(写真)高松伸によって設計された西福寺本堂。
かつて可児市には映画館「ひかり劇場」がありました。「可児市兼山を訪れる」「御嵩町伏見の映画館」からの続きです。
1. 可児市を訪れる
1.1 広見市街地
かつて可児市にあったひかり劇場跡地近くには臨済宗の西福寺があります。設計者はコンクリートを用いたポストモダニズム建築が特徴の高松伸。1982年(昭和57年)竣工には見えない洗練された外観なのを目を見張るし、大御所の建築家である高松伸がまだ若かった頃の作品というのも驚きです。
(写真)西福寺。
可児市の旧市街地は西福寺の南側に広がっていました。1928年(昭和3年)以前の広見駅(現・JR可児駅)は下図の右下にありました。
(地図)「昭和3年頃の村木のまちなみ」『可児市史 第4巻 民俗編』可児市、2007年。
(写真)東雲座/ひかり劇場跡地から東に延びる通り。
(写真)西福寺から南に延びる路地。
1928年(昭和3年)には吉田倉庫銀行と広見銀行が合併して美濃合同銀行が設立され、同年には鉄筋コンクリート造の美濃合同銀行広見支店が竣工しました。1940年(昭和15年)には十六銀行に買収されて十六銀行広見支店となり、今日では岩田歯科医院に転用されています。「昭和3年頃の村木のまちなみ」では美濃合同銀行と書かれています。
(写真)岩田歯科医院と南北の通り。
(写真)岩田歯科医院と東西の通り。
1.2 可児市の商店街
旧市街地に活気のある商店街は残っていません。
(写真)ビレッジ元町。
(写真)ビレッジ元町。
(写真)ビレッジ元町。
2. 映画館の文献
2.1 映画館名簿
東雲座が掲載されている1953年(昭和28年)の映画館名簿、ひかり劇場が掲載されている1964年(昭和39年)の映画館名簿です。映画館名簿にみえる経営者は一貫して日比野光雄であり、日比野は1955年(昭和30年)に発足した第1回可児町議会議員でもありました。
可児市域に存在した映画館は東雲座/ひかり劇場のみですが、他には今渡や兼山も拠点性のある集落であり、戦前の今渡にはカフェーや玉突場があったようです。
(写真)可児郡広見町に東雲座が掲載されている『全国映画館名簿1953』時事通信社、1953年。
(写真)可児郡可児町広見にひかり劇場が掲載されている『映画便覧1964』時事通信社、1964年。
2.2 渡辺善十郎
明治初期の村木(後の広見、現在の可児市中心部)はそれほど拠点性の強い集落ではなかったようです。1883年(明治16年)に製糸工場ができたことで東西の明治街道沿いに商店が増え、1887年(明治20年)には渡辺善十郎によって、廻り舞台を有する芝居小屋として東雲座が開館しました。
『可児市史 第4巻 民俗編』では創設者の渡辺善十郎について、広見町に様々なものをもたらした人物として紹介されています。劇場のほかには、時計(1875年頃)、洋服(1885年)、靴(1885年)、蓄音機(1917年)などの新文化を持ち込んだようです。
新多治見駅(現・多治見駅)と広見駅(現・可児駅)を結ぶ東濃鉄道(現・JR太多線)が開業したのは1918年(大正7年)。1920年(大正9年)には広見駅と御嵩駅(現・御嵩口駅)を結ぶ路線(現・名鉄広見線)も開通し、広見市街地は一気に交通結節点としての役割を強めます。
なお、現在のJR可児駅/名鉄新可児駅は可児川西岸(右岸)の下恵土にありますが、1928年(昭和3年)以前は可児川の東岸(左岸)にあり、現在のほっともっと可児広見店付近にあったようです。
渡辺善十郎(1846年~1926年)
尾張国丹羽郡羽黒村(現・愛知県犬山市)に生まれ、元治元年(1864年)に美濃国可児郡村木村(現・岐阜県可児市)の渡辺家に養子に入った。渡辺家は造り酒屋を営む商家であり、1883年(明治16年)には新たな事業として製糸工場を設立した。
可児銀行や広見銀行の創設者となり、東濃鉄道の設立にも携わった。伊香郵便局の初代局長も務め、村木村の興文義校で教壇に立ったこともある。渡辺家の電話番号は広見交換局における1番だった。
1882年(明治15年)から1889年(明治22年)まで岐阜県会議員を務め、1890年(明治23年)から1894年(明治27年)には広見村長を務め、1912年(大正元年)から1913年(大正2年)には再び岐阜県会議員を務めた。1916年(大正5年)4月には銅像が建立され、1926年(大正15年)に死去した。
※東京府出身の実業家・衆議院議員である渡辺善十郎 - Wikipedia(1883年~1967年)は別人です。
(写真)東雲座を設立した渡辺善十郎。『可児市史 第4巻 民俗編』可児市、2007年。
3. 可児市の映画館
3.1 ひかり劇場(1887年-1965年頃)
所在地 : 岐阜県可児郡可児町広見(1965年)
開館年 : 1887年(劇場)、1960年(映画専門館)
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「東雲座」。1961年の映画館名簿では「ひかり映画劇場」。1962年の映画館名簿では「ひかり劇場」。1963年の映画館名簿では「ひかり映画劇場」。1965年の映画館名簿では「ひかり劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西福寺」の南西90mにある数軒分の民家。
(写真)戦後間もない頃の東雲座で行われた地歌舞伎の公演。
(写真)1955年3月に桝席が椅子席に改装された東雲座。『目で見る 可児・加茂の100年』郷土出版社、1990年。
ひかり劇場跡地から東に延びる通りには日本料理店の鈴川があります。鈴川は創業60余年とのことで戦後に開店したようですが、「昭和3年頃の村木のまちなみ」にも鈴川の場所に「料理店」が描かれています。鈴川の玄関前のベンチに座っていた男性(70代?)に話を聞くと、
「この通りの突き当りに映画館があった。しばらく建物が残っていたが、何年か前に取り壊された。この辺りはすっかり変わってしまった」とのことです。
Googleストリートビューを見ると、東雲座/ひかり劇場の建物は2012年(平成24年)から2015年(平成27年)の間に取り壊されて住宅に代わったようです。
(写真)2012年時点のひかり劇場の廃墟。Googleストリートビュー
(写真)2012年時点のひかり劇場の廃墟。Googleストリートビュー
(写真)2012年時点のひかり劇場の廃墟。Googleストリートビュー
(写真)現在のひかり劇場跡地周辺。
(写真)現在のひかり劇場跡地周辺。
可児市の映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。