(写真)野寺の街並み。
2022年(令和4年)4月、岐阜県海津市平田町野寺を訪れました。かつて野寺には映画館「野寺劇場」がありました。「海津市石津地区の映画館」からの続きです。「海津市海津町高須の映画館」に続きます。
1. 野寺を訪れる
1.1 野寺の街並み
海津市の最北端、長良川の西岸(右岸)に野寺があります。海津市のコミュニティバスは市外の岐阜羽島駅を発着地としていますが、このバスは野寺を通って今尾(旧平田町の中心地区)や高須(旧海津町の中心地区)などの地区に向かいます。
西濃地域では集落のまとまりを表す単位として "輪中" がありますが、野寺は今尾や高須と同じ高須輪中に含まれます。コミュニティバスが野寺に入る際には河川の堤防ではない堤を越えますが、桜並木で知られるこの大榑川堤(おぐれがわてい)こそが輪中堤防でした。
(写真)野寺の街並み。
現在の野寺の人口は約600人。最盛期でも1000人を超えなかったと思われます。寺院が3軒(おそらく2軒は無住)、神社が1社。公共施設は郵便局、公民館、こども園。商店は和菓子屋、酒屋、電気店。西端から東端まで500mしかない集落ですが、かつては映画館もありました。
(写真)野寺の街並み。
(写真)野寺の街並み。
(写真)野寺の街並み。
1.2 野寺の民家と石垣
水害に悩まされた地域だけあって、輪中内の他集落と同様に、民家の基礎などに石垣が見られます。
(写真)野寺の民家。
(写真)上の写真と同じ民家。
(写真)野寺の民家。
(左・右)上の写真と同じ民家。
(写真)野寺の民家。
(左・右)野寺の石垣。
(左・右)野寺の石垣。
1.3 野寺の神社・寺院
(左・右)神明神社。
街並みの中央部には真宗大谷派の正休寺があります。永正3年(1506年)に実如上人の法子である正休が開基となったことが名前の由来です。1891年(明治24年)の濃尾地震では本堂が倒壊しています。
(写真)正休寺。
(左・右)正休寺。
無住と思われる西福寺も真宗大谷派の寺院。中島郡堀津村(現・羽島市)に慶覚寺として創建され、永正14年(1517年)に堀津村が水害にあって住民が移住した際、野寺に移って西福寺に改称しています。1891年(明治24年)の濃尾地震ではやはり本堂が倒壊しています。
(左・右)西福寺。
(写真)長江院。
2. 野寺の映画館
2.1 野寺劇場(1955年頃-1963年頃)
所在地 : 岐阜県海津郡平田町野寺(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「野寺劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が棚橋文樹、支配人が宇野幸男、木造1階、定員600、上映系統記載なし。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。
映画館名簿によると野寺には野寺劇場がありました。映画館名簿以外では野寺劇場に言及した文献を見つけられていません。
(写真)『映画便覧 1963』時事通信社、1963年。愛知県図書館所蔵。
集落内唯一の商店といえる戸谷製菓舗で野寺劇場について話を聞くと、戸谷製菓舗のはす向かい、正休寺の真向かいにある民家の奥まった場所に映画館があったとのこと。跡地の民家は1960年代の野寺劇場閉館後に建ったのでしょう。
1961年(昭和36年)の航空写真を見ると野寺劇場と思われる建物が写っていますが、野寺劇場と通りとの間にも建物があって不自然にも見えます。年配の方からも話を聞いてみたいところです。
(写真)1961年の野寺劇場の場所。地図・空中写真閲覧サービス
(写真)野寺劇場跡地にある民家。
(写真)話を聞いた戸谷製菓舗。
(左・右)話を聞いた戸谷製菓舗。いちご大福を買いました。
海津市平田町野寺にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。