(写真)大江山。photo:As6022014 - Wikimedia Commons
2022年(令和4年)7月、京都府福知山市大江町を訪れました。大江町の中心市街地である河守(こうもり)には映画館の「八千代座/八千代映劇」が、河守鉱山には「河守会館」がありました。
1. 大江町の映画館
1.1 河守会館(1959年11月3日-1960年代前半)
所在地 : 京都府加佐郡大江町佛性寺
開館年 : 1959年11月3日
閉館年 : 不明
映画館名簿には掲載されていない。1969年に操業停止して1973年に閉山した河守鉱山にあった。「酒呑童子の里 体育館」として映画館の建物が現存。
日本鉱業株式会社の主たる営業所は茨城県の日立鉱山 - Wikipedia(日本鉱業日立鉱業所)ですが、日立鉱山の共楽館 - Wikipediaをはじめとして、各営業所には福利厚生施設として劇場が建設され、映画の上映などが行われていました。大江町の河守鉱山 - Wikipedia(日本鉱業株式会社河守営業所)は主に銅の採掘を行っていた鉱山であり、福利厚生施設としては昭和30年代に河守会館がありました。600人を収容できる規模であり、1週間に1回の頻度で映画を上映していたそうです。
(写真)河守会館の内部。『大江町発足40周年記念誌』(大江町、1991年)。
『大江伝 新市移行記念誌』(大江町、2005年)によると、河守会館の開館は1959年(昭和34年)11月3日とのこと。1960年代初頭にはテレビが普及したことで、共楽館ですら1965年(昭和40年)には映画の上映を終了しており、『社史 五十年史続編』(日本鉱業、1967年)によると "その他の事業所でも同様の状態となった" とのこと。河守鉱山は1969年(昭和44年)に休山、1973年(昭和48年)に閉山しています。
『大江町発足40周年記念誌』(大江町、1991年)には河守会館の内部の写真が掲載されています。2022年(令和4年)現在も河守会館の建物は現存しており、体育館として用いられています。
(写真)河守会館に言及している新聞記事。「最盛期には年間12万トン 銅鉱石を中心に産出」『両丹日日新聞』2007年7月19日。
(写真)河守会館に言及している新聞記事。「最盛期には年間12万トン 銅鉱石を中心に産出」『両丹日日新聞』2007年7月19日。
(写真)河守会館。南東から入口を見る。Googleストリートビュー
(写真)河守会館。南西から。Googleストリートビュー
1.2 八千代座/八千代映劇(戦前-昭和30年代頃)
所在地 : 京都府加佐郡大江町字関(1954年・1955年)
開館年 : 戦前
閉館年 : 不明
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「八千代座」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに上野寿明、250席、上映作品は邦画混合。1956年・1957年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。
各年版の『映画館名簿』を閲覧すると、1954年版と1955年版にだけ八千代座が登場します。しかし、『大江町誌 通史編 下巻』(大江町、1984年)によると1951年(昭和26年)5月には八千代座で大江町商工会の設立総会が開催されたことが記されています。また、1951年時点で八千代座は "旧演劇場" として言及されていることから、戦前からあった演劇場だと思われます。
(写真)八千代座が掲載されている『全国映画館名簿 1955』(時事通信社、1955年)。
『大江伝 新市移行記念誌』(大江町、2005年)によると、1955年(昭和30年)12月23日には大江町河守に八千代映劇ができたとあります。旧演劇場の八千代座を取り壊して映画館の八千代映劇を建てたと考えるのが妥当ですが、八千代映劇については『映画館名簿』に掲載されておらず、いつ頃に閉館したのかわかりません。
(写真)『大江伝 新市移行記念誌』(大江町、2005年)。
(写真)八千代映劇があった時代に近い1966年の大江町関。『保存版 福知山・綾部の今昔』(郷土出版社、2004年)
大江町にあった映画館について調べたことは「京都府の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(京都府版)」にマッピングしています。