振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

熊野市の映画館

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(写真)熊野東映劇場の建物を転用したトーエイプラザ。

2020年(令和2年)1月、三重県南部の東紀州地域にある熊野市を訪れました。

かつて熊野市街地には「熊野東映劇場」(明治座)、「新明治座」、「丸山映画劇場」の3館の映画館があり、「熊野東映劇場」の建物は現存しています。現在の東紀州地域に映画館は存在せず、最寄りの映画館は和歌山県新宮市の複合映画館「ジストシネマ南紀」です。

 

1. 熊野市を歩く

名古屋駅熊野市駅を結ぶ特急南紀は4往復/日、所要時間約3時間。名古屋駅熊野市駅を結ぶ三重交通の高速バスは7往復/日、所要時間約3時間30分。三重県紀州地方は和歌山市よりずっと心理的距離が遠い地域であり、通過せずに降り立ったのは初めてです。紀伊半島を一周する紀勢自動車道は未開通の区間も多く、自動車で訪れる場合も時間がかかる地域です。

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(地図)三重県における熊野市の位置。©OpenStreetMap contributors

 

1.1 記念通り

JR熊野市駅から熊野市の中心市街地までは500m程度の距離ですが、間に標高57mの要害山がそびえているため、駅から中心市街地を見通すことはできません。とはいえ、1965年(昭和40年)に要害山の北西側を削り取る工事を行ったことで、両者の行き来がそれまでよりも容易になったようです。国土地理院地図・空中写真閲覧サービスで1940年代後半から1950年代の航空写真を見ると、要害山が国鉄の線路際まで達しているのがわかります。

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(写真)JR紀勢本線熊野市駅

 

中心市街地のメインストリートである記念通りは、1940年(昭和15年)に皇紀2600年を記念して開通した通り。同年には国鉄紀勢西線紀伊木本駅(現・JR紀勢本線熊野市駅)も開業し、旧来の中心市街地と鉄道駅を結ぶ通りとして発展したようです。片持ち式アーケードで昭和な雰囲気の商店が多い。

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(写真)記念通り。 

 

記念通りにある和菓子屋の志ら玉屋の「志ら玉」は熊野名物として知られ、1975年(昭和50年)に皇太子(現・上皇陛下)が行啓した際には茶菓子として献上されたそうです。志ら玉屋では熊野東映劇場について話を伺いました。

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(左・中)記念通りの和菓子屋 志ら玉屋。(右)志ら玉屋の記事が掲載された「熊野を支える人々 12 橋本勝己さん」『おくまの』みえ熊野学研究会、2015年6月、第6号。

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(写真)紀南ツアーデザインセンター。旧奥川吉三郎家。

 

1.2 本町通り

1940年に開業した記念通りよりも古くから発展していたのが本町通り。旅館(旧酒甚旅館)や商家(熊野古道おもてなし館=栃尾邸や脇本家)などの和風建築、町役場(丸田商店=旧木本町役場)や銀行(西衣料品店=旧大同銀行)などの近代建築が残っており、記念通りとの時代の差を感じます。

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(写真)本町通り。

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(写真)本町通りにある熊野古道おもてなし館。旧栃尾邸。登録有形文化財

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(左)左は脇本家。(中)丸田商店。旧木本町役場。(右)西衣料品店。旧紀新銀行・旧大同銀行。

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(左)みはま湯。営業中。(右)ときわ湯。廃業。

 

2. 熊野市立図書館

2.1 図書館の歴史

JR熊野市駅のすぐ西、2009年(平成21年)に開館した熊野市文化交流センター内に熊野市立図書館 - Wikipediaがあります。旧館は1972年(昭和47年)竣工の熊野文化会館内にあったようで、図書館が単独館だった時代はないみたい。旧館の床面積は108m、『日本の図書館 統計と名簿』(日本図書館協会)における2009年の蔵書数は4万7000冊(うち開架4万4000冊)とのことで、名称や条例上は図書館ですが公民館図書室と同等だったようです。同年時点の熊野市の人口は2万人弱であり、住民1人あたり蔵書数が約2冊というのは全国的に見ても少ない。

