振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

おおぶ文化交流の杜図書館を訪れる

2017年5月、愛知県大府市の「おおぶ文化交流の杜図書館」の貸出数が全国の同規模(人口6-10万人)自治体180自治体中1位になったという新聞記事が出た。貸出数ランキングというものは首都圏の自治体が上位を独占しているイメージがあるので、そして前年までランク外だった大府市が突然1位となったのに驚いた方も多いかもしれないけれど、近くの自治体に住んでいる者にとっては驚きではないのでした。

 

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 (写真)図書館が入っているおおぶ文化交流の杜。

 

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
このブログにおける写真は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 3.0 非移植 ライセンスの下に提供されています。写真の一部はObu culture communication library - Wikimedia Commonsにアップロードしています。

 

www.trc.co.jp

https://mainichi.jp/articles/20170524/k00/00e/040/205000c?ck=1

「おおぶ文化交流の杜図書館 貸し出し図書の冊子数日本一に」毎日新聞、2017年5月24日

www.asahi.com

 

大府市の図書館の歴史

知多半島の付け根にある大府市は人口約9万人の自治体。名古屋市中心部とは約20km離れているが、日中でも毎時4本の快速系統が約15分でJR東海道線大府駅名古屋駅を結んでいるうえに、刈谷市安城市岡崎市などの西三河地方へのアクセスも良い。

1970年に約5万人だった人口は、1990年に約7万人となり、2016年に9万人を超えた。知多半島の多地域とは違って醸造業は栄えなかった。他県の方にとってはそれほど知られていない自治体かもしれない。

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(画像)愛知県における大府市の位置。作者 : Lincun

 

おおぶ文化交流の杜図書館 - Wikipedia

図書館の歴史についてはもうウィキペディア「おおぶ文化交流の杜図書館」に書いた。大府市には長らく図書館法における「図書館」がなかったが、1980年に大倉会館内に大府市中央図書館が開館。貸出数は1978年度の13,969冊が1980年度には96,038冊(約7倍)に増えた。新築時の大倉会館はいくつかの建築系雑誌にも掲載されており、中部建築賞を受賞している。

1980年の人口は約6万人だった。床面積1,137m2の大府市中央図書館は人口の増加とともに狭隘化が進み、末期には「近隣の大府市立大府小学校の空き教室を書庫代わりに使用」していたらしい。2008年のリーマン・ショックでは愛知県の他自治体同様に法人税収入が激減し、2012年に開館予定だった新館の建設は約2年間遅れた。

建設・運営にはPFI方式を採用し、2014年におおぶ文化交流の杜が開館。その中に入るおおぶ文化交流の杜図書館の指定管理者には図書館流通センターが選ばれた。2013年度に514,154冊だった貸出数は2015年度に1,356,446冊(約2.6倍)まで増え、全国の同規模自治体(人口6万人-10万人)180自治体の中で総貸出数・1人あたり貸出数ともに最多となった。 

 

立地や施設

旧館の大倉会館は大府駅から徒歩10分の好立地にあり、市役所や中心商業地にも近かった。一方でおおぶ文化交流の杜は大府駅共和駅それぞれから約2.5kmの距離があり、駅から歩くと30分程度かかる。大府駅共和駅のどちらから赴いても、図書館の手前で約15mの高低差がある坂を上る必要があり、自転車などでも行きづらい。公共交通機関では1時間1本の間隔でコミュニティバスが走っているが、基本的なアクセス手段は自動車しかないといっていい。

施設内は1階に図書館やホールや多目的スタジオが、2階に会議室や学習室がある。図書館内は和やかな雰囲気を感じる。そもそも立地が災いして中高生の図書館利用者は少なく見えるし、勉強する学生は上階に隔離されている。他自治体の図書館よりは(車を持たない)高齢者も少ないのだろう。この結果、自家用車で来るファミリー層にとってとても居心地の良い図書館になっている。貸出冊数が日本一になった背景には自家用車で来るファミリー層が20冊の制限いっぱいまで借りていくことも大きいのだろう。

