振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

青梅市の映画館

(写真)青梅市青梅図書館。

2022年(令和4年)5月、東京都青梅市を訪れました。

かつて青梅市には「青梅大映劇場」「青梅キネマ」「青梅セントラル劇場」の3館の映画館がありました。2021年(令和3年)には新たに「シネマネコ」が開館し、約半世紀ぶりに映画館が復活しています。「シネマネコを訪れる」からの続きです。

 

ayc.hatenablog.com

 

1. 文献調査

1924年大正13年)に青梅町役場が発行した『青梅案内』には初音座と墨江座という2館の劇場について説明しています。青梅初の活動常設館は、1926年(大正15年)に墨江座跡地に開館した青梅キネマです。

(写真)『青梅案内』青梅町役場、1924年青梅市中央図書館所蔵。

 

『全国映画館録 昭和11年度』キネマ旬報社、1935年

1936年(昭和11年)の映画館名簿には西多摩郡青梅町の映画館として初音座と青梅キネマが掲載されており、青梅キネマには「非常設館または不定期館」のマークが付いています。多摩で最も映画館が多かった八王子は3館。武蔵野(吉祥寺)、立川、府中、町田がそれぞれ1館です。

 

『全国映画館総覧 1955』時事通信社、1955年

1955年(昭和30年)の映画館名簿にはそれぞれの映画館の開館年も掲載されています。青梅セントラル劇場は主に洋画、青梅大映劇場は大映東映、青梅キネマは松竹や東宝や新東宝を上映していたことがわかります。昭和20年代末の日活は他社よりも人気が劣っており、青梅市では上映館がなかったようです。

 

『映画便覧 1963』時事通信社、1963年

青梅市に3館の映画館が掲載されている最後の映画館名簿は1963年(昭和38年)版です。3館とも北村正治の経営でした。

 

『映画館名簿 1973』時事映画通信社、1973年

青梅大映劇場(青梅映画)が掲載されている最後の映画館名簿は1973年(昭和48年)版です。昭島市の拝島映画劇場も青梅大映劇場と同じく北村次郎の経営でした。

 

(写真)青梅市にあった3映画館の広告。『青梅 1956』青梅市役所、1956年。いわゆる市勢要覧。青梅市中央図書館所蔵。

(写真)青梅市にあった3映画館が掲載されている『青梅地方の商工案内 1961』青梅商工会議所、1961年。青梅市中央図書館所蔵。

(写真)1955年の二俣尾駅前にあった3映画館の映画看板。『板観さん』けやき出版、2017年。青梅市中央図書館所蔵。

 

2. 青梅市の映画館

2.1 青梅セントラル劇場(1952年-1963年頃)

所在地 : 東京都青梅市勝沼9(1963年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年開館。1953年の映画館名簿では「青梅セントラル」。1955年の映画館名簿では「青梅セントラル劇場」。1960年の映画館名簿では「青梅セントラル劇場」。1963年の映画館名簿では「青梅セントラル」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東青梅診療所」とその南の道路。

映画館名簿によると、青梅セントラル劇場は定員306の映画館であり、主に洋画を上映していたようです。青梅市で最も早く1963年(昭和38年)頃に閉館しただけに、建物の入口上部に「CINEMASCOPE」(シネマスコープ)とあるのが驚きです。

(写真)青梅セントラル劇場。撮影年不明。『板観さん』けやき出版、2017年。青梅市中央図書館所蔵。

 

青梅市最古の住宅地図は1970年(昭和45年)版であり、1963年(昭和38年)頃に閉館した青梅セントラル劇場は掲載されていません。1956年(昭和31年)の青梅市勢要覧には国鉄東青梅駅前の土地区画整理事業に関する航空写真が掲載されており、セントラル劇場の正確な場所がわかる唯一の文献かもしれません。

(写真)セントラル劇場が描かれている『青梅 1956』青梅市役所、1956年。いわゆる市勢要覧。青梅市中央図書館所蔵。

(写真)左下に青梅セントラル劇場跡地の日本生命青梅支部が描かれた『全住宅案内地図帳』公共施設地図航空、1970年。東京都立多摩図書館所蔵。

 

