振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

本庄市の映画館

(写真)旧本庄商業銀行煉瓦倉庫。

2023年(令和5年)1月、埼玉県本庄市を訪れました。かつて本庄市街地には映画館「本庄文化劇場」、「本庄シバタ東映」、「第二常盤座」(電気館)、「常盤座」がありました。「本庄市を訪れる」からの続きです。

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1. 本庄市の映画館

本庄商業銀行煉瓦倉庫には1914年(大正3年)の『埼玉県本庄町名細地図』が展示されていましたが、この地図は埼玉県立図書館デジタルライブラリーでも閲覧することができます。当時の本庄町で最も栄えていたのは中山道沿いであり、中山道から分岐する形で七軒町、照若町、駅前通りの各通りがあったことがわかります。また、常盤座の前身である丸山座、電気館(第二常盤館)の2館を見つけることができます。

(地図)『埼玉県本庄町名細地図』刀水社、1914年。検索時には"明細"ではなく"名細"であることに注意。

 

1930年の映画館名簿

1930年(昭和5年)には埼玉県全体で22館の映画館があり、児玉郡本庄町には本庄電気館(後の第二常盤座)と常盤座の2館がありました。近隣の熊谷町には3館、深谷町には1館。浦和町や大宮町でさえも1館しかなかったことを考えると、養蚕業や製糸業で栄えたこの地域は現在よりも存在感があったようです。

 

1960年の映画館名簿

日本の映画館数がピークを迎えた1960年(昭和35年)の映画館名簿には、本庄市の映画館として4館が掲載されています。当時の本庄市の人口は、東松山市春日部市狭山市羽生市深谷市などと同等。人口を考えると映画館数が多かったのが分かります。

 

1978年の映画館名簿

1968年(昭和43年)に第二常盤座が閉館し、本庄市の映画館は駅前通りにある2館のみとなりました。両館の経営会社は鷹の羽興業ですが、鷹の羽興業は主に熊谷市で多数の映画館を経営していた企業であり、2023年(令和5年)現在も熊谷市シネコン シネティアラ21の運営を担っています。この後、1980年(昭和55年)には本庄シバタ東映が閉館し、1985年(昭和60年)には本庄文化劇場も閉館したことで、本庄市から映画館がなくなりました。

 

1.1 常盤座(1916年1月-1965年頃)

所在地 : 埼玉県本庄市七軒町2765(1965年)
開館年 : 1916年1月、1953年7月5日(建て替え)
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「常盤座」。1947年・1950年の映画館名簿では「本庄常盤座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「常盤座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は料理店「海鮮四季北海亭本庄店」。最寄駅はJR高崎線本庄駅

明治時代の本庄町には秩父新道(現在の銀座通り)の七軒町に劇場の宮森座がありました。1910年(明治43年)5月21日には群馬新聞社主催の活動写真上映会が開催されています。1911年(明治44年)には丸山善太郎(運送業、本庄町会議員)の所有となって丸山座に改称し、1914年(大正3年)の『埼玉県本庄町明細地図』には丸山座として描かれています。

(写真)丸山座が描かれている『埼玉県本庄町明細地図』刀水社、1914年。

 

1916年(大正5年)1月には丸山座の後継施設として株式組織の常盤座が竣工し、1918年(大正7年)3月24日の時局演説会では深谷町出身の渋沢栄一も来館しました。戦後の1953年(昭和28年)7月5日には2代目の建物に建て替え、1965年(昭和40年)頃まで営業していたようです。跡地の広い敷地には海鮮四季北海亭本庄店という料理店が建っています。

(左)昭和初期の初代常盤座。『目で見る 本庄・児玉の100年』郷土出版社、1993年。(右)常盤座の広告。『本庄町誌』本庄商工会、1935年。

(写真)2代目常盤座の建設工事。『写真集 明治大正昭和 本庄』国書刊行会、1980年。

(写真)1953年に開館した2代目常盤座。『本庄のむかし』柴崎起三雄、2010年。

 

1.2 第二常盤座(電気館、1914年-1968年頃)

所在地 : 埼玉県本庄市七軒町4162(1968年)
開館年 : 1914年
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年・1936年の映画館名簿では「本庄電気館」。1943年の映画館名簿では「第二常盤」。1947年の映画館名簿では「本庄第二常盤座」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「第二常盤座」。1958年の映画館名簿では「第二常盤」。1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「第二常盤座」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「本庄常盤座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR高崎線本庄駅