近隣自治体の中では唯一導入している自動貸出機は、2015年時点ですでに貸出の96%を担っていた。即座に返却処理がされる自動返却機は子どもに好評らしい。ICタグによる自動貸出や自動返却のおかげで図書館員が本来の業務に力を注げているのがわかる。よく考えられた書架の配置や展示、つねに入館者に目を配っている総合受付の職員、声をかけやすいレファレンスカウンターの司書。この図書館はもっと注目されてほしい。

 

 施設全体のロビー

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(写真)おおぶ文化交流の杜のロビー。文化の発信拠点という雰囲気がうらやましい。

 

図書館の中央部

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(写真)総合カウンター前。「祝 貸出図書数 全国一位」の幕が見える。

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 (写真)新刊コーナー。帯で内容を紹介。

 

ICT関連

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(左)4台並んだ自動貸出機。(右)図書館入口にある自動返却機。

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(左)インターネット用PCは9台。(右)存在感のある予約本コーナー。

 

郷土資料コーナー

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 (写真)テーマ展示。

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  (左)レファレンスカウンター。(右)大府市関連の図書の棚。棚の上では新聞記事のスクラップ。

 

グループ学習室

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 (写真)この図書館のウリになるはずだっただろう、図書館のフロア中央部で存在感を放つグループ学習室。左は通常時。右は学習室としての使用時。大府市民と図書館がこの部屋を使いこなせているようには見えない。

 

児童書エリア

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 (写真)児童書エリア。児童書は見るべきポイントがわからない全体の様子でごまかす。天井のアールが醸し出してる近未来っぽさが好き。

 

カフェスペース

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(写真)2017年4月から営業している「健康カフェ」。

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(写真)2017年4月で閉店したイタリアンレストラン「エルベッタ」。

Wikipedia Town in 飯田に参加する(2)

ayc.hatenablog.com

2017年7月8日(土)に開催された「Wikipedia Town in 飯田」。(1)の続き。長い。

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「草の根を分けても探し出す」

昼食後には少しだけ館内を歩いた。事前に入手しておいた資料によると、飯田市の図書館は1901年に飯田小学校内にできた飯田文庫にさかのぼる。1915年に飯田町に移管されて公立化し、1931年に現在地の陸軍連隊区司令部の建物に移転した。2015年には100周年記念イベントを行ったのだろうか。1980年まではこの建物を使用していたが、1981年に現行館が開館。長らく市立飯田図書館という名称だったが、1993年の自治体合併時に飯田市立中央図書館に改称した。すでに現行館の開館から36年がたっており、2,500m2という延床面積は2017年基準では広いとは言えないものの、古さや狭さは全く感じない。

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(写真)この日用意された文献。

 

午後の最初は図書館の井原さんによる公式サイトの説明。説明が堂々としていて羨ましい。飯田市立図書館公式サイトは7月1日にリニューアルし、新しいページがいくつも追加されたとか。飯田市の地域資料に関するページには、ゆかりの人物や飯田市の名所旧跡に関するブックリストが閲覧でき、裏界線に関するブックリストもまとめられている。広域検索システム「さーちしまいか」では、飯田市立図書館を含めた近隣7館と国立国会図書館デジタルコレクションの資料が一発で検索できるらしい。デジコレも一緒に検索できるのは便利そう。

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 (写真)飯田市立図書館ウェブサイトの説明。

 

続いて講師であるくさか先生のおはなし。この日、図書館の代田さんはくさか先生のことを何度も先生と呼んだ。先生はウィキペディア記事「飯田市」を例に出し、ウィキペディアとは何であるかを説明する。この記事はウィキペディア的には質の高い記事とは言えないが、外部の人間が飯田市のことをざっくりと把握したい時にウィキペディアは役に立つ、という話だった。

飯田市」という項目は英語版を含む20言語版にあり、英語話者やフランス語話者はもちろん、アラビア語話者やアルメニア語話者やセブアノ語話者だって、飯田市についての簡単な情報を母語で読むことができる。流れで編集方法の説明も。リンクの付け方や出典の付け方などは、各グループに2枚ずつプリントアウトして配布された。

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※くさか先生の画像はありません。

 