映画館の南側の道路は将来的な拡幅に備えて後退用地が取られています。セントラル劇場の跡地は東青梅診療所の敷地から後退用地までを含む範囲だったと思われます。

(写真)青梅セントラル劇場跡地の東青梅診療所。

(左)青梅セントラル劇場跡地の東青梅診療所と後退用地。(右)東青梅駅から青梅セントラル劇場跡地に向かう路地。

 

2.2 青梅キネマ(1926年-1966年頃)

所在地 : 東京都青梅市住江町42(1966年)
開館年 : 1926年頃、1945年
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年開館。1936年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「青梅キネマ」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「青梅ガーデンヒルズ」。

1919年(大正8年)7月には初音座に次ぐ芝居小屋として墨江座が開館。1924年大正13年)には経営元が合併して両館の共存が図られます。1926年(大正15年)1月20日に火災で全焼すると、跡地には映画常設館の青梅キネマが新築開館しました。

(写真)青梅神社の西に墨江座が描かれている『大日本職業別明細図 青梅町』年不明。昭和幻燈館の展示。

(写真)1952年の青梅キネマ。『保存版 西多摩今昔写真帖』郷土出版社、2004年。青梅市中央図書館所蔵。

(写真)青梅キネマの広告。『青梅市展望』青梅市役所、1951年。青梅市中央図書館所蔵。

(写真)1956年のキネマ通りと青梅キネマの映画看板。『保存版 西多摩今昔写真帖』郷土出版社、2004年。青梅市中央図書館所蔵。

 

青梅キネマはキネマ通りと三業通りが交差する場所にありますが、この2本の通りは青梅における花柳界の中心であり、周辺には多数の料亭などがあったようです。松竹キネマと契約したことで松竹作品を中心とし、時代によって東宝・新東宝・日活なども上映しています。1966年(昭和41年)4月5日には再び火災で全焼し、映画館が再建されることはありませんでした。

(写真)青梅キネマの火災について報じる『映写』全日本映写技術者連盟、210号、1965年。

(写真)住吉神社北西に青梅キネマ跡地の空白が描かれた『全住宅案内地図帳』公共施設地図航空、1970年。東京都立多摩図書館所蔵。

(写真)2004年のキネマ通り。突き当りは旧青梅街道。『保存版 西多摩今昔写真帖』郷土出版社、2004年。青梅市中央図書館所蔵。

 

昭和レトロをテーマとする資料館として、旧青梅街道沿いの住江町商店街には昭和幻燈館があり、青梅キネマやキネマ通りの模型が展示されていました。模型の青梅キネマでは『羅生門』が上映中のようです。

(写真)青梅キネマやキネマ通りの模型。昭和幻燈館の展示。

(左・右)昭和幻燈館。

 

1990年(平成2年)には青梅キネマの跡地にマンションが建ちました。キネマ通りの南側は拡幅されており、往時の面影を感じるのが難しくなっています。

(写真)キネマ通り。修繕用の足場で覆われた右奥のマンションが青梅キネマ跡地。JRの線路を越えた奥は永山公園。

(写真)拡幅されたキネマ通り。突き当りは旧青梅街道。

 

2.3 青梅大映劇場(1950年-1973年)

所在地 : 東京都青梅市青梅120(1973年)
開館年 : 1884年頃(初音座)、1950年(青梅大映
閉館年 : 1973年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「初音座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「青梅大映初音座」。1953年の映画館名簿では「青梅大映」。1955年の映画館名簿では「青梅大映劇場」。1958年の映画館名簿では「青梅大映」。1960年の映画館名簿では「青梅大映劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「青梅大映」。1973年の映画館名簿では「青梅映画」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は月極駐車場「川窪駐車場」。

明治時代初期に開館した寄席の鶴寿亭がやがて初音座に改称、1902年(明治35年)には本格的な芝居小屋としてのこけら落としを行いました。戦前の一部の映画館名簿にも初音座の名前が掲載されていますが、戦後に青梅大映に改称して映画常設館となっています。

戦前から建て替えはなされていないと思われ、映画館名簿には一貫して500人台の座席数を有する映画館として掲載されています。1973年(昭和48年)に閉館し、青梅市から映画館がなくなりました。

