振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

墨田区の映画館(向島)

(写真)墨田区東向島1丁目でみかけたねこ。

2022年(令和4年)5月、東京都墨田区を訪れました。「墨田区の映画館(本所)」からの続きです。「墨田区の映画館(楽天地)」に続きます。

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1. 向島の映画館

戦前の現墨田区域は本所区向島区に分かれており、繁栄の中心は本所区でした。1936年(昭和11年)の向島区寺島町にあった映画館としては向島劇場・向島キネマ・向島館・南竜館・寺島電気館・玉の井館などが、吾嬬町には吾嬬館・橘館・請地館・東成館・宮戸館がありました。

多くの映画館は太平洋戦争の東京大空襲で焼失しますが、橘館や玉映文化劇場など焼失を免れた映画館もあります。戦後には多数の映画館が開館したものの、浅草六区や江東楽天地などの大規模な映画館街に近かったからか、1971年(昭和46年)には向島地域から映画館がなくなりました。

下の映画館地図を詳しく見たい場合は「消えた映画館の記憶地図(東京23区版)」でご覧ください。

(地図)向島の映画館。Googleマイマップ

(写真)『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1.1 向島映画劇場(1946年12月-1958年)

所在地 : 東京都墨田区寺島町2-122(1958年)
開館年 : 1946年12月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「向島映画劇場」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「向島郵便局」。最寄駅は東武鉄道伊勢崎線亀戸線曳舟駅

戦後すぐから1950年代末までの寺島町2丁目には向島映画劇場という映画館がありました。松竹や日活の上映館であり、経営者は玉の井新劇場も経営していた中沢茂。500以上という定員を有する大きな映画館だったようです。

墨田区東向島3-5-2にある白髭神社(白鬚神社)の玉垣には「中澤興行部直営 向島映画劇場 館主中澤茂」と彫られています。日本の映画人口がピークに達する頃、1958年(昭和33年)頃には映画館としての営業を終えたようであり、1960年代の住宅地図にはキャバレーの向島劇場として描かれています。現在の跡地は向島郵便局です。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)向島映画劇場跡地にある向島郵便局。左端は東武伊勢崎線

1.2 橘映画劇場(1924年12月-1961年頃)

所在地 : 東京都墨田区吾嬬町西4-62(1961年)
開館年 : 1924年12月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1924年12月開館。1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「橘館」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「橘映画劇場」。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「橘新東宝」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では跡地に「スーパーダイエー吾嬬店」。スーパー「ビッグ・エー墨田京島店」。最寄駅は京成押上線京成曳舟駅

1924年大正13年)には現在のキラキラ橘商店街(向島橘銀座商店街)に橘館が開館。商店街は映画館の開館後に発展し、もっぱら橘館通りという通称で呼ばれていたようです。

東武亀戸線明治通りに挟まれた区域は、墨田区の中では珍しく空襲の被害を受けなかった区域です。戦後には橘映画劇場に改称。橘映画劇場は新東宝大映の上映館であり、晩年は橘新東宝という名称でした。1961年(昭和36年)の閉館後、1964年(昭和39年)3月10日には跡地にダイエー吾嬬店が開店していますが、この店舗はダイエーが東京に初進出した際の店舗のひとつです。大映作品を上映していたこととダイエーが出店したことに関連性はないようです。1985年(昭和60年)にはダイエーが撤退しますが、同じ場所では現在もスーパーが営業しています。

(写真)1955年の橘館通り。右端が橘映画劇場。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)橘映画劇場跡地にあるスーパー。

(左)キラキラ橘商店街の店舗案内図。(右)キラキラ橘商店街。


(左)キラキラ橘商店街の幕。(右)キラキラ橘商店街の街灯。

 

1.3 墨田オデオン(1956年頃-1962年頃)

所在地 : 東京都墨田区寺島町4-17(1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「墨田オデオン」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「セブンイレブン墨田押上2丁目東店」が入る「ハマハイツ隅田」。最寄駅は東武鉄道伊勢崎線亀戸線曳舟駅

墨田オデオンは映画黄金期の1956年(昭和31年)頃から1962年(昭和37年)頃にだけ存在した映画館です。曳舟川通りに面しており、江東楽天地以外では墨田区唯一の洋画館でした。跡地はセブンイレブンが入るマンションです。

