振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

打田町の映画館

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(写真)紀の川市立河北図書館。

2021年(令和3年)9月、和歌山県紀の川市打田地区(旧・那賀郡打田町)を訪れました。かつて打田町(うちたちょう)には映画館「打田新劇」がありました。

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(地図)和歌山県北部における紀の川市の位置。©OpenStreetMap contributors

 

1. 紀の川市立河北図書館

1.1 紀の川市の図書館の歴史

2005年(平成17年)には那賀郡打田町・貴志川町粉河町・那賀町・桃山町の5町が合併して紀の川市が発足。合併前には打田町以外の4町それぞれに図書館がありました。

2015年(平成27年)には紀の川市粉河図書館・那賀図書館・桃山図書館の3館を廃止。貴志川図書館を建て替えて紀の川市立河南図書館とし、打田町に紀の川市立河北図書館を新設した結果、2016年(平成28年)からは紀の川市立河北図書館「ひこぼし」と紀の川市立河南図書館「おりひめ」の2館体制となっています。図書館の廃止はまだまだ珍しく、図書館界の一部には衝撃があったようです。

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(写真)紀の川市打田生涯学習センター。

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(写真)紀の川市立河北図書館の入口。

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(写真)紀の川市立河北図書館の館内。

 

1.2 河北図書館の館内

2006年(平成18年)4月に開館した河北図書館の収容冊数は9万冊。天井が高いワンフロア型の図書館で、6万人という紀の川市の規模を考えれば中央館という位置づけなのかと思いましたが、収容冊数19万冊という河南図書館はさらに規模が大きいようです。

分類パネルや選書はやや個性的で、つい棚をじっくり見てしまいました。『相棒』シリーズの上には歴代の相棒の手書きイラストが描かれているなど、スタッフの存在を感じるコーナーも多かったです。

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(写真)一般書の2類の書架。

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(写真)一般書の2類の書架。

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(写真)一般書の2類の書架。

 

 

2. 打田町の映画館

2.1 打田新劇(1950年代後半-1962年頃)

所在地 : 和歌山県那賀郡打田町久留壁(1962年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「大国座」。1960年・1962年の映画館名簿では「打田新劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「打田駅」北北西90mにある建物。最寄駅はJR和歌山線打田駅。

1950年代後半から1960年代前半の『映画館名簿』を見ると、打田町の映画館としては「打田新劇」(大国座)と「朝映劇場」(朝日座)が掲載されています。このうち打田新劇は打田駅前の久留壁(くるべき)に、朝映劇場は打田駅から約1km北の北大井にあったようです。今回は打田新劇のみを調べました。

1958年の映画館名簿には長田貢が経営する大国座として掲載され、1962年の映画館名簿には田中祥亮が経営する打田新劇として掲載されています。定員は両者でやや異なりますが、発声器と映写機のメーカーが同じであることや、電話番号が同じであることから大国座と打田新劇が同一の劇場であると判断しました。

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(写真)打田町の映画館として大国座が掲載されている1958年の映画館名簿。

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(写真)打田町の映画館として打田新劇が掲載されている1962年の映画館名簿。

 

打田駅の駅前通りにある岩城時計店の主人(60代後半?)に打田新劇について話を聞くと、

1956年に合併で打田町が発足する前、この辺りが池田村と田中村だった頃には、岩城時計店の前の道が主要な道路だった。時計店のすぐ南には西に向かう路地があり、路地の先に映画館があった。現在は建物の工事現場になっている。合併で打田町ができると、打田町役場に向かうための広い道路が開通した

当初の映画館は『大国座』という名称だったが、やがて『新劇』に変わった。時計店の店先には新劇で上映する作品のポスターを貼っており、21時30分に上映が終わると時計店は観客のたまり場になった

とのことでした。

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(写真)打田新劇跡地。左の工事現場。

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(左)岩城時計店と駅前通り。(右)岩城時計店の南から打田新劇に続く路地。


帰ってから打田新劇についてウェブ検索すると、「国鉄和歌山線ノ地理」というサイトの「打田駅編」というページに1958年(昭和33年)の郵便業務用の地図が掲載されており、打田新劇の文字も見えます。

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(写真)1961年の打田新劇周辺。地理院地図

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(写真)1974年の打田新劇跡地周辺。地理院地図

 

 

打田町の映画館について調べたことは「和歌山県の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(和歌山県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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