振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

川口干拓を訪れる

(写真)川口干拓の災害復興建築。

2024年(令和6年)5月、愛知県碧南市川口町の川口干拓(碧南干拓)を訪れました。

戦後の1946年(昭和21年)から食糧増産のための干拓事業が行われ、1956年(昭和31年)に入植が開始された地区です。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風後に建設されたコンクリートブロック造の災害復興建築(災害復興住宅)が10棟以上現存しています。

 

1. 碧南干拓建設事業

碧南市の南部、矢作川と蜆川に挟まれた三角地帯には大きな干拓地に農地が広がっています。文政11年(1828年)に斎藤倭助によって開発された前浜新田、1956年(昭和31年)に農林省によって開発された川口干拓の2地域からなります。

碧南市は東海地方最大の玉ねぎ産地だそうで、3月から5月にはあちこちの畑で玉ねぎの収穫と出荷作業が行われていました。

(左)川口町の玉ねぎ畑。(右)河方町の玉ねぎ畑。

(地図)碧南市における川口干拓(碧南干拓)の位置。『碧南干拓災害復旧事業記録』農林省名古屋農地事務局、1963年。

(地図)碧南干拓建設事業平面図。『碧南市史 第3巻』碧南市、1974年。

 

1.1 人造石の堤防

川口干拓は四方を堤防に囲まれています。西側・南側・東側の三方は1956年(昭和31年、※1959年の伊勢湾台風後に再建)に築かれた堤防ですが、北側は前浜新田の堤防として築かれた堤防であり、1901年(明治34年)以後の数年間には人造石によって補強工事がなされたとのことです。

人造石は土木技術者の服部長七によって発明された工法であり、コンクリートが普及する前に樋門・堤防・護岸などに用いられました。服部長七の没後100年にあたる2019年(令和元年)には碧南市藤井達吉現代美術館で企画展「没後100年 服部長七と近代産業遺産」が開催され、中部産業遺産研究会によってシンポジウムが開催されています。

(地図)干拓前の1888年~1898年、干拓後の1959年~1960年。今昔マップ

(写真)人造石が用いられた堤防。Googleストリートビュー

 

1.2 石碑「碧南開拓記念碑」

川口神社の南側にある川口ちびっ子広場には、川口干拓の入植40年を記念して1996年に建立された石碑「碧南開拓記念碑」があります。

(写真)石碑「碧南開拓記念碑」。

 

戦後すぐの時期に、碧海郡大浜町・棚尾町・旭村の各町村によって干拓地造成の運動が行われると、1946年(昭和21年)10月に農林省によって碧南干拓地造成工事が開始され、10年後の1956年(昭和31年)10月に竣工しました。

1955年(昭和30年)4月と1956年(昭和31年)10月に100戸が入植しましたが、うち愛知県から移住したのは50戸に過ぎず、他地域からは長野県26戸、山梨県14戸、岐阜県10戸が移住しています。総面積172ヘクタールのうち、畑が105ヘクタール、田が30ヘクタール、宅地が7ヘクタールとのことで、当初から畑を主体とした干拓地だったようです。

1964年(昭和39年)10月には碧南市川口町(かわぐちちょう)という町名が決定。なお、碧南市に152ある町名のうち151は「○○まち」と読みますが、戦後に造成された川口町のみは「○○ちょう」と読むようです。

1973年(昭和48年)3月には碧南開拓農業協同組合が解散して碧南市農業協同組合に加入。1993年(平成5年)4月には行政区が旭地区から大浜地区に移管されています。

(写真)石碑「碧南開拓記念碑」。

(写真)石碑「碧南開拓記念碑」。

 

1.3 川口神社

川口集落の北東端にある川口神社は、1970年(昭和45年)9月16日に建立された神社です。

(写真)川口神社。

 

祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、迦具土神(かぐつちのかみ)。例祭は毎年4月第3日曜。2002年(平成14年)12月には京都・河原町五条の市比賣神社から合祀していますが、どういう理由からでしょうか。

(写真)看板「川口神社」。

(写真)看板「川口神社由緒」。

 

2. 災害復興建築

2.1 災害復興建築の建設

1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風では護岸堤防の71%が決壊し、入植した全100戸が流出するという甚大な被害を受けました。

川口干拓と同様に戦後に造成された名古屋・鍋田干拓では、318人の住民のうち133人が死去するというすさまじい犠牲が出ていますが、川口干拓では死者はいませんでした。

(写真)伊勢湾台風における川口干拓の被害。『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 碧南』国書刊行会、1980年。

 

伊勢湾台風後の1960年(昭和35年)から1961年(昭和36年)にかけて、川口干拓ではコンクリートブロック造で33棟の災害復興建築が建設されています。

川口干拓は入植者が100戸で災害復興建築は33棟。名古屋・鍋田干拓は入植者が144戸で災害復興建築は136棟。入植戸数と棟数の比率が大きく異なりますが、これが被害の大きさ(死者0人と死者133人)によるものなのか、役割の違い(避難小屋(?)と本宅)によるものなのかはわかりません。

参考:堀田典裕『伊勢湾台風復興住宅』の建築デザインに関する史的研究

(写真)伊勢湾台風後に建設された入植者住宅(災害復興建築)。『碧南干拓災害復旧事業記録』農林省名古屋農地事務局、1963年。

 

2.2 現存する災害復興建築

(写真)災害復興建築9。

(写真)災害復興建築1。

(左)災害復興建築2。(右)災害復興建築3。

(左)災害復興建築4。(右)災害復興建築5。

(左)災害復興建築13。(右)災害復興建築12。

 

太平洋戦争後には川口干拓のほかに、名古屋市の鍋田干拓西尾市の平坂干拓三重県桑名市の城南干拓も国費で開発されました。いずれも伊勢湾台風では大きな被害を受け、台風後にはコンクリートブロック造の災害復興建築が建てられています。

城南干拓のみは建物の形状がやや異なりますが、川口干拓、鍋田干拓、平坂干拓では同じ凸型のデザインの3階建てが建てられています。

(写真)名古屋・鍋田干拓の災害復興建築。『よみがえる鍋田干拓』鍋田開拓農業協同組合、 1969年。

 

2011年(平成23年)度時点で、川口干拓に建設された災害復興建築33棟のうち19棟が現存していたようです。それより数を減らしているものの、2024年(令和6年)現在でも少なくとも13棟が現存しています。

(写真)川口干拓に現存する災害復興建築。地理院地図

 

敷地内における災害復興建築の位置や向きは民家によってばらばらであり、道路に接しているものもあれば、物置1棟分奥に建てられているものもあります。

川口干拓とは異なり、鍋田干拓では全ての災害復興建築が同一の位置に同じ向きに建てられており、航空写真を見るとその違いが顕著です。

(写真)川口干拓の民家の敷地における災害復興建築の位置。Googleマップ

(写真)鍋田干拓における災害復興建築。『よみがえる鍋田干拓』鍋田開拓農業協同組合、 1969年。