振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

尾鷲市賀田町の映画館

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(写真)寿座だった建物。手前は小浜川。

2021年(令和3年)7月、三重県尾鷲市賀田町を訪れました。かつて賀田町(かたちょう)には映画館「寿座」と「喜楽館」がありました。

 

1. 賀田町の映画館

1.1 寿座(1957年1月-1967年頃)

所在地 : 三重県尾鷲市賀田町(1967年)
開館年 : 1957年1月
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「寿座」。1966年・1967年の映画館名簿では「尾鷲寿座」。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。「賀田郵便局」から南西50mに映画館の建物が現存。最寄駅はJR紀勢本線賀田駅。

1950年代後半から1960年代の『映画館名簿』を閲覧すると、尾鷲市賀田町の映画館として「寿座」と「喜楽館」が掲載されています。最晩年の1967年の『映画館名簿』によると、寿座の経営者は榎本繁治、支配人は榎本利彦、木造平屋、定員280、邦画の上映館です。

尾鷲市立図書館や三重県立図書館で郷土資料を閲覧したところ、『尾鷲市史年表』(尾鷲市、1968年)にはそれぞれの開館年が掲載されており、1956年(昭和31年)から1957年(昭和32年)に2館が相次いで開館したようです。

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(写真)寿座と喜楽館が掲載されている『映画便覧 1967』時事通信社、1967年。

 

賀田市街地中心部を流れる小浜川の南岸には、正面に木板で「寿座」と書かれた建物が現存しています。近くにある榎本酒店の女性に話を聞いたところ、近くに住む男性(60代~70代)を連れてきてくださいました。

私の父と伯父が寿座の経営者だった。開館したのは戦後のことである。映画館には東映や日活などとの専属契約があり、それらの会社の作品を上映していた。賀田町にケーブルテレビが開設されたことで客が少なくなって閉館した。今はテレビもインターネットに追いやられており、時代の流れを感じる」とのことです。

寿座だった建物は物置のような状態である。いつかは取り壊さなければならないだろう」とも話してくださいました。

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(写真)寿座だった建物。手前は小浜川。

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(写真)寿座だった建物。手前は小浜川。

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(写真)木板で作られた寿座の看板。

 

1.2 喜楽館(1956年11月-1968年頃)

所在地 : 三重県尾鷲市賀田町(1968年)
開館年 : 1956年11月
閉館年 : 1968年頃
1960年・1963年の映画館名簿では「喜楽館」。1966年・1968年の映画館名簿では「尾鷲喜楽館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「賀田郵便局」南西30mにある空き地。最寄駅はJR紀勢本線賀田駅。

先ほどの男性によると、「寿座とは別の映画館として、寿座の西側にある空き地の場所に喜楽館があった。寿座のほうが喜楽館よりも遅くまで営業していた」とのことで、寿座と喜楽館は経営者が異なっていたようです。映画館名簿には喜楽館のほうが1年分遅くまで掲載されていますが、男性の話によると実際は逆だったようです。

最晩年の1967年の『映画館名簿』によると、喜楽館の経営者は中島喜七、木造平屋、定員280、邦画の上映館ということで、寿座と喜楽館の定員は同じだったようです。

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(写真)現在の賀田市街地。地理院地図

 

賀田町の映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(三重県版)」にマッピングしています。

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