振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

九鬼町の映画館

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(写真)トンガ坂文庫。ねこ「まだ」。

2020年(令和2年)1月、三重県の東紀州地域にある尾鷲市九鬼町(くきちょう)を訪れました。かつて九鬼町には映画館「日之出東映劇場」と「磐館」がありました。

 

1. 九鬼町を歩く

1.1 九鬼町の街並み

尾鷲市九鬼町は尾鷲市街地と熊野市街地の間にある漁師町であり、戦国時代に九鬼水軍 - Wikipediaが根拠地としたことで知られています。九鬼町の約10km沖合は全国有数のブリの漁場として知られ、明治中期以降には大型定置網によるブリ漁が盛んに。年間約20万匹を水揚げした昭和初期がブリ漁のピークであり、人口のピークは戦後の昭和30年代。

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(写真)九鬼市街地の遠景。

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(左)三重県における尾鷲市九鬼町の位置。©OpenStreetMap contributors (右)九鬼町とその周辺。

 

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(写真)九鬼町のねこ。

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(写真)九鬼町の路地。

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(写真)九鬼小学校付近から見た九鬼市街地。

 

集落の入口にある尾鷲市立九鬼中学校は2009年(平成21年)3月に閉校、集落の奥にある尾鷲市立九鬼小学校は2010年(平成22年)3月に閉校。現在の九鬼町には学校がなく、直線距離で約8km離れた賀田町の学校までスクールバスで通っているようです。

九鬼中学校テニス部は三重県屈指の強豪だったそうで、1983年(昭和58年)に全国中学校ソフトテニス大会で優勝、全校生徒がわずか20数人になってからも東海大会に出場していたというから驚き。

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(左)尾鷲市立九鬼小学校。2010年3月閉校。(右)尾鷲市立九鬼中学校。2009年3月閉校。 

 

1.2 トンガ坂文庫

九鬼町の映画館について調べる中で、やはりトンガ坂文庫が気になりました。2018年(平成30年)8月に開店したトンガ坂文庫を運営するのは、長野県出身の木沢結香さん地域おこし協力隊出身(任期終了後に定住)で東京都出身の豊田宙也さんという2人の若い移住者。入り組んだ路地の先にいきなり現れる都会風の古書店の空間には気持ちが高揚します。トンガ坂文庫にいるねこの名前は「まだ」「ない」。この日は窓際の書架の上に三毛猫の「まだ」が座っていましたが、とらねこの「ない」が勤務している日もあるようです。

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(写真)トンガ坂文庫の店内。

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(左)看板。(左)ねこ「まだ」。(右)新刊。

 

2015年(平成27年)5月に開店した食堂・喫茶店網干場」(あばば)は、地域おこし協力隊時代の豊田宙也さんが中心となって開店させた九鬼町唯一の飲食店。学校が相次いで閉校した2000年代末とはうってかわって、2010年代後半のトンガ坂文庫と網干場は集落に活気をもたらす動きに思えます。Uターン者による日本唯一の肉球雑貨専門店「ホワイト&ピーチ」なる店もあり、人口約400人という数字以上の存在感がある集落です。

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 (写真)網干場。

 

 

2. 映画館に関する調査

2.1 文献調査

『映画年鑑別冊 映画便覧』(時事通信社、1953年から2020年までの各年版)や『全国映画館名簿』(全国映画館新聞社、1960年)によると、九鬼町には「日之出東映劇場」と「磐館」という2館の映画館があったようです。これらの映画館について、三重県立図書館の郷土資料、三重県立図書館の住宅地図やその他の地図、尾鷲市立図書館の郷土資料、中日新聞データベースなどで調査を行いましたが、2種類の映画館名簿以外にはどのような言及も発見できていません。

映画館名簿における2館の所在地はいずれも「尾鷲市九鬼町」であり、小字や番地などは掲載されていません。『映画年鑑別冊 映画便覧』の各年版を確認すると、「日之出東映劇場」は1968年(昭和43年)まで、「磐館」は1964年(昭和39年)まで掲載されており、最後に掲載されている年に閉館したと思われます。

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(左・中)1964年版『映画年鑑別冊 映画便覧』時事通信社。(右)1960年版『全国映画館名簿』全国映画館新聞社。

2.2 聞き取り調査

九鬼町には和菓子屋の錦花堂があり、こしあんをカステラ生地で巻いた「九鬼水軍 虎の巻」は尾鷲の名物とされているようです。1977年(昭和52年)には全国菓子大博覧会で名誉大賞を受賞し、2013年(平成25年)には尾鷲市を訪れた皇太子に茶菓子として献上しています。中日新聞朝日新聞の記事データベースで錦花堂を検索すると、歌手の鳥羽一郎が楽屋で配ったり、遠洋漁業の乗組員が航海出発前に買い込んだりするというエピソードも出てきました。

錦花堂で九鬼町にあった映画館について聞いてみると、「日之出東映劇場」の跡地を知っているとのことで、跡地の西隣に住んでいる田崎さんの家まで軽トラで連れて行ってくださいました。玄関先で少し話を聞ければと思ったのですが、結局は田崎さんの家に上がらせてもらい、30分以上も話をお聞きしました。