1911年(明治44年)に日本初の洋画専門館であるオデオン座(横浜オデオン座)が開館してから、オデオン座という名称は洋画館の代名詞的存在となりました。横浜や墨田に加えて、関東だけでも新宿、阿佐ヶ谷、赤羽、東十条、吉祥寺、千葉県佐原市、神奈川県川崎市、神奈川県藤沢市、神奈川県鎌倉市茨城県水戸市茨城県古河市などにオデオン座という名称の映画館がありました。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)墨田オデオン跡地のマンション。

 

1.4 白髭映画劇場(1923年6月-1963年頃)

所在地 : 東京都墨田区寺島町3-46(1963年)
開館年 : 1923年6月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1923年6月開館。1936年の映画館名簿では「向島館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「向島館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東白鬚第一マンション」。最寄駅は東武伊勢崎線東向島駅

白髭映画劇場は大映東映の上映館でした。玉の井から西に続く大正通りの西端付近にあり、玉の井映画劇場は「旧玉」、玉の井新劇場は「新玉」、白髭映画館は「豚館」(ぶたかん)として区別されていたようです。1960年代前半の土地区画整理事業の際に閉館し、墨田川に沿って壁のように連なる都営住宅の一部、白髭東アパートとなっています。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1.5 第一南竜館(1952年9月-1964年頃)

所在地 : 東京都墨田区吾嬬町西7-1(1964年)
開館年 : 1952年9月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月開館。1930年・1936年の映画館名簿では「南竜館」。1943年の映画館名簿では「大都南竜館」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「第一南竜館」。1963年の映画館名簿では「第一南竜」。1964年の映画館名簿では「寺島東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東京朝鮮第五初中級学校」南西100mにある民家数軒。最寄駅は京成押上線八広駅

京成曳舟駅八広駅の中間付近には第一南竜館がありました。南竜館という名称の映画館は戦前の映画館名簿にも見られます。戦前の南竜館付近には京成押上線向島駅があり、1928年(昭和3年)から1936年(昭和11年)までの短期間は向島駅から玉の井方面に向かう白髭線が分岐していました。

戦後には第一南竜館となり、1964年(昭和39年)頃まで営業していたようです。第一南竜館跡地から南に延びる通りには南竜館通りという名が付けられており、八広南龍通り商店会(南竜館通商栄会)にも第一南竜館の名残があります。

経営者の深野福次郎は東東京における有力な映画興業主であり、墨田区内では第一南竜と石原ミリオン座、都内ではキネマハウスや入谷金美館(台東区)、砂町キネマや深川ミリオン座や豊洲ミリオン座や木場ミリオン座(江東区)、新小岩東映葛飾区)、ニューパール劇場(北区)も経営していました。

(地図)京成押上線向島駅や京成白髭線が描かれている1:25000地形図。赤丸は南竜館。1930年測図・1932年発行。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)第一南竜跡地の民家数軒と路地。

(左・右)第一南竜館跡地に近い八広新中通り

 

1.6 墨田大成館(1956年頃-1964年頃)

所在地 : 東京都墨田区寺島町6-29(1964年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1964年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「墨田大成館」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「さつき公園」南西40mにある民家数軒。最寄駅は東武伊勢崎線東向島駅

墨田大成館は東宝や日活の上映館でした。経営者の関口民造は吾嬬国際劇場も経営していました。墨田区の映画館は商店街の一角にあることがほとんどですが、1958年(昭和33年)の住宅地図を見ても墨田大成館の周囲に商店は少なく、やや奇妙な立地です。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)墨田大成館跡地の民家数軒。

 

1.7 昌和シネマ(1957年頃-1964年頃)

所在地 : 東京都墨田区吾嬬町西4-12(1964年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「昌和シネマ」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「原公園」南70mにある駐車場。

向島橘銀座商店街(橘館通り)の南端付近には昌和シネマがありました。映画館名簿に掲載されている定員は150であり、墨田区の映画館の中では最小です。昭和シネマ跡地の北側にある和菓子屋 京あづま港家、喫茶店 サスケはいつ頃に開業した店なのか気になります。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(左)昌和シネマ跡地の駐車場。(右)昌和シネマ向かいの和菓子屋と喫茶店

 