 

 この日の編集項目

飯田市立図書館のイベント告知ページでは、あらかじめ当日の編集項目が提示されていた。参加者は5項目の中から第2希望まで選んで参加申込を行い、イベント当日にはあらかじめ5つのグループにグループ分けがなされていた。

まちあるき時には5グループが2コースに分かれた。飯田城下橋北グループと喜久水酒造グループの2グループは橋北コース、田中芳男グループと喜久水酒造グループは橋南コース。裏界線は橋北地区にも橋南地区にも存在するため、裏界線グループの6人は2つのコースに分散した。

あらかじめ編集項目が決まっていたことで、まちあるきで見るべきポイントがわかりやすかった。前日までに編集項目について調べておくこともでき、実際に私は豊川市立図書館と豊橋市立図書館で南信関連資料をパラパラとめくった。この方法を取らないウィキペディアタウンもある。オープンデータ京都実践会が行うウィキペディアタウンでは、当日のまちあるきで興味を引いたポイントから編集項目を選んでもらうべく、各参加者の編集項目を事前に決めることを避ける場合がある。

 

午後の編集作業では5つのグループに分かれたが、イベント中に編集された項目は5記事ではなく7記事だった。喜久水酒造グループ・田中芳男グループ・裏界線グループは編集する項目が明確だったが、飯田城下橋北グループと飯田城下橋南グループは編集項目を決めるところから始めたらしい。参加者の興味次第で柔軟に編集項目を決定できるように、主催者はあえて曖昧なグループ名にしたのかもしれない。

近世の歴史(飯田城・普門院跡・長姫神社)、近現代の歴史(追手町小学校)、地理(裏界線)、人物(田中芳男)、文化(喜久水酒造)と、今回の編集項目はジャンルも変化に富んでいた。一般論としてはジャンルは絞った方がいい。説明するまちあるきガイドも文献を集める司書も楽だし、参加者にとっても内容を理解するのが楽だし、イベントの主題がぼやけない。

今回の5グループが編集した7記事のうち、飯田城や田中芳男はイベント時点ですでにボリュームのある記事で、文章を加筆するのは難しかった。「ウィキペディアに記事があるかどうか」「ウィキペディアの記事が充実しているかどうか」という点を考慮して編集項目を選ぶほうが無難ではあり、くさかさん以外の講師はそうすることが多いが、今回は飯田での初開催なので、主催者が参加者に書いてもらいたい項目を優先したのだろう。

 

コース  グループ      実際の編集項目

橋北・・・飯田城下橋北・・・・飯田城(加筆)、普門院跡(新規)

橋北・・・喜久水酒造・・・・・喜久水酒造(新規)

橋南・・・飯田城下橋南・・・・追手町小学校(加筆)、長姫神社(新規)

橋南・・・田中芳男・・・・・・田中芳男(加筆)

両方・・・裏界線・・・・・・・裏界線(新規)

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ウィキペディア記事「裏界線」を作成する

裏界線グループは6人。各グループには運営側から図書館員または宮澤さん/諸田さんが入ってサポートしており、裏界線グループでは関口さんが情報収集をアシストしてくださった。まずは全員で裏界線に関する文献に目を通し、裏界線について文献でどんな言及がなされているかを確認する。学芸出版社が刊行している書籍、大火後の復興計画書、裏界線を取り上げた卒業論文、裏界線についての自費出版のイラスト集などの記載事項を共有し、その後セクションの構成を考えた。

裏界線の定義は難しいが、ざっくり言うと「飯田市に存在する複数の路地を総称する固有名詞」だと考えた。寺社仏閣や施設であれば似たような記事の構成を真似すればいいが、裏界線の場合はそれができない。文献に目を通した印象から、「歴史」と「特徴」というセクションを作成することにした。

ウィキペディアの編集が初めての4人は、「歴史」セクションの担当、「特徴」セクションの担当に2人ずつ分かれ、セクションごとに1台のパソコンで文章を打ち込んだ。まずはテキストエディタ(Word)で下書きを作成し、ある程度文章が出来上がったらウィキペディア記事「裏界線」に組み込む形を取った。私は「歴史」セクションにも「特徴」セクションにも入らず、次の3つの作業を行った。百科事典で重要なのはなんといっても文章だが、写真や地図を掲載することで文章を引き立たせたい。