(写真)1961年の青梅大映。『保存版 西多摩今昔写真帖』郷土出版社、2004年。青梅市中央図書館所蔵。

(写真)久保板観による昭和30年代頃の青梅大映昭和レトロ商品博物館

(写真)久保板観による映画看板が多数展示されている昭和レトロ商品博物館

(左・右)久保板観による映画看板が多数展示されている昭和レトロ商品博物館

 

(写真)左下に青梅大映劇場が描かれた『全住宅案内地図帳』公共施設地図航空、1970年。東京都立多摩図書館所蔵。

(写真)青梅大映劇場跡地の駐車場。奥が青梅駅方面。

 

1.4 シネマネコ(2021年6月4日-営業中)

所在地 : 東京都青梅市西分町3-123 青梅織物工業協同組合敷地内
開館年 : 2021年6月4日
閉館年 : 営業中
2020年・2021年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR青梅線東青梅駅

2021年(令和3年)にはミニシアターのシネマネコが開館し、48年ぶりに青梅市に映画館が復活しました。「シネマネコを訪れる」を参照。

ayc.hatenablog.com

(写真)シネマネコ。

(左)シネマネコの座席。(右)シネマネコのロビー。

青梅市にあった映画館について調べたことは「東京都の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京都版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

 

シネマネコを訪れる

(写真)青梅駅前。

2022年(令和4年)5月、東京都青梅市の映画館「シネマネコ」を訪れました。「青梅市の映画館」に続きます。

 

ayc.hatenablog.com

 

1. 青梅市を訪れる

1.1 映画看板のまち

久保板観(久保昇)は青梅市で活動した映画看板絵師。16歳から青梅市内の映画館の映画看板を手掛け、3000~4000枚の看板を描いたそうです。青梅市の映画館がなくなってからは商業看板の制作に移行しましたが、1994年(平成6年)には住江町商店街のまちおこしのために映画看板の制作を再開。板観は「最後の映画看板師」と呼ばれていましたが、2018年(平成30年)に死去しました。

設置から四半世紀が経過した映画看板は老朽化が進み、板観の死去後には大型看板の一部が撤去されたようです。小規模な看板は残されているほか、JR青梅駅の地下通路、昭和レトロ商品博物館の館内などでも多数の看板を観ることができます。

(写真)オリオンカメラ店住江町本店。赤木圭一郎主演『俺の血が騒ぐ』(日活、1961年)をアレンジ。

(写真)瀬音。オーソン・ウェルズ主演『第三の男』(1949年)。

(写真)ギャラリーはこ哉。『ある愛の詩』(1970年)。

(写真)青梅駅前交差点南側の駐車場。ゲイリー・クーパー主演『スプリングフィールド銃』(1952年)。木下惠介監督『喜びも悲しみも幾歳月』(松竹、1957年)など。

(写真)JR青梅駅の地下通路。高倉健主演『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)、ピエトロ・ジェルミ主演『鉄道員』(1956年)など。

 

2018年(平成30年)以後、住江町商店街は「ねこ」に焦点を当てたまちおこしを進めているようです。JR青梅駅の南西にはにゃにゃまがりという路地があり、昭和幻燈館にはねこをモチーフとする作品が展示されています。ねこと映画看板を絡めた屋外美術も多数あります。

(左)『未知猫との遭遇』。(右)『風邪の姉のニャウシカ』。

 

 

2. シネマネコ

映画看板のまちとして売り出しているのもかかわらず、1973年(昭和48年)から青梅市には映画館がない状態が続いていました。2021年(令和3年)6月4日、ミニシアター系作品を上映する1スクリーンの映画館「シネマネコ」が開館しました。

建物は登録有形文化財の旧都立繊維試験場であり、旧市街地から約1km離れていますが、周辺には散策者も多数見られました。東京都唯一の木造映画館であるほか、1935年(昭和10年)竣工という点も東京都最古だと思われます。

(写真)シネマネコの外観。

 

2018年(平成30年)には新潟県十日町市十日町シネマパラダイス - Wikipediaが閉館していますが、シネマネコの座席はシネパラから譲渡されたキネット社製のもの。私はシネパラの閉館数か月後に跡地を訪れましたが、もう更地になっていましたのが残念でした。東京都まで来て初めて、魚沼最後の映画館の存在を感じられました。

(写真)ホールと座席。

 