1.8 請地シネマ(1956年頃-1965年頃)

所在地 : 東京都墨田区吾嬬町西1-37(1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「請地シネマ」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「サウンドおしあげ」。最寄駅は京成電鉄都営地下鉄東京メトロ東武鉄道押上駅

押上駅の北東には請地シネマがありました。請地(うけじ)は周辺の地名。経営者は西子興業であり、墨田区内で押上シネマ、菊川シネマ、請地シネマの3館を、さらに江東区の亀戸劇場や江戸川区の松江シネマも経営していた興業会社です。跡地は東京都民銀行(現・きらぼし銀行)押上支店となり、現在はマンションが建っています。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1.9 玉映文化劇場(1948年12月-1966年頃)

所在地 : 東京都墨田区東向島3-6-14(1966年)
開館年 : 1948年12月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1948年12月開館。1943年の映画館名簿では「玉の井松竹映劇」。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「玉映文化劇場」。1963年の映画館名簿では「玉の井東映」。1966年の映画館名簿では「玉の井大映」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズクオーレ東向島」建物北側。最寄駅は東武伊勢崎線東向島駅

戦前の映画館名簿に玉の井松竹映劇として掲載されている映画館は、戦後の玉映文化劇場と同一の施設だと思われます。寄席の玉の井館として昭和一桁時代に建てられ、周辺地域も被災した1945年(昭和20年)の東京大空襲でも焼失を免れます。

同じ玉の井地区には玉の井新劇場もありましたが、玉映文化劇場は大映東映を上映、玉の井新劇場は日活を上映してすみ分けを図っていたようです。いろは通りに面した玉映文化劇場の建物はスーパーに転用され、驚くことに2010年代まで建物が残っていました。『玉の井 色街の社会と暮らし』でも言及されています。

建物は2013年(平成25年)から2014年(平成26年)頃に取り壊され、跡地にはマンションが建ちました。墨田区では最も遅くまで建物が残っていた映画館だと思われます。「グルメシティ東向島店 - ぼくの近代建築コレクション」には建物の写真が掲載されています。

(写真)玉の井映画劇場(玉映文化劇場)や玉の井新劇場も描かれた図が掲載されている『玉の井 色街の社会と暮らし』自由国民社、2010年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)1960年頃のいろは通り。『目で見る 墨田区の100年』郷土出版社、2007年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)玉映文化劇場跡地のマンション。右端。

(写真)玉映文化劇場が面していたいろは通り。

 

1.10 玉の井新劇場(1953年7月-1967年頃)

所在地 : 東京都墨田区東向島5-31-3(1966年)
開館年 : 1953年7月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年7月開館。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「玉の井新劇場」。1966年・1967年の映画館名簿では「玉の井日活新劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は眼鏡店「晶美堂」南東20mの民家数軒。最寄駅は東武伊勢崎線東向島駅

戦後の1953年(昭和28年)には玉の井新劇場が開館。同じ玉の井にある玉映文化劇場と区別するために、戦前開館の玉映文化劇場は「旧玉」、玉の井新劇場は「新玉」と呼ばれていたようです。メインストリートのいろは通りの東側、眼鏡店の晶美堂の脇から南に入った場所にありました。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(左)玉の井新劇場跡地の民家数軒。(右)玉の井新劇場に向かう路地入口の晶美堂。

 

1.11 吾嬬富士館(1953年11月-1969年頃)

所在地 : 東京都墨田区八広4-38-14(1969年)
開館年 : 1953年11月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年11月開館。1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「吾嬬富士館」。1965年の映画館名簿では「あづま富士館」。1966年の映画館名簿では「吾嬬富士館」。1969年の映画館名簿では「吾嬬富士館」。1970年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「エスペランサ吾嬬」建物西側とその西側の「浜野製作所第2工場」。最寄駅は京成押上線八広駅

八広地域プラザ(墨田区立第五吾嬬小学校跡地)の南東には吾嬬富士館がありました。館名に吾嬬が付く映画館には吾嬬国際劇場もありますが、両者は約1.3km離れており、完全に別エリアといえます。

(写真)1966年の吾嬬富士館。『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『全住宅案内図帳』住宅協会、1968年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(左)吾嬬富士館跡地。(右)吾嬬富士館が面していた路地。

 

