振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

旧生野鉱山職員宿舎を訪れる

(写真)旧生野鉱山職員宿舎にある協和会館の展示。

2024年(令和6年)4月、兵庫県朝来市生野町を訪れました。

生野町は江戸時代から現代まで生野鉱山(生野銀山)で栄えた町です。かつて生野町には三菱金属鉱業が経営する映画館「生野協和会館」がありました。「朝来市生野町を訪れる」からの続きです。「生野町の映画館」に続きます。

 

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1. 旧生野鉱山職員宿舎

生野市街地には「朝来市旧生野鉱山職員宿舎」という施設があります。1877年(明治9年)に建てられた日本最古の社宅の建物群を転用した見学施設であり、展示施設&ゲストハウスである生野鉱山官舎、生野町出身の俳優 志村喬を顕彰する志村喬記念館からなります。名称が長いうえに覚えにくいのが難点ですが、建物も展示も興味深いものでした。

(写真)旧生野鉱山職員宿舎。

 

1.1 生野協和会館の法被

朝来市旧生野鉱山職員宿舎の管理棟には、かつて生野町にあった映画館「生野協和会館」に関する展示があります。2台のカーボン式映写機、スタッフの法被などが展示されています。

(写真)生野協和会館の法被。

 

ユニフォームが法被というのは映画館というよりも芝居小屋っぽい。襟文字として「生野鉱業所」「協和会館」の文字があり、「鉱」と「会」は旧字、「所」は異体字が用いられています。襟文字の上部に「棟梁」とある法被は支配人が着用していたそうです。三菱金属鉱業が経営していた映画館であることから、背紋として三菱マークが入っています。

(写真)生野協和会館の法被。右は棟梁用。

(写真)生野協和会館の法被。

 

1.2 生野協和会館の映写機

生野協和会館で用いられていた2台のフジセントラル(富士精密工業)の映写機が展示されています。1台だけではなく2台とも保存展示している点が珍しいかも。

富士精密工業は戦前の中島飛行機株式会社に源を持つ映写機メーカーであり、フジセントラルは高級映写機として知られていたようです。戦後には中島飛行機富士重工業株式会社となり、2017年(平成29年)には株式会社SUBARU(スバル)に発展しています。

(写真)生野協和会館の映写機。

(写真)生野協和会館の映写機。

(写真)生野協和会館の映写機。

(写真)生野協和会館の映写機。

(写真)生野協和会館の映写機。

 

1.3 「さらば協和会館」『GINZAN』2007年3月

「さらば協和会館」という特集が組まれた、『GINZAN』という雑誌(?)2007年3月号の紙面のラミネートがありました。Google検索ではこの雑誌(?)の情報が出てこず、スタッフに聞いてもどのような範囲で配布(?)されていた雑誌だったのか判然としません。

 

生野鉱山の協和会館は、昭和4年に、共栄会館として誕生しました。『明治以降の生野鉱山史』には、「木造洋風建築の建坪二百八十五坪で、本館および別館よりなり、本館は講演、演劇、映画等の会場とし、別館には室内娯楽、小会合に使用」と記載されています。こけら落しを飾ったのは、大阪歌舞伎の嵐三五郎一座。公演は三日間にわたり、鈴なりの人で賑わいました。

昭和7年、協和会館に名称が変更。労働組合などの大きな大会が開催されるようになります。協和会館は、三菱の福祉施設であったものの、三菱の職員や家族だけでなく、生野の町民にも広く開放し、映画、芝居、音楽など、都会の文化が届く町のホールとして親しまれてきました。また、スポーツ会場やダンスホールなどにも利用され、町の人の社交の場にもなりました。

数々の歴史を刻み続けた木造の建物は、昭和38年に、鉄筋コンクリート造に建て替え。その建物も、工場の拡張のため、平成19年2月20日に姿を消しました。形あるものは、何時か必ず消えていきますが、私たちの記憶の中の協和会館は不滅です。いつまでも思い出に残る協和会館。ありがとう、そして、さようなら、私たちの協和会館。