①枠組みの作成

記事の核となる文章は4人に任せて、インフォボックス、テンプレート、セクション見出し、Wikimedia Commonsへのリンク、カテゴリなど、文章以外の細々とした作業を担当した。裏界線の編集履歴の初版に相当する編集。

②図の追加

地理に関する項目には必ず地図を入れたい。飯田市公式サイトに掲載されている図を参考に、OpenStreetMapを基に裏界線の所在地図を作成して右上に掲載した。飯田市公式サイトには橋南地区の裏界線しか掲載されていないが、実際には橋北地区にも裏界線があり、この所在地図は改訂が必要。欲を言えば、掲載した裏界線の写真から所在地図にリンクを飛ばしたい。

③写真の追加

橋南地区で撮影した裏界線の写真を3枚掲載した。イベント開始前に撮った写真が2枚、橋南コースで歩いた際の写真が1枚。1枚5MBくらいのオリジナルサイズだとアップロード完了までに1時間以上かかりそうだったので、1枚500KBまで縮小してからアップロードし、後日オリジナルサイズの画像をアップロードしなおしている。イベント終了後には宮澤さんが橋北コースにある裏界線の写真を掲載してくれた。

裏界線の写真だけでなく、飯田大火の写真、りんご並木の写真も掲載した。飯田大火の写真は『飯田・下伊那の100年』(郷土出版社、1992年)に掲載されていたもの。もともと飯田大火の写真はWikimedia Commonsに1枚もなかったが、現代の飯田におけるターニングポイントとなった出来事ということで、郷土系の写真集には数多く掲載されている。紙の写真集の中に埋もれさせておくのはもったいない。飯田大火は1947年の出来事なので、日本国の著作権法においてはすでに著作権が切れている。

りんご並木の写真はWikimedia Commonsに1枚しかなかった。飯田を象徴する場所なのに1枚しかないのは寂しいので、記事に使用した写真以外にも何枚かWikimedia Commonsにアップロードしている。いろんな方がいろんな場所でいろんな時期に撮った写真をWikimedia Commonsに集めたい。

 

できあがった記事「裏界線 - Wikipedia」を見てみる。特徴節はやや雑多な内容なので文章をこまめに区切り、歴史節は時系列に沿った文章を中心にして箇条書きを組み合わせている。そこに大火時の写真や現代のりんご並木の写真、裏界線の写真集などが加わって、メリハリのある記事になっていると思う。

大火時には路地がなかったことでどのような問題があったのか、設置された裏界線は実際に防火帯や生活道路として役に立っているのか、裏界線の土地の権利者はどうなっているのかなど、まだまだ書き足せることはありそう。都市計画の作成時にはすでに「裏界線」という言葉が使われていたが、裏界線が何年に完成したのかは結局わからず、また完成後の歩みもわからずじまいだった。

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(写真)裏界線グループの作業風景。

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(写真)ウィキペディア記事「裏界線」のスクリーンショット

 

 

ウィキペディアタウンをウィキペディアンの立場から考える

ウィキペディアの利用者ページにまとめている記録によると、私がこれまでに参加したウィキペディアタウンは10回を超えているようだ。オープンデータ京都実践会が主催したイベントへの参加がもっとも多く、それ以外には図書館/博物館(瀬戸内・高遠・東工大・東久留米・県立長野・鶴舞)、市民団体(精華町・街道・豊橋/田原・和歌山・大原・丸亀)、行政(掛川)が主催したイベントに参加してきた。とはいえ、図書館がメインで市民団体がフォロー、もしくは市民団体がメインで図書館がフォローというように、いくつかの団体が絡み合っていたほうが充実したイベントになるし、どれか一つだけで開催された例は多くない。

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(写真)飯田でいちばん有名な焼肉店らしい「徳山」。楽しい懇親会だった。

 