1.12 墨田文化映画館(1950年12月-1970年代初頭)

所在地 : 東京都墨田区東向島2-30-2(1970年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「墨田文化映画館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「墨田東映」。1964年・1965年の映画館名簿では「墨田文映」。1966年の映画館名簿では「墨田文化劇場」。1969年の映画館名簿では「墨田文化映画館」。1970年の映画館名簿では「墨田文化劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート曳舟病院前店」が入るマンション「曳舟スカイハウス」。最寄駅は東武鉄道伊勢崎線亀戸線曳舟駅。墨田文映とも。

東武伊勢崎線曳舟駅京成押上線京成曳舟駅に挟まれた場所には墨田文化映画館がありました。墨田東映を名乗っていた時期もありますが、比較的座席数の少ない映画館であり、晩年は成人映画の上映館だったようです。

(写真)昭和30年代の墨田文化映画館。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(左)墨田文化映画館跡地のマンション。(右)墨田文化映画館が面していた曳舟川通り。

 

1.13 向島金美館(1953年3月-1971年1月)

所在地 : 東京都墨田区東向島1-27-13(1970年)
開館年 : 1953年3月
閉館年 : 1971年1月
『全国映画館総覧 1955』によると1953年3月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「向島金美」。1966年・1969年の映画館名簿では「向島金美館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2019年竣工のマンション「パレステージ曳舟2」建物北側。

太平洋戦争中から赤線地帯として知られた鳩の街の南側入り口付近には向島金美館がありました。娼家が約100軒、女給が約300人いた1953年(昭和28年)に開館。1958年(昭和33年)には売春防止法が施行され、鳩の街のカフェーはすべて廃業しますが、向島金美館は向島地域で最後まで生き残っています。

戦前の首都圏各地にあった金美館とは美須鐄(美須コウ)によるチェーンの映画館に付けられた名前ですが、戦後の美須鐄は美須商事(現・チッタエンタテイメント)を設立して川崎や蒲田の映画館群に専念するようになりました。向島金美館の経営者は入谷金美館を経営していた田辺但馬であり、美須鐄や美須商事とは直接的な関係がないようです。

(写真)1965年の向島金美館。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)1966年の向島金美館。『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『全住宅案内図帳』住宅協会、1968年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(左)向島金美館跡地のマンション。(右)鳩の街通り商店街振興組合の人力車。

 

1.14 吾嬬国際劇場(1951年12月-1971年1月)

所在地 : 東京都墨田区立花5-2-1(1970年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1971年1月
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「吾嬬国際映画劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「吾嬬国際劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「吉野家立花店」やその西側の道路など。最寄駅は東武亀戸線小村井駅。

1951年(昭和26年)には立花5丁目に吾嬬国際劇場が開館します。明治・大正期までは水田が広がっていた地域であり、昭和初期になって明治通りの開通とともに宅地開発された地域のようです。

1971年(昭和46年)1月には向島金美館と吾嬬国際劇場が揃って閉館し、向島地域から映画館がなくなりました。吾嬬国際劇場があった時代の小村井交差点は逆「く」の字でしたが、映画館閉館後に南東方向への道路が新設され、交差点は「入」の字になっています。

(写真)1966年の吾嬬国際劇場。『墨田区の昭和史』千秋社、1992年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)1966年の吾嬬国際劇場。『昭和30年・40年代の墨田区』三冬社、2010年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『全住宅案内図帳』住宅協会、1968年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1985年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)吾嬬国際劇場跡地の吉野家など。

 

墨田区にあった映画館について調べたことは「墨田区の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京23区版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

墨田区の映画館(本所)

(写真)墨田区立ひきふね図書館。

2022年(令和4年)5月、東京都墨田区を訪れました。「墨田区の映画館(向島)」「墨田区の映画館(楽天地)」に続きます。

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1. 本所の映画館

現在の墨田区域(戦前の本所区向島区)最古の映画館は、戦前の業平橋1丁目にあった業平座です。戦前の東東京における最大の映画館街は浅草区(現・台東区)の浅草六区浅草公園六区)であり、業平座は約1.5km離れた場所にありました。1937年(昭和12年)にはやはり約1.5km離れた場所に江東楽天地が開業しています。