埼玉県初の活動写真常設館は本庄町の電気館とされています。電気館は1914年(大正3年)に開館し、約1年後には休館となるものの、1920年大正9年)に営業を再開しています。1914年(大正3年)の『埼玉県本庄町明細地図』にも電気館が描かれています。

(写真)電気館が描かれている『埼玉県本庄町明細地図』刀水社、1914年。

 

電気館の北側と西側は崖になっているし、商店街のにぎわいが届かない奇妙な場所にあります。幕末頃から明治中期のこの場所には旅籠の小倉屋(小倉山房)があり、東側の隣接地には旅館・料亭の五州楼もありました。五州楼の跡地は結婚式場の敷地となっています。

(写真)割烹 五州園の広告。『本庄繁昌記』中山清夫、1899年。

(写真)第二常盤座。『本庄のむかし こぼれ話』柴崎起三雄、2017年。

 

戦中の1940年(昭和15年)には第二常盤座に改称し、1968年(昭和43年)頃まで営業していたようです。跡地には民家が建っており、劇場の痕跡は何もありません。

(写真)第二常盤座跡地の民家。

(写真)第二常盤座跡地の民家。西側の斜面下から。

 

電気館/第二常盤座から中山道に向かう通りは第二トキワ座通りという名称であり、第二トキワ座通りの南端部には電気館にちなんだ名称の電気館カレーがあります。

(左)第二トキワ座通り南端の電気館カレー。(右)第二トキワ座通り(電気館通り)と書かれた看板。

(写真)第二トキワ座通り。南端のDining晴付近。

 

第二トキワ座通りにある山口青果の小柄な女性(70代?)に話を聞きました。

ここ(山口青果)から通りを北に向かい、坂(寺坂通り)を下らずに道なりに進むと、左手に日活の映画館があった。私が子供のころまであった。映画がはねると大勢の観客が通り(第二トキワ座通り)を通って帰った。映画館の跡地は住宅になっている

かつて第二トキワ座通りの北には富士機工の本庄工場があった。ヤオコーさん(ビバモール本庄)ができたので、今でも第二トキワ座通りを抜ける車は多い

 

第二常盤座の近くに住む女性(70代?)にも話を聞きました。女性と話している途中には視界の隅で2匹のねこが走り回っていました。

アパートの南隣の家の場所に映画館があった。私は16歳の時に本庄に引っ越してきたが、19歳の頃まで営業していた記憶がある。舟木一夫橋幸夫が出演した『高校三年生』(1963年)がかかったのを覚えている

映画館の西側はもう少し敷地が広かったが、崖が崩れてしまって狭くなっている。私の家は映画館の自転車置き場だった場所に建っている。道の突き当りには風呂屋があった

(写真)第二トキワ座通り。中央部の山口青果。

(写真)第二トキワ座通り。北端部の瀬山タバコ店。

 

1.3 本庄シバタ東映(1958年12月10日-1980年2月)

所在地 : 埼玉県本庄市本庄1-3-4(1980年)
開館年 : 1958年12月10日
閉館年 : 1980年2月
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「本庄シバタ東映」。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「本庄シバタ東映劇場」。1980年の映画館名簿では「本庄シバタ東映」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「三井のリパーク本庄駅北口駐車場」。最寄駅はJR高崎線本庄駅

1956年(昭和31年)には国鉄高崎線上野駅高崎駅間が電化され、1960年代前半に本庄駅南側の区画整理事業で大規模な住宅地が造成されます。この頃には本庄駅周辺が発展し、本庄市で遅くまで残った2館は駅前通りにありました。

(写真)本庄シバタ東映跡地の有料駐車場。

 

1.4 本庄文化劇場(1950年4月-1985年頃)

所在地 : 埼玉県本庄市1-1-28(1985年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1985年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「本庄文化映画劇場」。1960年の映画館名簿では「本庄文化映劇」。1963年の映画館名簿では「本庄文化映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1980年・1985年の映画館名簿では「本庄文化劇場」。1986年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はJR高崎線本庄駅北口北北東80mにある駐車場。最寄駅はJR高崎線本庄駅

(写真)文映が描かれている1983年の住宅地図。

(写真)本庄文化劇場跡地の有料駐車場。

 

本庄市にあった映画館について調べたことは「埼玉県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(埼玉県版)」にマッピングしています。

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