ウィキペディアタウンをMLAの立場から考える « マガジン航[kɔː]
イベント後の7月11日、京都府立図書館の福島さんがマガジン航に「ウィキペディアタウンをMLAの立場から考える」という文章を寄稿された。「資料がどのように利用されるかを目撃し、また利用のシーンにも直接介入する」「著作者の権利に配慮しつつも、著作権法をどのように理解・運用すれば社会の発展に寄与することが可能か、自らの問題として考える深刻なきっかけが与えられる」とのことで、MLA関係者はウィキペディアタウンに参加して学びましょうと締めくくっている。

ウィキペディアタウンに参加するようになって、ウィキペディアは「百科事典を作るプロジェクト」であるという思いが強くなっている。ウィキペディアタウンに参加したことのあるMLAの方にとっては何を言っているのかわからないかもしれないが、「プロジェクト」であるということを理解しているウィキペディアンは多くないように感じる。

ウィキペディアタウンに参加するようになって、「プロジェクトの中で自分は何ができるか」という視点を持つようになった。MLA関係者と日々交流してウィキペディアタウンで講師まで務めるくさかさんやらっこさんと同じことはできない。地方病や高尾山古墳のように優れた記事で読んだ方に影響を与えるさかおりさんやのりまきさんと同じこともできない。さて、私はいったい何ができるのだろう。

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カタルーニャ地方の象徴であり誇りであるカタラン・ロバ - Wikipedia

 

 

Wikipedia Town in 飯田に参加する(1)

「Wikipedia Town in 飯田」開催のお知らせ | 飯田市立図書館

2017年7月8日(土)、長野県飯田市飯田市立中央図書館で開催されたWikipedia Town in 飯田」に参加した。

 

飯田市を訪れる

 愛知県の尾張地方と長野県の伊那地方は中央道で結ばれている。愛知県の東三河地方と伊那地方はJR飯田線で結ばれている。一方で愛知県の西三河地方と伊那地方の間には奥三河高原と呼ばれる未知の土地が広がっており、西三河地方に住む私は伊那谷に対して距離を感じていた。

2016年3月にはWikipedia TOWN × 高遠ぶらりに参加したが、イベント開催日の前後には松本に泊まった。2017年1月にも第10回 Wikipedia Town × 高遠ぶらりに参加する - 振り返ればロバがいるに参加。当日朝に名古屋駅を出る高速バスではイベント開始に間に合わないため、この日が初対面の宮澤優子さんに飯田から高遠まで運んでもらった。やはり高遠は遠いと思ったものの、飯田までの高速バスは毎時1本あり、わずか2時間でたどり着けることがわかった。

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 (写真)飯田駅飯田駅から電車に乗ったことはあるが降りたことはない。

 

飯田市を歩く

名古屋=飯田便の第1便は7時ちょうどに名鉄バスセンターを出て、8時54分にJR飯田駅に着く。終点の飯田商工会館まで乗りとおす中村さんを横目に飯田駅でバスを降り、ぶらぶらと歩いて図書館に向かった。

お目当ては飯田センゲキシネマズ - Wikipedia飯田トキワ劇場 - Wikipedia。いずれも映画黄金期から60年以上営業を続けている映画館だ。センゲキシネマズがある中央通りには商業ビルが隙間なく並んでおり、映画館周辺には飲食店が密集している。街の反対側にあるトキワ劇場の周辺はやや活気がないように感じる。八十二銀行飯田支店や橋南公民館の存在から、銀座や知久町と呼ばれるこの地区がかつて賑わっていたことはわかるのだが。ただし中央通り沿いも、よく晴れた土曜日の午前9時台にしては車も歩行者も少なかった。

飯田といえばりんご並木と人形劇も欠かせない。飯田市川本喜八郎人形美術館周辺は近年に再開発が行われたらしく、小ぎれいな道路、小ぎれいなマンション、小ぎれいな商業施設、小ぎれいな横丁があった。今回のイベントで編集対象となる裏界線(りかいせん)もチェックしておく。飯田市公式サイトに全体のマップと各地の写真が掲載されているこの路地群、観光客向けに小ぎれいに整備されているかと思いきや、観光客などが歩いていると地元の方に怪訝な顔をされそうな生活道路だった。