業平座は1945年(昭和20年)の東京大空襲で焼失し、戦後に再建されることはありませんでした。跡地にはパン屋のキムラヤ、大衆酒場の酒房キムラヤ、食堂の洋食キムラヤなどがあり、戦前の映写室の一部が残っているようです。

(写真)昭和10年代の業平座。『目で見る 墨田区の100年』郷土出版社、2007年。

 

本所地域には東東京でも有数の映画館街である江東楽天地(東京楽天地)がありました。江東楽天地の影響で他地区の映画館は少なめであり、複数の映画館があった地区は両国地区のみです。

下の映画館地図を詳しく見たい場合は「消えた映画館の記憶地図(東京23区版)」でご覧ください。

(地図)本所の映画館。Googleマイマップ

 

1.1 石原ミリオン座(1955年頃-1963年頃)

所在地 : 東京都墨田区石原町3-9(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「石原ミリオン座」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「D'クラディア錦糸町石原」建物北側。最寄駅は都営地下鉄浅草線本所吾妻橋駅

石原ミリオン座はJR総武線都営大江戸線、都営浅草線東京メトロ半蔵門線に囲まれた四角形の中央部にありました。近くには映画館がなく孤立しています。

 

深野福次郎

経営者の深野福次郎は東東京における有力な映画興業主であり、墨田区内では石原ミリオン座のほかに第一南竜も経営していたほか、都内ではキネマハウス(台東区)、入谷金美館(台東区)、砂町キネマ(江東区※深野映画名義)、深川ミリオン座(江東区)、豊洲ミリオン座(江東区)、木場ミリオン座(江東区)、ニューパール劇場(北区)、新小岩東映葛飾区)も経営していました。拠点館は砂町キネマだったと思われます。

深野福次郎は1897年(明治30年)10月21日、群馬県の生まれ。もとは合資会社深野製釘工場の経営者だったようです。深野福次郎が深野映画株式会社の会長、妻の深野いく子が社長だった時期もあります。深野福次郎は1970年(昭和45年)頃に死去しますが、葬儀の際には350以上の花輪が並べられたそうです。

 

深野いく子

深野福次郎の妻だった深野いく子(深野昱子)は1914年(大正3年)10月23日生まれ。江東区議会議員、東京都議会議員を務めた人物であり、1989年(平成元年)6月11日に死去しました。

1969年(昭和44年)の東京都議会議員選挙では小倉康男が14,616票で最下位当選、深野いく子が14,612票で次点落選しますが、わずか4票差だったため選挙管理委員会に異議申し立てを行います。いったんは異議申し立てが却下されたものの、高等裁判所に提訴した結果、小倉康男に投じられた500票分が別の候補者の評であることが判明し、深野いく子が当選するという珍事が起こっています。

(地図)石原ミリオン座が掲載されている『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1.2 押上シネマ(1955年頃-1966年頃)

所在地 : 東京都墨田区業平4-6(1966年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年の映画館名簿では「押上シネマ」。1963年の映画館名簿では「東映押上シネマ」。1966年の映画館名簿では「押上シネマ」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「押上駅前郵便局」南東80mにある建物など。最寄駅は京成電鉄都営地下鉄東京メトロ東武鉄道押上駅

押上シネマは京成電鉄押上駅の南東方向にあった映画館であり、邦画各社の作品を上映していました。

経営者の西子興業は墨田区で押上シネマ、菊川シネマ、請地シネマの3館を経営し、その他には江東区の亀戸劇場や江戸川区の松江シネマも経営していました。

(地図)押上シネマが掲載されている『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1.3 菊川シネマ(1951年12月-1966年頃)

所在地 : 東京都墨田区菊川町1-9(1966年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「菊川シネマ」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ライオンズマンション菊川」。最寄駅は都営地下鉄新宿線菊川駅

菊川シネマは江東区との区境の近くにあった映画館であり、押上シネマと同じく邦画各社の作品を上映していました。

(地図)菊川シネマが掲載されている『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

1.4 両国日活映画劇場(1930年12月-1967年頃)

所在地 : 東京都墨田区緑町1-12(1967年)
開館年 : 1930年12月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1930年12月開館。1936年・1943年の映画館名簿では「両国日活館」。1950年・1953年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「両国日活映画劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「りそな銀行本所支店」南の建物。最寄駅はJR・都営地下鉄両国駅

