振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

付知町の映画館

(写真)地図「昭和55年の上見屋周辺」。

2024年(令和6年)2月、岐阜県中津川市付知町を訪れました。かつて付知町には映画館「付知劇場」「大山劇場」がありました。「付知町を訪れる」からの続きです。「恵那郡福岡町の映画館」に続きます。

 

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1. 付知町の映画館

各年版の映画館名簿を見ると、恵那郡付知町には付知劇場と大山劇場という2館の映画館がありました。

 

1.1 大山劇場(1908年1月-1964年頃)

所在地 : 岐阜県恵那郡付知町(1964年)
開館年 : 1908年1月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大山劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ベル・ケイホク電器」北東30mの駐車場。

安政2年(1855年)、護山神社の境内に田口慶郷が籠所を建立し、祭礼の際には舞台として使用されていました。1879年(明治12年)頃には倉屋神社の裏に移築されて森本座と称するようになり、1908年(明治41年)には大門町に移築されて大山座となります。戦後に大山劇場として映画館名簿に掲載されていたのはこの建物だそうです。

大山劇場の跡地と推定した場所の東側はやや低くなっており、広嶋野稲荷神社という小規模な社がありました。この社の近くにいた女性(80代?)に話を聞くと、

通り沿いの駐車場の場所に大山劇場があった。もう劇場の名残は何もない。駐車場を持っているのは隣の地主である。付知町には大山劇場のほかに、広野に付知劇場もあった」とのことでした。もうひとつの劇場である付知劇場があった広野林とは3kmの距離があります。

(写真)大山劇場。『付知町史 通史編資料編』付知町、1974年。

 

中津川市立図書館が所蔵する1979年(昭和54年)の住宅地図には大山劇場という文字があり、同年時点ではまだ劇場の建物が残っていたと思われます。現在の跡地はガレージ(月極駐車場)となっています。

(写真)1979年の住宅地図における大山劇場跡地周辺。

(写真)大山劇場跡地にあるガレージ。

(写真)大山劇場跡地にあるガレージ。

 

大門町は付知盆地北部における中心地区ですが、付知地域デザインミュージアムが活動している広野林と比べると活気がないように思われます。

(写真)1940年の大門地区から出征するトラック。『中津川・恵那の今昔』郷土出版社、2006年。

(写真)大山劇場があった大門町の中心部。

 

1.2 付知劇場(1923年-1969年)

所在地 : 岐阜県恵那郡付知町広野林(1968年)
開館年 : 1923年、1945年
閉館年 : 1969年
『全国映画館総覧1955』によると1945年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「付知劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「付知映画劇場」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「付知劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「割烹旅館上見屋」北北東90mの「加地工務店社員寮」。

明治初期の付知盆地は御嶽山への参拝路となり、1875年(明治8年)には広野林(廣野林、こうやばやし)に旅館の上見屋が創業しています。明治20年代には街道筋が本格的に整備され、広野林には多くの商店や旅人宿が開業、付知盆地南部の商業の中心となりました。

もともとこの地には芝居小屋の大新座があり、1898年(明治31年)頃には付知村初の活動写真の上映が行われたようです。1919年(大正8年)に大新座が焼失した後、1923年(大正12年)3月に付知劇場として再建されました。

(写真)閉館間際の1968年の付知劇場。『ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年。

 

2021年(令和3年)から、東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻交通・都市・国土学研究室は上見屋をリノベして付知地域デザインミュージアムとし、付知町地域活性化を図っています。

付知地域デザインミュージアムが発行する『つけちレター』第2号には「柳屋の北側の"よこまち"に付知劇場があった」という記述があります。付知地域デザインミュージアムの正面の広場には1980年(昭和55年)の上見屋周辺の地図が看板化されており、「医院(以前付知劇場)」という建物も描かれていました。

(写真)「医院(以前付知劇場)」が描かれた「昭和55年の上見屋周辺」。

(写真)上見屋周辺の説明看板。

(写真)上見屋周辺の説明看板がある広場。

(写真)1979年の住宅地図における付知劇場跡地周辺。

 

付知劇場の閉館は大山劇場より数年遅く、1969年(昭和44年)12月1日の浪曲大会が最後の興行となりました。付知劇場の跡地には豊演堂医院が建ちますが、豊演堂医院は付知町長なども務めた伊藤公道が創業した病院です。

 

伊藤 公道(いとう ひろみち、1879年10月7日-1967年7月5日)は、岐阜県恵那郡福岡村出身の医師・政治家。

田瀬尋常小学校と付知尋常小学校高等科を卒業後、1907年(明治40年)に日本医学校(現・日本医科大学)を卒業し、同年には医師国家試験に合格した。故郷の付知町に豊演堂医院を開業し、町民に推されて地方自治の世界にも進出している。1916年(大正5年)には付知町会議員に(3期)、1935年(昭和10年)には岐阜県会議員に(1期)、1936年(昭和11年)には付知町長に(3期)就任した。89歳で死去した。

(写真)付知劇場跡地の社員寮。

 

よこまちを歩いてみます。看板がなければ見過ごしてしまう路地ですが、街道に近いいくつかの敷地を囲う塀、付知劇場の西側にある若松屋旅館を囲う漆喰塗りの土塀、1軒のみ残るスナック キャッツアイの看板、今となっては場違いにも見える商店街の街路灯などが往時の名残だと思われます。

(写真)付知劇場があったよこみち。

(写真)付知劇場跡地とよこみち。

 

上見屋のはす向かい、よこまちの入口には旧柳屋酒店の立派な和風建築があります。1885年(明治18年)から1886年明治19年)頃に創業した酒屋であり、この2020年(令和2年)に廃業したようです。上見屋と並んで広野林ではシンボリックな建物ですが、今後建物が活用されるのか気になります。

(写真)大正時代の広屋林地区の上見屋周辺。右が上見屋。『中津川・恵那の今昔』郷土出版社、2006年。

(写真)現在の上見屋周辺。左が上見屋、右が旧柳屋酒店。

 

付知町の映画館について調べたことは「中津川市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

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