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(図)イベント前に歩いたコース。地図はOpenStreetMapより。

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 (左)飯田市川本喜八郎人形美術館。(中央・右)りんご並木。

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 (写真)三者三様の裏界線。防火帯や避難路の役割を持つ路地。

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 (左)中央通りと飯田センゲキシネマズ。(右)飯田トキワ劇場。3スクリーンあるとは思えない間口の狭さ。

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 (写真)飯田トキワ劇場近くから川向うの鼎地区を見下ろす。これだけ飯田市中心市街地から近いのに、飯田市と鼎町の合併は1984年まで遅れた。

 

飯田市立中央図書館

今回は図書館内をゆっくり過ごす暇がなく、またコーナーごとに写真を撮る暇もなかった。雰囲気をつかむための写真だけ撮った。西側と東側それぞれから1階部分を見下して写真を取れる場所がある。東側の中2階は伊那谷河岸段丘をイメージしているのだろうか。

郷土資料室は圧巻の蔵書数。空襲を受けていない城下町という点では私が住んでいる某市と飯田市はよく似ているのに、こうもレベル差があるとは。最下段が斜めになっている書架は久々に見た。バリアフリー面でとやかく言われそうなレイアウトではあるけれど、本がぎっしり詰まった迷路のような空間はとても印象に残った。

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 Wikipedia Town in 飯田

今回のイベントのスケジュールは以下の通り。

10:00-10:15 館長挨拶・講師紹介・参加者全員自己紹介

10:15-11:00 ウィキペディアタウンの説明

11:00-12:30 「飯田おさんぽ」

12:30-13:15 昼食

13:15-13:40 図書館サイト説明・編集の注意事項説明

13:40-15:25 編集作業

15:25-16:00 成果発表・まとめ

17:00-19:00 懇親会

 

Wikipedia TOWN × 高遠ぶらり風に参加者全員が自己紹介。まちあるきで他の参加者に話しかけやすくなるかも。まちあるき時間は標準的なウィキペディアタウンの90分。この日は特に暑く、これ以上長いとつらかった。昼食は弁当を注文した方が多数。図書館の近くには昼食を取れる店があまりなく、主催者はできる限り弁当に誘導していたみたい。午後のはじまりは図書館の公式サイトの説明。図書館のPRを入れるのは今後につながってよいと思った。編集時間自体は105分。ウィキペディアタウンの平均よりやや短めかも。他のウィキペディアタウンよりやや早く、16時に終了した。1時間後の17時からは焼肉店「徳山」で懇親会。

 

飯田おさんぽ

参加者名簿によると今回の参加者数は24人で、これに講師などが加わった約30人が橋北コースと橋南コースに分かれる。ガイド役は飯田市歴史研究所や飯田市美術博物館の方が務めてくださった。

今回は飯田城城下町の痕跡をたどるまちあるき。1/2500都市計画基本図をベースに、かつて存在した堀・出丸・門の位置が書かれた地図が配布される。これによると図書館は本丸と堀の中間地点にある。裏界線を通って堀跡をめざし、Uターンして反対側の本丸跡まで歩いてから図書館に戻った。

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(図)橋南コースはだいたいこんなルート。図はOpenStreetMapより。

 

 

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(写真)図書館の脇にある飯田城桜丸御門。

 

桜丸御門(赤門)から西側に伸びている裏界線は、今回のルート上でもっとも華やかな裏界線だった。脇にはアジサイが咲き、鉢植えが置かれていた。驚いたのは駐車場の中に「歩行者通路」として裏界線が残されていた場所。裏界線とは市道扱いなのか私道扱いなのかということは聞き忘れた。

飯田城の外堀は全国的にみて早く埋められたという。遺構など残っていないと思いきや、銀座4丁目の柴田薬品横の地下駐車場は南堀の形をそのまま残しているらしい。追手町小学校の南西にも欅堀の形を残す坂と橋があった。飯田城におけるそのポイントの役割を想像し、裏界線や堀などの地形をたどるまちあるきは、寺社などのポイント数か所を訪れるまちあるきよりもずっと楽しい(※個人差があります)。図中に歩くルートも書き込まれているとよいのではないかと思った。