1930年(昭和5年)に開館した両国日活は日活の直営館であり、鉄筋造3階建てで定員約800人の立派な劇場でした。両国日活以外の大手映画会社の直営館としては、江東楽天地内に東映直営の江東東映があり、また東京楽天地東宝社長の小林一三を創業者とする株式会社江東楽天地によって運営されていた映画館群です。

(写真)1957年-1958年頃の両国日活。『墨田区の昭和史』千秋社、1992年。

(地図)両国日活が掲載されている『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(写真)両国日活映画劇場跡地の建物。

(写真)両国日活映画劇場跡地の建物。

1.5 錦糸町地球座(1968年頃-1970年代初頭)

所在地 : 東京都墨田区江東橋2-2-6(1970年)
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「錦糸町地球座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。演劇場兼映画館。

1969年(昭和44年)版と1970年(昭和45年)版の映画館名簿には、江東橋2丁目に錦糸町地球座という映画館が掲載されています。演劇場を主体として映画も上映していた施設だったようで、映画は成人映画を上映していました。

 

1.6 両国劇場(1955年頃-1973年頃)

所在地 : 東京都墨田区両国2-20-10(1973年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「両国劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ライオンズステーションプラザ両国」建物東側。

JR総武線両国駅のすぐ南には両国劇場がありました。両国地区に2館しかなかった映画館のひとつです。1973年(昭和48年)に両国劇場が閉館すると、墨田区の映画館は東京楽天地の映画館群のみとなりました。23区内では1990年代頃まで "まちの映画館" が残っていた区が多い。1970年代前半という早い時期に1か所に集約されてしまった墨田区は珍しい区だといえます。

(写真)1966年頃の両国劇場。『写真アルバム 墨田区の昭和』いき出版、2018年。

(地図)両国劇場が掲載されている『墨田区南部区分地図』1958年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

(地図)両国劇場が掲載されている『東京都全住宅案内図帳』住宅協会、1968年。墨田区立ひきふね図書館所蔵。

 

 

墨田区にあった映画館について調べたことは「墨田区の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京23区版)」にマッピングしています。

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羽村市の映画館

(写真)羽村市図書館。

2022年(令和4年)5月、東京都羽村市を訪れました。かつて羽村市には映画館「錦亀館」(きんきかん)がありました。

 

1. 羽村市図書館

JR青梅線羽村駅を挟んで西側に旧市街地が、東側に新市街地が広がっています。羽村駅から徒歩10分の場所には羽村市図書館と羽村市生涯学習センターゆとろぎが並んでおり、両者は連絡通路で結ばれています。

延床面積は3,280m2、蔵書冊数は約40万冊、屋上は庭園になっている立派な図書館ですが、人口5万人台という都市規模を考えるとオーバースペックな印象。直前に訪れた青梅市中央図書館と比べると利用者数の少なさが気になりました。入口付近の屋外にはまるで人気が無く、休館日に訪れてしまったかと勘違いするほどでした。

(写真)羽村市図書館。

(写真)羽村市図書館。ティーンズコーナー。

 

 

2. 羽村市の映画館

2.1 錦亀館(1930年-1965年)

所在地 : 東京都西多摩郡羽村町145(1962年)
開館年 : 1930年
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧 1954』によると1948年開館。『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「錦亀館」。1955年の映画館名簿では「錦亀館(移動劇場)」。1956年・1957年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「錦亀館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石川新聞サービスセンター」がある「樫の木ビル」。最寄駅はJR青梅線羽村駅

(写真)錦亀館。企画展「錦亀館 はむらの映画館」チラシ。

 

錦亀館(きんきかん)は映画館名簿に掲載されている羽村市域唯一の映画館です。掲載されているのは1950年代前半から1962年(昭和37年)まで。後述する錦亀館の営業期間とはやや異なっていますが理由は不明です。映画館名簿によると経営者は石川重一であり、ウェブ検索では石川新聞店が経営していたという情報がありました。

(写真)錦亀館が最後に掲載されている『映画便覧 1962』時事通信社、1962年。愛知県図書館所蔵。

 