開館から10年が経過し、2019年の蔵書数は17万4000冊(うち開架6万9000冊)となりました。同年の図書費は1000万円であり、同規模自治体よりも多い図書費を維持しているからこその伸びですが、10年間で蔵書数が3.7倍というのはすごい。開館時の新聞記事には収容可能冊数が18万冊(開架9万冊、閉架9万冊)とあり、もう書庫にはあまりゆとりがないのかもしれません。郷土資料コーナーには戦前の文献も多数ありました。

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(写真)熊野市立図書館が入る熊野市文化交流センター。

 

2.2 館内の写真撮影

図書館の男性職員(50代?)に「図書館内の書架や展示を撮影することは可能か」と聞くと「ダメ」とのことで、「利用者が写り込むといけないからダメ」という理由でした。「利用者が写り込まないように撮影してもダメか」と聞くと、「著作権の関係もあるのでダメ」とのことでした。「著作権には十分に配慮し、書籍の表紙が写らないように撮ってもダメか」と聞くと「ダメ」、「館内での写真撮影を禁じているのは(あなたの個人的な見解ではなく)熊野市立図書館としての方針か」と聞くと、「そうです」とのことでした。

職員とのやり取りを総合的に判断すると、写真撮影に関する図書館としての方針は存在しないと思われます。次に訪れる際は別の職員に聞いてみようと思いました。

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(写真)熊野市立図書館の入口。※利用者が写り込んではいけないし著作権の関係もあるので一部をぼかしています

 

 

3. 熊野市の映画館

かつて熊野市街地には「熊野東映劇場」(1899年-1972年)、「新明治座」(戦前-1970年)、「丸山映画劇場」(1956年-1966年)の3館の映画館があました。「熊野東映劇場」の建物は現存し、商店などに転用されています。熊野東映劇場の閉館後には東紀州地方の映画館が尾鷲市の「尾鷲ロマン座」(1955年-1986年)のみとなり、最寄りの映画館は和歌山県新宮市の各映画館となりました。

紀南ツアーデザインセンターで熊野東映劇場について聞いてみると「和菓子屋の志ら玉は古くから営業しているので、主人が映画館について知っているかも。熊野市駅前の西書店の主人は観光ガイドをしているので何か聞けるかも」とのことでした。

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(地図)熊野市にあった映画館の位置。地理院地図

 

3.1 丸山映画劇場(1956年-1966年)

所在地 : 三重県熊野市木本町丸山(1966年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1966年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「丸山映画劇場」。1966年の映画館名簿では「熊野丸山映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「あい眼科リハビリクリニック」。

明治座跡地の裏手でねこの散歩をしていた女性(60代?)に話を伺うと、「熊野市街地には3館の映画館があった。丸山映画劇場はJR熊野市駅前のあい眼科の場所にあったと思う。丸山映画劇場には浪花節の演者などが訪れた」とのこと。

 

『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 熊野』(郷土出版社、1980年)によると、「紀南映画劇場」(後の新明治座)を経営していた人物が紀南映画劇場を伊東為次郎に渡した後に開館させたのが「丸山映画劇場」です。

『ローカル映画館史』(三重県興行環境衛生同業組合、1989年)によると、丸山映画劇場もすぐに新明治座との競争に敗れ、やはり伊東為次郎の経営に。各年版の映画館名簿によると、伊東為次郎は熊野市街地の映画館以外にも、熊野市新鹿町の新鹿劇場、南牟婁郡御浜町の阿田和劇場などを経営していました。1966年(昭和41年)の閉館後には経営者の名前を冠した伊東アパートに転用され、1970年代の航空写真にも映画館らしき建物が見えます。

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(写真)丸山映画劇場跡地のあいクリニック。奥は熊野市役所。

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(地図)1970年代の航空写真における丸山映画劇場の建物。地理院地図

 

3.2 新明治座(戦前-1970年)

所在地 : 三重県熊野市木本町栄町(1969年)
開館年 : 1941年以前
閉館年 : 1970年2月1日
『全国映画館総覧1955』によると1945年8月開館。1950年の映画館名簿では「朝日館」。1953年・1955年の映画館名簿では「紀南映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新明治座」。1966年・1969年の映画館名簿では「熊野明治座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ヤマト酒店」の2軒北と建物と駐車場。