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(写真)裏界線を歩く。

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ブラタモリっぽい要素3連発。(左)歩行者用通路として残る裏界線。(中)外堀の形を伝える地下駐車場。(右)欅堀の形が残る坂。

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 (写真)現役で使用中の飯田市立追手町小学校 - Wikipedia。校舎と講堂は登録有形文化財。校舎は昭和初期(1929年)竣工のRC造で黒田好造設計。

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(左)飯田大火の痕跡を示すなまこ壁を撮影中の参加者。(右)柳田國男館の内部を撮影中の参加者。

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(写真)長姫神社。

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 (写真)長姫のエドヒガン。飯田市でもっとも大きな桜。

 

 

(2)につづきます。

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「高梁市立図書館」の記事を書く

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 高梁市の図書館について調べる

岡山県瀬戸内市瀬戸内市立図書館 - Wikipedia(もみわ広場)を訪れる前日、2017年2月24日に高梁市の図書館を訪れた。高梁市図書館が開館したのは2月4日。4館目のTSUTAYA図書館であり、その動向を伝える記事は全国紙にも掲載されている。

高梁市街地は中山間地域吉備高原にある盆地に広がっている。人口は約3万人であり、ピーク時と比べると半分以下となっている。駅前のアーケード商店街には人の気配がなく、昼ごはんを食べる店は見つからず、駅に直結した高梁市図書館だけが賑わっている印象だった。CCCがなぜこの町に目を付けたのか気になった。
新館が開館する前の高梁市の図書館は1人当たり貸出冊数で岡山県最下位を争っていた。高梁市の近くには大都市がなく、市街地は人家が密集する盆地にあり、市内には大学がある。潜在力は低くないように思える。さらに言えば備中松山城の城下町であり、山田方谷の出身地である。歴史と文化がある町には古くから図書館もあったのではないかと思った。
一般論として、図書館の新館開館後にウェブ検索して旧館の情報を得るのは難しい。高梁市の図書館の場合も同様であり、ウェブ検索ではほとんど何も得ることはできない。高梁市の場合はTSUTAYA図書館のインパクトの大きさも理由ではあるが、旧館が情報発信を怠っていたことも理由ではないかと思った。


2月24日に高梁市図書館を訪れた際には15の文献を閲覧してコピーを取った。これらの文献をまとめた上で岡山県立図書館にメールレファレンスを行い、その結果から成羽図書館の記述などを補完した。6月上旬にウィキペディアに作成したのが「高梁市立図書館」である。

やはりこの町には古くから優れた図書館があった。高梁中学校有終図書館は「岡山県下で2番目に設置された図書館」だという。「岡山県内の市立図書館としては岡山市立図書館に次いで蔵書数が多かった」時期もあり、1959年には「図書館の敷地と施設が岡山の女子教育発祥の地として岡山県の史跡に指定され」ている。


Wikipediaの記事の名前は「高梁市図書館」ではなく「
高梁市立図書館 - Wikipedia」だ。中身の約2/3は「歴史」についての記述であり、新館の記述はわずか1/6程度。かなり下までスクロールしないと新館の情報は出てこない。TSUTAYA図書館をキーワードにこの記事にたどり着く人にとっては期待した情報が得られない記事かもしれないが、歴史という視点で図書館を見てみるのは意外と面白い。

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 (写真)高梁市図書館が入っている建物。JR備中高梁駅直結。1階はバスセンター。

 

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 (写真)建物2階のスターバックスと観光案内所。奥は蔦屋書店と図書館部分だが境目は曖昧。

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 (写真)図書館部分で唯一撮影が許される4階の屋外展望テラス。児童書フロアが見えている。

 

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(写真)親切にも中身が取り出しやすいブックポスト。

 

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 (写真)高梁市郷土資料館と2016年閉館の高梁市立高梁中央図書館。明治時代の建築で文化財指定されている郷土資料館が隣にあることを図書館サービスに活かしていただろうか。