間藤繁華街」。

 

「足尾まちなか写真館 上間藤繁華街」の東端の山裾に見える巨大な三角屋根の建物は、1887年(明治20年)の大火後の1889年(明治22年)に創建された専念寺と大相寺であると思われます。

専念寺の奥には巨大なかまぼこ型屋根の建物が見えますが、これは城崎座の建物だと思われますが、城崎座の開設はこの写真の撮影翌年であるのが気になるところです。なお、専念寺は足尾銅山閉山後に松原に移転して現存しています。

(写真)「足尾まちなか写真館 上間藤繁華街」。

(写真)上間藤時代の専念寺。『足尾案内銅山大観 2版』万秀堂、1908年。

(写真)「足尾まちなか写真館 城崎座」。

 

3. 赤倉(あかくら)

3.1 本山精練所

集落としては足尾町の最北端にあるのが赤倉であり、松木川の対岸には足尾銅山を象徴する旧足尾銅山製錬所(本山精練所)の廃墟が残っています。古河鉱業足尾鉱業所の事務所は通洞にありましたが、精錬所のほうが写真映えする景観であり、赤倉集落を訪れる観光客は一定数いるようです。

(写真)旧足尾銅山製錬所(本山精練所)。

(写真)旧足尾銅山製錬所大煙突。

(写真)立入禁止の古河橋。重要文化財

(写真)「足尾まちなか写真館 本山精練所全盛期」。

 

4. 下間藤・上間藤・赤倉の映画館

4.1 エビス座(1907年頃-1964年頃)

所在地 : 栃木県上都賀郡足尾町1340(1964年)
開館年 : 1907年頃、1927年8月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1927年8月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「足尾エビス座」。1950年の映画館名簿では「足尾エビス館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「エビス座」。1964年の映画館名簿では「足尾エビス」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「足尾赤倉郵便局」北北西110mの敷地。

既述の上間藤の説明看板にはエビス座が描かれています。1940年代後半から1960年代前半の映画館名簿にもエビス座が掲載されており、エビス座の経営者は足尾キネマと同じく青木むめです。『映画便覧 1964』には所在地として足尾町1340と書かれていますが、文献では正確な跡地が分かりませんでした。

(写真)足尾エビスが最後に掲載されている『映画便覧 1964』時事通信社、1964年。

 

そこで深沢橋のたもとに住む男性(70代?)に尋ねると、「すぐそこの鉄塔がある敷地にエビス座があった。すぐ南の辻からエビス座跡地のほうに登る道がある」とのことでした。1966年(昭和41年)の航空写真を見ると、確かに現在の鉄塔の場所に巨大な建物が写っています。

(写真)1966年の航空写真におけるエビス座周辺。地図・空中写真閲覧サービス

(写真)エビス座跡地の更地と鉄塔。

(写真)銅街道から見たエビス座跡地の更地と鉄塔。

 

エビス座に向かう坂の入口には説明看板「足尾まちなか写真館 栃本屋」があります。栃本屋は1875年(明治8年)に2階建で創業した旅館であり、1891年(明治24年)には3階部分を増築しました。足尾町に3棟しかなかった木造3階建です。松原の足尾キネマに入る路地の脇に特殊喫茶があったことといい、戦前の劇場や映画館の近くには料理店が付き物です。

(写真)「足尾まちなか写真館 栃本屋」。

(写真)「足尾まちなか写真館 栃本屋」。

 

足尾町の映画館について調べたことは「栃木県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(栃木県版)」にマッピングしています。

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