振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

半谷音吉氏像を訪れる

(写真)「半谷音吉氏像」。

2023年(令和5年)4月、愛知県北名古屋市沖村の徳岩寺にある銅像「半谷音吉氏像」を訪れました。

 

半谷音吉(はんやおときち)はタイルメーカーである広正製陶の創業者です。なお、2020年(令和2年)9月から2021年(令和3年)1月には、岐阜県多治見市の多治見市モザイクタイルミュージアムで広正製陶の半谷孝コレクション「金型の精緻・精巧美の世界」展が開催されました。

 

1. 銅像「半谷音吉氏像」

徳岩寺(とくがんじ)は臨済宗妙心寺派の寺院。山号金剛山。本尊は十一面観世音菩薩。名古屋市中区栄3丁目(若宮八幡社の東のブロック)にある政秀寺の末寺。

18世紀後半に編纂された『張州雑志』では元和年間(1615年~1623年)創建とされ、金剛山徳厳寺として掲載されています。元和年間以前には真言宗の寺があったようです。旧西春町にある臨済宗妙心寺派のナカマ寺とともに、大本山妙心寺に団参する行事があるようです。文献には江戸末期に本堂が再建されたとありますが、近年にも建て替えられたようです。

参考文献

『西春町史 通史編 1』西春町、1983年

『西春町史 民俗編 2』西春町、1984

 

徳岩寺山門前の右手に銅像「広正製陶創始者 半谷音吉氏像」があります。

(写真)「半谷音吉氏像」。

 

2. 半谷音吉の経歴

2.1 幼少期

1894年(明治27年)6月20日、愛知県西春日井郡沖村字岡(現・北名古屋市沖村岡)に半谷音吉が生まれた。母はきぬであり、父は海部郡甚目寺町萱津の籾山金三郎であるが、母が音吉を身ごもった後に父が他界した。このこともあって母は籾山家にいられなくなり、実家の半谷家で音吉を生んだ。2人の兄と1人の姉がいたが、うち2人は籾山家に引き取られ、1人と音吉は半谷家に引き取られている。

半谷家は日吉神社の西にある旧家であり、1965年(昭和40年)時点の12~13代前、現存する家としては最も早くにこの集落に住み着いた。1901年(明治34年)に下拾箇村立沖尋常小学校に入学し、修学年間4年の卒業を前にして、1905年(明治38年)1月に名古屋の広瀬屋に奉公に入った。広瀬屋の経営者は岡部武助であり、二男の岡部金治郎は後に電子工学者となって文化勲章を受章している。

 

2.2 広瀬屋時代

広瀬屋は広小路通に面しており、広小路通を挟んで真向いには名古屋市役所があった。1907年(明治37年)には名古屋市役所が全焼し、跡地には1910年(明治43年)にいとう呉服店(現・松坂屋)が開店した。同年には鶴舞公園で第10回関西府県連合共進会が開催され、音吉は不二見焼の硬質陶器タイルを目にしている。

1918年(大正7年)には佐治製陶所の佐治孝太郎と提携してタイルの販売に携わるようになった。既に10年間の奉公年季は明けており、音吉は広瀬屋の第二番頭の地位にあった。

 

2.3 独立後

1919年(大正8年)3月5日に独立し、新栄町4丁目に広正商店を創業した。独立後の音吉は正太郎と名乗っており、広瀬屋の「広」と正太郎の「正」を組み合わせた商号である。同年12月29日には牛田かねをと結婚し、橦木町に新居を見つけた。

1925年(大正14年)3月5日には広正商店が相生町に移転した。1928年(昭和3年)12月、年商2万円に達していた広正商店は合名会社に改組した。1926年(大正15年)には千種区豊前町に豊前工場を、1929年(昭和4年)には勝川工場を操業させている。

 

1938年(昭和13年)には上海を視察し、1939年(昭和14年)には息子の正が満州を視察、1940年(昭和15年)には音吉が再び上海を視察した。1943年(昭和18年)、日東スレート工業所に改称した。1949年(昭和24年)、広正製陶に改称した。1957年(昭和32年)3月には第1号トンネル窯が完成し、1959年(昭和34年)12月には社屋を改築した。

 

2.4 死去

1961年(昭和36年)2月には音吉が死去した。1962年(昭和37年)6月には第2号トンネル窯が完成した。

 

参考文献

浅野四郎『半谷音吉伝』半谷正、1965年

(写真)独立当時の音吉。『半谷音吉伝』。