(写真)十楽区をまちあるき中の参加者。
2024年(令和6年)5月26日(日)、京都府京丹後市久美浜町で開催された「ウィキペディアタウン in 久美浜」に参加しました。「ウィキペディアタウン in 久美浜」に参加する(2)に続きます。
1. イベント概要
京都府丹後地方の市民有志によるプロジェクト「edit Tango」は、丹後地方の価値ある文化や歴史の情報を伝えていくために、Wikipediaの編集など様々な活動を通じて情報発信を行っています。今回のイベントは全国各地で開催されているウィキペディアタウンのひとつであり、参加者が集まって久美浜町に関するWikipedia記事3記事を新規作成しました。
スケジュール
10:00~12:00 まちあるき
12:00~13:00 昼食
13:00~13:30 Wikipediaの説明など
13:30~15:30 Wikipedia編集
15:30~16:00 成果発表
10時の集合場所は熊野酒造です。丹後天酒まつりを開催中の熊野酒造を見学した後、福知山公立大学地域経営学部教授の小山元孝さんのガイドで金刀比羅宮と本願寺を見学し、12時に久美浜代官所跡でいったん解散しました。各自で昼食を食べた後、13時には豪商 稲葉本家に集合し、稲葉本家の2階でWikipedia編集などを行いました。
2. まちあるき
2.1 熊野酒造
熊野酒造は久美浜町に2軒ある酒蔵のひとつであり、イベント前にはWikipedia記事がありませんでした。
この日は酒蔵ツーリズムイベント「丹後天酒まつり」が開催されており、試飲や酒蔵の見学なども可能でした。丹後天酒まつりは大阪市や京都市からのバスツアーも行われる人気イベントであり、京都府北部の酒蔵が一斉に蔵開きをして観光客を迎えます。
(写真)熊野酒造で開催された丹後天酒まつり。
熊野酒造の敷地内では試飲や商品販売が行われ、蔵元杜氏の柿本達郎さんがマイクを使って商品の説明を行っていました。熊野酒造には「龍宮浪漫譚」や「杜氏の独り言」などの特徴的な商品があり、ラベルや容器へのこだわりが強いようです。
ウィキペディアタウンの参加者の中にはいくつもの酒の試飲を行っていた方もいますが、酒蔵の特徴を肌で感じることはWikipediaの編集にも活きてきます。
(写真)熊野酒造の醸造タンク。
(左)熊野酒造の代表銘柄「久美の浦」の由来となった久美浜湾。(右)熊野酒造。
2.2 金比羅神社
熊野酒造の背後にある山には金比羅神社(金比羅宮)があります。神社自体はWikipediaの編集題材ではありませんが、今回の編集題材である久美浜代官所に関係する史跡として訪れています。
(写真)金比羅神社の社殿。
和田主馬は天保年間(1831年~1845年)頃に久美浜代官を務めた人物であり、金比羅神社を崇敬して数々の寄進を行いました。「和田氏」と刻まれた石灯籠、寄進者の名前はないものの天保11年(1840年、※「天保十一子六月」)と刻まれた石灯籠、天保8年(1837年、※「天保八丁酉年」)と刻まれた石柱などがあります。
(左)和田主馬の寄進物である石灯籠A。(中)和田主馬の寄進物と思われる石灯籠B。(右)和田主馬の寄進物と思われる石柱。
また、『十楽区誌』によると石段も和田主馬が金比羅神社に寄進したものです。とても脆い石材でできており、かなり古い石段であることは想像できるのですが、小山元孝さんの説明や文献の情報がなければ気づくことのない寄進物です。
手水舎も石灯籠や石段と同じ材質の石でできており、古い手水舎にありがちな単純な構造であることから、やはり和田主馬による寄進物だと思われます。
(写真)和田主馬の寄進物である石段。
(写真)和田主馬の寄進物と思われる手水舎。