建物は戦前の竣工ですが、リノベーションで天井を剥がしたりことで木造トラスがむき出しに。ロビーに開放感が生まれたほか、場合によっては「木の香り」を感じられるそうです。館内はとてもおしゃれで、カフェやオリジナルグッズなど入場料以外の売上向上の工夫もしています。
主導者は青梅市で生まれ育った飲食店の経営者だそうで、まちおこしの意識で開館させたとか。一部のミニシアター系映画館にある "映画館はこうあるべき" という変なこだわりがない。開館時には500万円を目標金額とするクラウドファンディングも実施していますが、寄付者の6割が青梅市民だったというのも興味深い。地域から求められて開館した映画館っていいですね。

(写真)ロビーの北側。奥はカフェ。

(写真)カウンター。

(写真)木造トラス。

 

併設されているカフェには映画観客以外も多くいたようです。周辺には他のレストランや雑貨店などもあり、歩いている方も多かった。地図上でシネマネコを見ていただけでは気づきませんでした。

(左)カフェ。(右)ナポリタン。

(写真)パンフレットやオリジナルグッズ。

(左)ロビーの南側。(右)カフェの看板。

(写真)シネマネコの図面。『新建築』2021年9月号。

 

青梅市にあった映画館について調べたことは「東京都の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京都版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

 

瑞穂町図書館を訪れる

(写真)瑞穂町図書館の入口。「Mizuho town library」のネオンは夜になると緑色に光る。

2022年(令和4年)5月、東京都西多摩郡瑞穂町の瑞穂町図書館を訪れました。「瑞穂町の映画館」からの続きです。
 
初めて瑞穂町を訪れました。町公式サイトを見ても町名の読みが書かれていませんが、「みずほちょう」ではなく「みずほまち」だそうです。この春には『ポプラディア』第三版における自治体名の読みの訂正が話題になっていますが、ポプラ社スタッフだけでなく我々一般市民のためにも、町名の読みをどこかに記載してほしい。
図書館は2022年(令和4年)3月22日にリニューアル開館したばかり。来館者数はリニューアル前の2.5倍になるなどして注目を集めています。
 

1. 瑞穂町図書館を訪れる

1.1 図書館の歴史
瑞穂町は在日米軍横田基地がある町。防衛施設周辺の整備等に関する法律に基づき、1973年(昭和48年)に防衛施設庁からの補助金を受けて図書館が建設されました。
当時の瑞穂町の人口は約2万人であり、この規模の町としては早い時期の単独施設です。1977年(昭和52年)と1984年(昭和59年)に増築されています。
1970年代には周辺自治体でも防衛省補助金を受けた公共施設が相次いで建設されたみたい。約半世紀経った今、これらの公共施設が一斉に改修の時期を迎えているそうです。2022年(令和4年)には特定防衛施設周辺整備調整交付金を受け、中央棟の増築や3階部分の減築などを含めた大規模な改修を行ってリニューアル開館しました。

(写真)1973年に防衛省補助金を受けて建設された旨の石碑。
 
1.2 図書館の館内
設計は静岡県牧之原市立図書交流館「いこっと」なども手掛けたスターパイロッツ。設計費5000万円を含めた総工事費は約6億円ですが、新築した場合の約12億~15億円と比べると半分以下に抑えられているそうです。「いこっと」は図書館部分と共用部分の境界の曖昧さが特徴的な図書館ですが、瑞穂町図書館におけるスターパイロッツ側の売りはなんだろう。

(左)モバイルバッテリー貸し出しサービス。(右)オリジナルの読書手帳。

(左)児童向け企画「図書館で謎を解け!」。(右)自動貸出機・蔵書検索機。

 

箱形の建物の外観は歴史を感じさせますが、館内は什器からサインまで様々なものが取り換えられており、新築された図書館にしか見えません。とはいえ書架の中身は古さを感じさせるものであり、たっぷり資料費のある自治体の新館とは差を感じます。

とはいえ、ただの改修で済ませずに市民向けワークショップを行ったり、気鋭の設計事務所を設計者に選んだり、「利用者が2.5倍に」などという新聞記事が出て話題を集めたりする辺りは、図書館側の意気込みを感じました。

(写真)新刊コーナー。

(左)多摩だるま。(右)新聞コーナー。

(左)授乳室や幼児向け閲覧席。(右)1階の書架。

(写真)おはなしコーナー。

(写真)窓際のソファ席。

 

