振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

覚王山日泰寺墓地を訪れる(1)

(写真)覚王山日泰寺

2024年(令和6年)4月、愛知県名古屋市千種区にある覚王山日泰寺墓地を訪れました。名古屋近辺の多くの著名人の墓があります。「覚王山日泰寺墓地を訪れる(2)」に続きます。

 

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1. 覚王山日泰寺墓地(東墓地)

覚王山日泰寺墓地は西墓地と東墓地に分かれており、それぞれ4万~5万平方メートルある広大な墓地です。近くにはナゴヤドームを見下ろせる場所もありますが、ナゴヤドーム1個分は48,169m2(建築面積)であり、愛知県内各地のイオンモールの店舗面積も同程度です。

(写真)覚王山日泰寺東墓地。

 

1.1 佐藤定蔵(愛知金明講取締)

覚王山日泰寺墓地はあくまでも墓地なので墓石がメインですが、全身像がある珍しい人物として佐藤定蔵がいます。愛知金明講の取締(代表)を務めていた人物だそうで、「大先達 佐藤定蔵翁銅碑」とあるのですが、かつては石像ではなく銅像だったのでしょうか。

(写真)大先達 佐藤定蔵翁銅碑。

 

香川県仲多度郡琴平町には金刀比羅宮があります。金毘羅参りは江戸時代から近代を代表する旅行の形態ですが、愛知金明講は日本最大級の金毘羅講だそうで、1992年(平成4年)時点でも多くの参拝者がいたようです。

琴平市街地の中心部、琴電琴平駅前には通りをまたぐ巨大な鳥居が建っていますが、この鳥居は1925年(大正14年)1月に愛知金明講が寄進した鳥居であり、北側の柱には「愛知金明講 佐藤定蔵」と刻まれています。

(写真)琴電琴平駅前の鳥居。Googleストリートビュー

1.2 竹内常次郎(鞄職人)

覚王山日泰寺墓地には石板型の石碑も一定数見られ、墓地東側の中央部には竹内常次郎翁之碑があります。

碑文を読解すると、竹内常次郎は文久3年(1863年)に江戸に生まれ、1877年(明治10年)に名古屋に転居すると、他者に先駆けて西洋風鞄の製造を始めたようです。1927年(昭和2年)1月9日に死去し、同年5月にこの石碑が建立されました。篆額は名古屋市長の田阪千助です。

石碑の手前には「鞄業祖竹内翁碑」と刻まれた四角柱があり、背面には1956年(昭和31年)5月吉日の日付と「愛知鞄創業八十年大祭記念改修」と刻まれています。

(写真)竹内常次郎翁之碑。

 

1.3 下出民義(電気事業家)

古川為三郎の墓の南隣には、古川と同等の広い敷地に「下出家累代墓」があります。側面には「昭和六年五月建立 当主民義」とあり、1931年(昭和6年)5月に実業家・政治家の下出民義 - Wikipediaが建立しています。下出民義は名古屋市会議員、衆議院議員貴族院議員などを歴任し、東邦高等学校の創設者でもある人物です。

(写真)下出家累代墓。

 

1.4 加藤重三郎(名古屋市長)

墓石には「〇〇家之墓」や「〇〇家累代之墓」と刻まれているのが一般的ですが、個人名が刻まれている数少ない人物として加藤重三郎 - Wikipediaがいます。背面には昭和八年没と刻まれているため、同姓同名の別人ではないと判断できるのですが、墓石はかなり新しいように見えます。加藤は弁護士、名古屋市会議員、名古屋市長(1906年~1911年)を務めた人物です。

(写真)加藤重三郎之墓。

 

1.5 久留島通彦(電気事業家)

覚王山日泰寺墓地の東端近くには久留島家之墓があります。広い敷地にぽつんと1基の墓石が置かれており、この墓石自体は1933年(昭和8年)9月建立ですが、2023年(令和5年)1月に墓地の改修を行ったため殺風景なようです。

墓石の建立者は東邦電力常務や揖斐川電気(現・イビデン)社長を務めた久留島政治であり、久留島政治の弟は矢作水力副社長や東亞合成化学工業(現・東亞合成)会長を務めた久留島通彦 - Wikipediaです。

(写真)久留島家之墓。

 

1.6 岡野好太郎(柔道師範)

墓石に加えて歌碑のある人物として岡野好太郎がいます。

岡野は講道館十段の柔道師範。1885年(明治18年)4月24日に香川県に生まれ、1911年(明治44年)以降に第六高等学校、1920年大正9年)以降に第八高等学校、その後名古屋高等商業学校や名古屋大学などの柔道師範を務めました。著書に『学生柔道の伝統』があります。

岡野は1967年(昭和42年)6月2日に死去し、1969年(昭和44年)6月2日に歌碑が建立されています。刻まれているのは岡野自身が詠んだ歌ではなく、弟子の出月三郎陸軍軍医大佐が追慕した歌です。

隣には岡野永敏之墓がありますが、岡野永敏は岡野好太郎の次男であり、海軍技術中尉として航空技術廠光学部に勤務していた人物。1943年(昭和18年)11月14日、飛行機に搭乗して夜間雷撃の実験中に佐田岬沖で事故死したとのことです。

(写真)歌碑と岡野家の墓。

 

1.7 古川為三郎(実業家)

現代の名古屋を代表する実業家として、ヘラルドグループ創業者の古川為三郎 - Wikipediaがいます。

1908年(明治41年)には大須観音境内に、名古屋初の活動常設館である文明館が開館しました。1912年(明治45年)には2番目の活動常設館として太陽館が開館し、他にも多数の映画館が生まれたことで大須は日本屈指の興行街となりました。

1921年(大正10年)、古川為三郎は太陽館を買収して映画館経営者としての道を歩み始めました。戦後には多数の映画館の経営を手掛けたほか、1956年(昭和31年)には配給会社の日本ヘラルド映画を設立しています。

古川為三郎やヘラルドグループの経営館は多数ありますが、2003年(平成15年)の経営破綻前まで経営していた映画館には、矢場町のヘラルドシネプラザ(1964年~2004年)、名古屋駅前の毎日ホール劇場(1960年~2002年)があります。

(写真)古川家之墓と古川為三郎之墓。

(写真)古川為三郎之墓。