田崎さんは九鬼村に生まれ、1951年(昭和26年)頃に中学校を卒業した後、1954年(昭和29年)に田崎家に嫁ぎ、1955年(昭和30年)には尾鷲市街地に転居しています。それぞれの映画館が閉館した1960年代には九鬼町ではなく尾鷲市街地に暮らしており、1972年(昭和47年)に義父のこともあって九鬼町に戻ったとのことです。

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(写真)和菓子屋 錦花堂。

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(左)錦花堂の店内。(右)錦花堂の記事が掲載された「ふるさとを味わう 13 九鬼水軍虎の巻」『おくまの』みえ熊野学研究会、2016年、第7号。


 

 

3. 九鬼町の映画館

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(写真)九鬼町にあった映画館の位置。地理院地図

 

3.1 磐館(1954年-1960年代中頃)

所在地 : 三重県尾鷲市九鬼町(1964年)
開館年 : 1954年5月
閉館年 : 1964年以後1966年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1954年5月開館。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「磐館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「九鬼郵便局」。最寄駅はJR紀勢本線九鬼駅。

国立国会デジタルコレクションで図書館送信資料(参加館公開)となっている1960年の『全国映画館名簿』(全国映画館新聞社、1960年)によると、「磐館」の経営者は尾崎美天、支配人は尾崎東吾、定員260、各社を上映、電話は九鬼9番。

「磐館」の名前を最後に確認できる1964年の『映画年鑑別冊 映画便覧』(時事通信社)によると、経営者は中村国助、支配人は須田真一郎、木造2階建暖房付、定員350、邦画・洋画を上映。1960年から1964年の間に経営陣が交代しているのが気になります。磐館の読みは「いわかん」だと思っていましたが、田崎さんの話によると「いわ」ではなく「いし」のようです。

 

田崎さんの話「現在の九鬼郵便局の場所にも映画館があった。屋号は『おいしや』。1950年(昭和25年)くらいに開館したと思われる。ジェームズ・ディーン主演の『エデンの東』が上映された時には、中学校の先生に見つからないようにして何度も観に行ったものである。この映画館の隣には九鬼郵便局があり、郵便局長の住居と郵便局を兼ねた建物だった

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(写真)磐館跡地にある九鬼郵便局。

 

3.2 日之出東映劇場(1958年頃-1968年頃)

所在地 : 三重県尾鷲市九鬼町(1966年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「日の出座」。1966年・1968年の映画館名簿では「九鬼日之出東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「九鬼郵便局」の南東120mにある民家。最寄駅はJR紀勢本線九鬼駅。

国立国会デジタルコレクションで図書館送信資料(参加館公開)となっている1960年の『全国映画館名簿』(全国映画館新聞社、1960年)によると、「日之出館」の経営者は尾崎秋之助、支配人は尾崎鉄也、定員407、邦画・洋画を上映、電話は九鬼33番。

この映画館の名前を最後に確認できる1968年の『映画年鑑別冊 映画便覧』(時事通信社)によると、「九鬼日之出東映劇場」経営者は尾崎荘右衛門、支配人は記載なし、木造平屋建、定員200。田崎さんの話に登場する九鬼村議会議員が尾崎秋之助氏か尾崎荘右衛門氏かははっきりしませんが、話に登場する"てっちゃん"は尾崎鉄也氏のことのようです。

 

田崎さんの話「田崎家の隣にあった映画館は日之出座と呼ばれ、戦前からあった芝居小屋だった。経営者は九鬼村議会議員であり、運営は次男の"てっちゃん"が担っていた。秋屋(あきや)という屋号だった。興行前には拍子木を打って回っていた。固定座席はなく、観客は座布団を抱えて日之出座に入った。1階だけではなく中2階にも座席があった。映画の上映以外に、踊りや歌の発表会も行われた。戦後しばらくするまで、九鬼町にはバスも汽車も通じておらず、尾鷲市街地の映画館を訪れるのは容易ではなかった。日之出座は数少ない娯楽施設としてにぎわった

1972年(昭和47年)に九鬼町に戻ってきたときにはもう映画館は営業しておらず、建物を間借りして八百屋が営業していた。建物は1987年(昭和62年)に取り壊され、跡地にアパートが建った。田崎家と日之出座の建物の間の隙間は半間しかなかったため、取り壊されたことで光が入るようになって明るくなった

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(写真)左が日之出東映劇場跡地にある建物。中央が田崎さんの家。

 

田崎さんの話を聞いてから三重県立図書館で改めて住宅地図を確認すると、1970年(昭和45年)の地図に閉館後と思われる「日の出座」が載っていました。1978年(昭和53年)の住宅地図では九鬼スーパーに代わっており、田崎さんの話にある"八百屋"のことだと思われます。

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(地図)1970年の九鬼市街地のゼンリン住宅地図。中央右に日の出座。

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(地図)1978年の九鬼市街地のゼンリン住宅地図。中央右に九鬼スーパー。

 

尾鷲市九鬼町にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(中部版)」にマッピングしています。

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