振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

磐田市掛塚地区の映画館

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(写真)磐田市立竜洋図書館。 

 2021年(令和3年)7月、静岡県磐田市の掛塚地区(旧・磐田郡竜洋町)を訪れました。かつて掛塚地区には映画館「掛塚劇場」がありました。「磐田市掛塚地区を訪れる」からの続き。

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1. 磐田市立竜洋図書館

磐田市立竜洋図書館は掛塚市街地から約2km離れた場所にあります。掛塚市街地は長らく天竜川の本流と東派川の中州といえる場所にありましたが、1935年(昭和10年)から1944年(昭和19年)にかけて行われた工事で東派川が締め切られ、跡地は竜洋町役場(現・磐田市竜洋支所)、竜洋町立竜洋中学校(現・磐田市立竜洋中学校)、竜洋町立図書館(現・磐田市立竜洋図書館)、住宅地などになったようです。

現在の地形図を見ただけでも天竜川東派川の痕跡は明確であり、現地を歩けば東派川の自然堤防もわかります。

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(地図)現在の掛塚地区付近の地形図。地理院地図

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(地図)1890年の掛塚村付近の地形図。西側にあるのが天竜川本流、東側で湾曲しているのが天竜川東派川。今昔マップ on the web

 

1.1 図書館の館内

1991年(平成3年)には磐田郡竜洋町に、竜洋町中央公民館と竜洋町立図書館からなるなぎの木会館が開館。2005年(平成17年)の合併を機に磐田市立竜洋図書館に改称し、磐田市立図書館を構成する6館のひとつとなっています。

開館当初には同規模自治体(人口2万人以下)の自治体の中で貸出冊数が日本一になったとのことで、1999年(平成11年)には初代館長を務めた鈴木雄介氏による『図書館は楽しさいっぱい 新米館長実践報告』静岡教育出版社が刊行されています。

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(写真)『図書館は楽しさいっぱい』と竜洋町中央公民館・町立図書館のパンフレット。

 

蔵書の特徴としてはカウンター前に別置されている楽譜や楽器教則本が目立ち、OPACでは「竜洋楽譜」という配架場所が充てられています。楽器といえばヤマハやカワイやローランドがある浜松市のイメージがあったのですが、旧竜洋町には河合楽器製作所のマザー工場である竜洋工場があり、カワイのグランドピアノは旧竜洋町で製造されているようです。

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(写真)閲覧席。

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(写真)一般書の書架。

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(左)音楽など7類の書架。(右)竜洋地区以外の郷土資料の書架。

 

1.2 図書館の郷土資料

人口約2万人の地区としては郷土資料の質と量が目を見張り、1991年(平成3年)の竜洋町立図書館開館以前に刊行された資料が目立ちます。『図書館は楽しさいっぱい 新米館長実践報告』には郷土資料の収集についてほとんど触れられていないし、図書館の方針としての "郷土資料の充実" が流行る時代でもなかったと思うのですが、開館時の職員の努力の結果でしょうか。

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(写真)竜洋地区の郷土資料の書架。

 

なお、竜洋町の合併先の磐田市立中央図書館は郷土資料の質・量ともに見事です。竜洋図書館の郷土資料の棚には「図書館に『郷土資料』をご提供ください」という張り紙がありました。

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(左)郷土資料の提供のお願い。

 

2. 掛塚地区の映画館

2.1 掛塚劇場(1921年-1958年)

所在地 : 静岡県磐田郡竜洋町掛塚(1958年)
開館年 : 1921年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧1955』によると1921年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「掛塚劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧掛塚郵便局」南110mにある民家。

映画館名簿には掛塚地区の映画館として「掛塚劇場」が掲載されています。大正時代の1921年(大正10年)から1958年(昭和33年)頃まで営業していたようです。日本の映画館数がピークを迎えた1960年(昭和35年)以前に閉館した映画館は珍しい。

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(写真)掛塚劇場が掲載された映画館名簿。『映画便覧 1958』時事通信社、1958年。

 

竜洋すみれ遊園地にいた男性(80代後半?)に掛塚にあった劇場について聞いてみると、「平野又十郎の生家から横須賀街道を東に歩くと、一つ目の四つ辻と二つ目の四つ辻の間、通りの南側に劇場があった」とのこと。

劇場の名前について聞くと、「はじめは『帝国館』、その後『掛塚劇場』と呼ばれた。立札などはなかったため、正式な名前はわからない。掛塚劇場の跡地には家が建っており、経営者はよその地域に住んでいる」とのことでした。高齢の方でしたが歯切れのよい話しぶりでした。

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(写真)掛塚劇場跡地の民家。

 

掛塚劇場が面していた横須賀街道は、掛塚市街地の東西方向における主要道路。掛塚劇場跡地から東すぐの場所には、横須賀街道が掛塚地区のメインストリートと交差する辻があります。

男性に話を聞いた竜洋すみれ遊園地は、かつて林池(林の池)と呼ばれる貯木場兼船着き場だった場所。物資は林池から源五郎堀を通って掛塚湊に向かったようです。

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(写真)1962年の掛塚劇場周辺。地図・空中写真閲覧サービス

 

『掛塚湊物語』(竜洋町教育委員会、1996年)には「掛塚花柳界見取図」が掲載されており、掛塚劇場は「南竜館」として描かれていました。掛塚劇場の南東のエリアが掛塚町の歓楽街だったようで、旅館・料理屋・置屋・玉突・カフェーなどが多数並んでいます。

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(地図)「掛塚花柳界見取図」『掛塚湊物語』竜洋町教育委員会、1996年。磐田市立竜洋図書館所蔵。

 

竜洋図書館には出版者・出版年不明の「昭和13年頃 掛塚本町商家の屋号」という地図があり、掛塚劇場は「帝国館」として描かれていました。

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(写真)「昭和13年頃 掛塚本町商家の屋号」(出版者不明、出版年不明)。磐田市立竜洋図書館所蔵。

 

掛塚地区で活動するまちづくり団体「みんなと倶楽部 掛塚」は、年3-4回の頻度で団体名と同名の広報紙を発行しています。広報紙「みんなと倶楽部 掛塚」の第10号・第11号・第14号などには掛塚劇場に関する言及があるようですが、磐田市立竜洋図書館も磐田市立中央図書館も当該号は未所蔵であり、閲覧できていません。

『竜洋町史 通史編』(磐田市、2009年)は "1959年(昭和34年)には松竹竜洋劇場を設立するための動きがあった" としていますが、掛塚劇場にはなぜか触れていません。なお、近代の掛塚には掛塚劇場とは別に芝居小屋として「千歳座」があったようで、『磐田の産業』(磐田市教育委員会文化財課、2003年)や「昭和13年頃 掛塚本町商家の屋号」に登場します。

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(写真)広報紙「みんなと倶楽部 掛塚」みんなと倶楽部 掛塚、20号、2020年。

 

掛塚地区の映画館について調べたことは「静岡県の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(静岡県版)」にマッピングしています。

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