リニューアル時の目玉として「大瀧詠一コーナー」があり、常設展示の実現に向けて担当者が尽力されたとのことですが、何も知らない町民にはその努力が伝わらないかもしれません。

(写真)大瀧詠一コーナー。ミュージシャンの大瀧詠一瑞穂町在住だった。

(左)2階に上がる階段。(右)階段とその周囲の書架。

(写真)横田基地から贈られたクマ。

(左・右)2階の閲覧席。

(左)閲覧席のサイン。(右)自動販売機コーナー。水・茶・コーヒーの無料給水機がある。

1.3 郷土資料
初めて訪れる図書館では必ず映画館に関する調査を行いますが、半世紀前から単独施設がある図書館としては郷土資料がいまいちです。もともと防衛省補助金で建設された図書館であり、熱意ある市民や行政が主導したものではないからかもしれません。
 
「みずほ学」エリアには地場産業である村山大島紬が展示されていましたが、特に文献と絡めた展示ではなかった。「みずほ学」は大きくとらえた郷土資料のエリアでちょっとおもしろい構成でした。

(左)(右)。

(左)(右)。

瑞穂町の映画館

(写真)瑞穂町図書館の新聞記事スクラップブック。
2022年(令和4年)5月、東京都西多摩郡瑞穂町(みずほまち)を訪れました。
かつて瑞穂町には映画館「瑞穂パレス」がありました。「瑞穂町図書館を訪れる」に続きます。
 

1. 瑞穂町の映画館

1.1 瑞穂パレス(1950年-1964年頃)
所在地 : 東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎2338(1964年)
開館年 : 1950年
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1950年開館。『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年の映画館名簿では「みづほ劇場」。1955年の映画館名簿では「みづほ劇場 休館」。1957年の映画館名簿では「みづほ劇場」。1958年の映画館名簿では「瑞穂パレス」。1959年・1960年の映画館名簿では「みづほ劇場」。1961年・1963年・1964年の映画館名簿では「瑞穂パレス」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。
映画館名簿には年度によって "瑞穂パレス" と "みづほ劇場" の2通りの名称で掲載されていますが、経営者、定員や構造、電話番号などを総合的に判断して同一の映画館だと判断しています。1950年代の経営者は瑞穂興行でしたが、1960年代には北村正治に変わっています。

(写真)みづほ劇場が掲載された『全国映画館総覧 1954』時事通信社、1954年。愛知県図書館所蔵。

(写真)瑞穂パレスが掲載された『映画便覧 1964』時事通信社、1964年。京都府立図書館所蔵。中部地方公共図書館には所蔵なし。
 
『保存版 西多摩今昔写真帖』(郷土出版社、2004年)には1962年(昭和37年)の瑞穂パレス周辺の写真が掲載されており、2004年時点の跡地周辺の写真も掲載されていますが、これらの写真からは正確な跡地が判断できません。

(写真)1962年の瑞穂パレス北側の農道。右端が瑞穂パレス。『保存版 西多摩今昔写真帖』郷土出版社、2004年。瑞穂町図書館所蔵。

 
『写真で見る瑞穂の歩み』(瑞穂町教育委員会、1983年)には瑞穂町公民館の写真が掲載されており、「元瑞穂パレス」という表現がなされています。

(写真)瑞穂町公民館。『写真で見る瑞穂の歩み』瑞穂町教育委員会、1983年。瑞穂町図書館所蔵。
 
2018年(平成30年)秋には瑞穂町郷土資料館けやき館で「コレクション展 昭和のオモチャと映画ポスター」が開催され、瑞穂町にあった映画館の木製看板などが展示されたそうです。その後常設展示されてたりしないかな。
瑞穂町郷土資料館に瑞穂パレスについて問い合わせたところ、現在の瑞穂町民会館が瑞穂パレスの跡地だったようです。1961年(昭和36年)の航空写真を見ると、瑞穂パレスや瑞穂町役場(1960年竣工)の周囲はまだ農地が広がっていたことがわかります。

(写真)1961年の航空写真における瑞穂パレス。地図・空中写真閲覧サービス

 

瑞穂町にあった映画館について調べたことは「東京都の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京都版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com