ねこの散歩をしていた女性(60代?)によると「しんめい(※新明治座)はこの敷地にあり、洋画を上映していた。映画館を取り壊して現在の建物が建っている」とのこと。

和菓子屋の志ら玉屋の女性(80代?)は「明治座は志ら玉の西から路地を北に入った先にあった」とのことで、この映画館を(新明治座ではなく)「明治座」と呼んでいました。

熊野古道おもてなし館の女性(60代?)によると「洋服の製縫場になっている建物には映画館の面影が残っており、映画館だった建物をそのまま使っているのではないか。この建物には2階があったという話を夫から聞いた事がある」とのこと。

 

『ローカル映画館史』によると、戦前には熊野市唯一の常設映画館として「朝日館」があり、戦後には「昭和館」「紀南映画劇場」と改称。「明治座」の経営者である伊東為次郎の手に渡った際に「新明治座」に改称し、1970年(昭和45年)2月1日に閉館しています。映画館のホールだった部分は駐車場になっていますが、現在も残る不思議な形状の建物は映画館の舞台部分だった可能性があります。

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(写真)新明治座跡地の駐車場と奇妙な形状の建物。

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(左)新明治座跡地に残る奇妙な形状の建物。(右)新明治座が面していた道路。

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(写真)1970年代の航空写真における熊野東映劇場と新明治座の建物。地理院地図

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(左)『きのもと懐かしマップ』。昭和30年代の市街地。左上に新明劇場(朝日館)、右下に熊野東映明治座)。(右)1970年のゼンリン住宅地図における市街地。左上に新明治座映画、右下に熊野東映

 

3.3 熊野東映劇場(明治座、1899年-1972年)

所在地 : 三重県熊野市木本町記念通(1969年)
開館年 : 1899年2月17日
閉館年 : 1972年9月
『全国映画館総覧1955』によると1899年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「明治座」。1950年の映画館名簿では「木本明治座」。1953年・1955年の映画館名簿では「明治座」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「熊野東映」。1966年・1969年の映画館名簿では「熊野東映劇場」。跡地に映画館の建物がトーエイプラザとして現存。「いこらい広場」(熊野市記念通商店街振興組合事務所)などが入る。

和菓子屋の志ら玉屋の女性(80代?)によると「志ら玉の向かいの大きな建物は映画館だった。映画館の建物を手直しして使っているようだ」とのこと。

ねこの散歩をしていた(60代?)によると「東映は記念通り沿いの商店などがある場所にあった。熊野市では一番大きな映画館であり、芸能人が来ることもあった」とのこと。

 

『ローカル映画館史』によると、1899年(明治32年)2月17日に紀南地域唯一の劇場である「明治座」が開館。1924年大正13年)からは伊東為次郎が経営し、1926年(大正15年)にはデマが元で朝鮮人労働者が斬られて死去する木本事件が起こっています。1955年(昭和30年)には熊野市の市制施行記念式の会場にもなりました。

戦後には映画の上映が主力になり、1950年(昭和25年)には戦前の芝居小屋から椅子席の近代的な映画館に改築。1957年(昭和32年)には「熊野東映」に改称し、昭和30年代の映画黄金期には紀南地域随一の映画館とされています。

1972年(昭和47年)9月に閉館し、跡地は1974年(昭和49年)開業のトーエイプラザに転用されました。1階部分が商店や飲食店、2階部分が集合住宅となり、『目で見る新宮・熊野の100年』(郷土出版社、1994年)には「明治座跡地にはアパートが建っている」と表現されています。2020年(令和2年)現在も映画館時代の建物が残っています。

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(写真)熊野東映劇場跡地にあるトーエイプラザ。

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(左)熊野東映劇場跡地にあるトーエイプラザ。(右)トーエイプラザの内部。飲食店街の廃墟。

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(左)トーエイプラザの一部にあるいこらい広場。(右)トーエイプラザの裏側。

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(左)改築前の熊野東映劇場(木本映画劇場)。『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 熊野』郷土出版社、1980年。(右)改築後の熊野東映劇場。久保仁『ローカル映画館史』三重県興行環境衛生同業組合、1989年。

 

熊野市にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(三重県版)」にマッピングしています。

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