2021年(令和3年)6月から8月には羽村市郷土資料館で企画展「錦亀館 はむらの映画館」が開催されました。錦亀館の開館年は1930年(昭和5年)、改築年(※閉館年であるかどうかは不明)は1965年(昭和40年)だそうです。芝居小屋として開館し、戦後に映画館に転向したのだと思われます。

羽村市郷土資料館に錦亀館の場所について問い合わせると、「現在の住所では羽村市羽東1-27-25であり、新聞店の店舗が建っている」とのこと。新聞店とは石川新聞店のことであり、映画館名簿の経営者とも一致します。企画展の概要が掲載される『羽村市郷土博物館紀要』第36号はまだ刊行されていませんが、2022年(令和4年)5月下旬にも発売予定だそうです。

(写真)企画展「錦亀館 はむらの映画館」チラシ。

 

1961年(昭和36年)の航空写真にも錦亀館が写っています。建物の長辺が通りに面していた珍しい映画館だったようです。

(写真)1961年の航空写真における錦亀館。地図・空中写真閲覧サービス

 

Googleストリートビューで跡地を見てみると、「ISHIKAWA SC since 1894」という文字のある樫の木ビルがあります。120年以上続いてる新聞店ってすごい。

(写真)錦亀館跡地にある石川新聞店。Googleストリートビュー

羽村市にあった映画館について調べたことは「東京都の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京都版)」にマッピングしています。

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東京都府中市の映画館

(写真)府中市立中央図書館が入るルミエール府中。

2022年(令和4年)5月、東京都府中市府中市立中央図書館を訪れました。

かつて府中市には「新映座」「府中国際劇場」「府中東映」「府中コニー劇場」がありました。現在はシネコン「TOHOシネマズ府中」があります。

 

1. 府中市立中央図書館

府中市立中央図書館については2018年(平成30年)の初訪問時にもブログ記事を書いています。

ayc.hatenablog.com

 

1.1 図書館の施設
現行館は2007年(平成19年)に開館。巨大な複合施設であるルミエール府中の3階と4階(と5階)が図書館となっており、秩序だった配置でフロアを埋めている書架が壮観。
私の地元では2008年開館の岡崎市図書館交流プラザ/岡崎市立中央図書館によく似た印象であり、これらの複合施設/図書館は2000年代における典型なのかもしれません。
1990年代にはこれほど大きな複合施設型の図書館は少ない。2010年代になると書架の配置がもっとゆったりしてくるし、意図的に死角や小部屋を作ります。
 
日本で初めて導入されたという無線ICタグRFID)が気になります。書籍には専用ICタグが貼付され、予約本と返却本の書架に読取用アンテナが内蔵されていることで、目的の書籍が館内のどの位置にあるか把握できるシステムです。私の地元では2017年開館の安城市図書情報館(アンフォーレ)がRFIDを導入していますが、府中市立中央図書館の書架とは少し見た目が異なり、仕切りを多くすることで読み取り精度を上げているようです。

(写真)無線ICタグ

 

1.2 郷土資料
江戸時代から府中では馬市が開かれており、昭和初期には市域に東京競馬場が開場したことなどもあって、郷土資料の中でも「馬」に関する重点収集資料は存在感があります。重点収集資料にある「けやき並木」はウィキペディアタウン向きだと思いましたが、Wikipedia「馬場大門のケヤキ並木」という記事は既にさかおりさんによって加筆されていました。

(写真)特別コレクションの馬。

(写真)特別コレクションのけやき並木と甲州街道

(左)特別コレクションの大賀一郎博士とハス。(右)撮影許可証。

 

 

2. 府中市の映画館

かつて府中市には4館の映画館がありました。うち新映座、府中国際劇場、府中東映の3館は1970~80年代まで営業していたので住宅地図にも掲載されていますが、1960年代初頭に閉館した府中コニー劇場だけは住宅地図では跡地がわかりません。それでも1964年版まで遡れる住宅地図の所蔵状況は秀逸です。

 

『映画年鑑 昭和18年』日本映画協会、1943年

1943年(昭和18年)の映画館名簿を見ると、後の府中東映と思われる映画館が府中松竹館として掲載されています。

 

『映画便覧 1961』時事通信社、1961年

日本の映画人口(観客数)は1958年(昭和33年)にピークを迎え、映画館数は1960年(昭和35年)にピークを迎えます。1961年(昭和36年)の映画館名簿は府中市に4館掲載されている最後の年です。