文献によると和田主馬は鳥居も寄進していますが、現在の鳥居には1925年(大正14年)4月と刻まれています。
1925年(大正14年)5月23日には兵庫県城崎郡豊岡町(現・豊岡市)を震源とする北但馬地震が発生し、豊岡町に隣接する久美浜町も甚大な被害を受けたことから、北但馬地震後に再建された鳥居だという説明がありました。
(写真)北但馬地震後に再建された鳥居。
2.3 本願寺
久美浜市街地の南東端には、広い境内に様々な建築物がある浄土宗の本願寺があります。天平2年(730年)に行基が創建したと伝わる古刹であり、鎌倉時代に建てられた本堂は1904年(明治37年)という早い時期に重要文化財に指定されています(※指定時は旧国宝)。
(写真)本願寺の祖師堂と屋根葺替工事中の本堂。
本堂は檜皮葺の屋根の葺替工事中でしたが、本堂の内部で住職の話を聞くことができました。
その題材のWikipedia記事を作成するという目的がある場合、本堂に安置されている文化財の写真を撮ったり、住職にあれこれ質問したりするのは有意義であり、ウィキペディアタウンというイベントを開催する意義だとも感じます。また、題材の当事者に話を聞くことで、きちんとしたWikipedia記事を書くという意欲にもつながります。
(左)本願寺の本堂にある千体仏。(右)鎌倉時代竣工の本願寺の本堂内部。
祖師堂と本堂の正面には色あせた額が飾られていました。「第二十番」とあることから霊場の札所の類かと思いましたが、Google検索では本願寺が何らかの霊場に含まれていることは判然としません。この額について小山元孝さんや住職に聞くと、本願寺は「法然上人御寄住遺跡第20番霊場」とのことでした。
山門の前には風変わりな形状の石柱があり、「施主 糀屋市郎右衛門」と刻まれていました。
午後の編集会場である稲葉本家の当主は稲葉市郎右衛門、稲葉本家の屋号は糀屋であり、稲葉市郎右衛門の寄進物とのこと。これも小山元孝さんに聞いてわかったことであり、町の歴史に詳しいガイドがいるウィキペディアタウンの意義を感じます。
(写真)稲葉市郎右衛門が寄進した山門前の石碑。
鐘楼は本願寺の建築物の中では新しく、袴腰であることを除けば注目すべき建物とは思いませんでした。小山元孝さんによると、鐘楼の製作者は久美浜出身の中村淳治とのこと。
中村淳治は京都府を中心として約70の堂宇の工事に携わった堂宮大工です。本願寺の鐘楼の他には、久美浜町の如意寺の本堂(新築)、峰山町の金刀比羅神社の神門(新築?)、宮津市の智恩寺の多宝塔(修理)なども手掛けており、国宝の三十三間堂、重要文化財の大覚寺寝殿、重要文化財の東寺南大門などにも関与しています。
『寺社建築と中村淳治棟梁の思い出』(如意寺、2002年)、『京丹後市のまちなみ・建築』(京丹後市、2017年)などに情報が記載されているようなので、いつか閲覧したいと思いました。
(写真)中村淳治が製作した鐘楼。
2.4 長明寺
久美浜市街地の中心部には真宗本願寺派の長明寺があります。まちあるき中に説明はありませんでしたが、個人的に立ち寄って境内を散策したところ、梵鐘が老子次右衛門の作であることに気づきました。老子次右衛門(名跡、老子製作所)は富山県高岡市の著名な鋳物師であり、戦後には多数の寺院の梵鐘を鋳造しています。
寺院を訪れる時には梵鐘の鋳造者を確認するようにしていますが、戦後すぐの時代に鋳造された梵鐘は近隣地域の鋳物師の作品であることが多い。長明寺の梵鐘は1965年(昭和40年)という遅い時期であることから、鋳造メーカーの統廃合が進行して単独企業の販路が大規模化していたのだろうかと考えました。
(写真)長明寺。(右)梵鐘。
(写真)久美浜市街地をまちあるき中の参加者。