 

『映画館名簿 1978』時事映画通信社、1978年

1978年(昭和53年)の映画館名簿は府中市に3館掲載されている最後の年です。1978年(昭和53年)12月に府中東映が、1980年(昭和55年)頃に府中国際劇場が、1986年(昭和61年)頃に新映座が閉館し、府中市から映画館がなくなります。

 

2.1 府中コニー劇場(1958年頃-1961年頃)

所在地 : 東京都府中市並木通9126(1961年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1961年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1961年の映画館名簿では「府中コニー劇場」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は商業施設「武蔵府中ル・シーニュ」建物南西部。最寄駅は京王線府中駅

住宅地図ではわからなかった府中コニー劇場の跡地ですが、府中市立中央図書館にレファレンスしたら見つけ出してくださいました。『府中史談』府中市史談会、第13号、1987年によると後のみどりや百貨店(緑屋百貨店)の場所だそうです。京王線府中駅のすぐ南、武蔵府中ル・シーニュの建物南西部にあったようです。

(地図)中央左に府中コニー劇場跡地の緑屋百貨店が描かれてる『府中市商工住宅名鑑』1964年。府中市立中央図書館所蔵。

 

2.2 府中東映(1940年-1978年12月)

所在地 : 東京都府中市宮町1-20-5(1979年)
開館年 : 1940年
閉館年 : 1978年12月
『全国映画館総覧 1955』によると1940年開館。1943年の映画館名簿では「府中松竹館」。1949年の映画館名簿では「府中松竹座」。1950年の映画館名簿では「府中松竹館」。1953年・1955年の映画館名簿では「府中文化劇場」。1958年の映画館名簿では「府中東映劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「府中東映劇場」。1973年・1976年・1978年・1979年の映画館名簿では「府中東映」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート中宮町店」が入る「大津ビル」。最寄駅は京王線府中駅

戦前に開館した府中唯一の映画館が府中東映であり、1950年頃までは府中松竹館として映画館名簿に掲載されており、1959年(昭和34年)に府中文化劇場から府中東映に改称しました。TOHOシネマズ府中が入るくるるがあるブロックの南東角、大津ビルの場所にありました。

(地図)右下に府中東映が描かれてる『府中市商工住宅名鑑』1964年。府中市立中央図書館所蔵。

(地図)右下に府中東映が描かれている『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1978年。府中市立中央図書館所蔵。

 

2.3 府中国際劇場(1953年12月-1980年頃)

所在地 : 東京都府中市宮西町1-16-2(1980年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1980年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「府中国際劇場」。1981年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「府中グリーンハイツ」。最寄駅は京王線府中駅

(写真)府中国際劇場。『キネマ旬報』1976年4月15日、681号。愛知県図書館所蔵。

(地図)左上に国際映画劇場が描かれてる『府中市商工住宅名鑑』1964年。府中市立中央図書館所蔵。

(地図)中央上に国際映画劇場が描かれている『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1978年。府中市立中央図書館所蔵。

(上・下)「われらの映画館 府中国際劇場」『キネマ旬報』1976年4月15日、681号。愛知県図書館所蔵。

 

2.4 新映座(1957年頃-1986年頃)

所在地 : 東京都府中市宮西町5-25(1986年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1986年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「府中新映座」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。府中市最後の従来型映画館。跡地はマンション「ボヌール府中」。最寄駅は京王線府中駅

 

(地図)中央下に新映座が描かれてる『府中市商工住宅名鑑』1964年。府中市立中央図書館所蔵。

(地図)中央上に新映座が描かれている『ゼンリン住宅地図』ゼンリン、1978年。府中市立中央図書館所蔵。

(左・右)新映座の地図が掲載されている『ぴあmap 82'』ぴあ、1982年。個人所蔵物。

 

2.5 TOHOシネマズ府中(2005年3月17日-営業中)

所在地 : 東京都府中市宮町1-50 くるる5階(2020年)
開館年 : 2005年3月17日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2006年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ府中1-8・プレミアスクリーン」(9館)。

(写真)TOHOシネマズ府中が入るくるる。Fuchu - Wikimedia Commons

府中市にあった映画館について調べたことは「東京都の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京都版)」にマッピングしています。

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