振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

Wikipedia Town in 飯田に参加する(2)

ayc.hatenablog.com

2017年7月8日(土)に開催された「Wikipedia Town in 飯田」。(1)の続き。長い。

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「草の根を分けても探し出す」

昼食後には少しだけ館内を歩いた。事前に入手しておいた資料によると、飯田市の図書館は1901年に飯田小学校内にできた飯田文庫にさかのぼる。1915年に飯田町に移管されて公立化し、1931年に現在地の陸軍連隊区司令部の建物に移転した。2015年には100周年記念イベントを行ったのだろうか。1980年まではこの建物を使用していたが、1981年に現行館が開館。長らく市立飯田図書館という名称だったが、1993年の自治体合併時に飯田市立中央図書館に改称した。すでに現行館の開館から36年がたっており、2,500m2という延床面積は2017年基準では広いとは言えないものの、古さや狭さは全く感じない。

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(写真)この日用意された文献。

 

午後の最初は図書館の井原さんによる公式サイトの説明。説明が堂々としていて羨ましい。飯田市立図書館公式サイトは7月1日にリニューアルし、新しいページがいくつも追加されたとか。飯田市の地域資料に関するページには、ゆかりの人物や飯田市の名所旧跡に関するブックリストが閲覧でき、裏界線に関するブックリストもまとめられている。広域検索システム「さーちしまいか」では、飯田市立図書館を含めた近隣7館と国立国会図書館デジタルコレクションの資料が一発で検索できるらしい。デジコレも一緒に検索できるのは便利そう。

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 (写真)飯田市立図書館ウェブサイトの説明。

 

続いて講師であるくさか先生のおはなし。この日、図書館の代田さんはくさか先生のことを何度も先生と呼んだ。先生はウィキペディア記事「飯田市」を例に出し、ウィキペディアとは何であるかを説明する。この記事はウィキペディア的には質の高い記事とは言えないが、外部の人間が飯田市のことをざっくりと把握したい時にウィキペディアは役に立つ、という話だった。

飯田市」という項目は英語版を含む20言語版にあり、英語話者やフランス語話者はもちろん、アラビア語話者やアルメニア語話者やセブアノ語話者だって、飯田市についての簡単な情報を母語で読むことができる。流れで編集方法の説明も。リンクの付け方や出典の付け方などは、各グループに2枚ずつプリントアウトして配布された。

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※くさか先生の画像はありません。

 

 

 この日の編集項目

飯田市立図書館のイベント告知ページでは、あらかじめ当日の編集項目が提示されていた。参加者は5項目の中から第2希望まで選んで参加申込を行い、イベント当日にはあらかじめ5つのグループにグループ分けがなされていた。

まちあるき時には5グループが2コースに分かれた。飯田城下橋北グループと喜久水酒造グループの2グループは橋北コース、田中芳男グループと喜久水酒造グループは橋南コース。裏界線は橋北地区にも橋南地区にも存在するため、裏界線グループの6人は2つのコースに分散した。

あらかじめ編集項目が決まっていたことで、まちあるきで見るべきポイントがわかりやすかった。前日までに編集項目について調べておくこともでき、実際に私は豊川市立図書館と豊橋市立図書館で南信関連資料をパラパラとめくった。この方法を取らないウィキペディアタウンもある。オープンデータ京都実践会が行うウィキペディアタウンでは、当日のまちあるきで興味を引いたポイントから編集項目を選んでもらうべく、各参加者の編集項目を事前に決めることを避ける場合がある。

 

午後の編集作業では5つのグループに分かれたが、イベント中に編集された項目は5記事ではなく7記事だった。喜久水酒造グループ・田中芳男グループ・裏界線グループは編集する項目が明確だったが、飯田城下橋北グループと飯田城下橋南グループは編集項目を決めるところから始めたらしい。参加者の興味次第で柔軟に編集項目を決定できるように、主催者はあえて曖昧なグループ名にしたのかもしれない。

近世の歴史(飯田城・普門院跡・長姫神社)、近現代の歴史(追手町小学校)、地理(裏界線)、人物(田中芳男)、文化(喜久水酒造)と、今回の編集項目はジャンルも変化に富んでいた。一般論としてはジャンルは絞った方がいい。説明するまちあるきガイドも文献を集める司書も楽だし、参加者にとっても内容を理解するのが楽だし、イベントの主題がぼやけない。

今回の5グループが編集した7記事のうち、飯田城や田中芳男はイベント時点ですでにボリュームのある記事で、文章を加筆するのは難しかった。「ウィキペディアに記事があるかどうか」「ウィキペディアの記事が充実しているかどうか」という点を考慮して編集項目を選ぶほうが無難ではあり、くさかさん以外の講師はそうすることが多いが、今回は飯田での初開催なので、主催者が参加者に書いてもらいたい項目を優先したのだろう。

 

コース  グループ      実際の編集項目

橋北・・・飯田城下橋北・・・・飯田城(加筆)、普門院跡(新規)

橋北・・・喜久水酒造・・・・・喜久水酒造(新規)

橋南・・・飯田城下橋南・・・・追手町小学校(加筆)、長姫神社(新規)

橋南・・・田中芳男・・・・・・田中芳男(加筆)

両方・・・裏界線・・・・・・・裏界線(新規)

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ウィキペディア記事「裏界線」を作成する

裏界線グループは6人。各グループには運営側から図書館員または宮澤さん/諸田さんが入ってサポートしており、裏界線グループでは関口さんが情報収集をアシストしてくださった。まずは全員で裏界線に関する文献に目を通し、裏界線について文献でどんな言及がなされているかを確認する。学芸出版社が刊行している書籍、大火後の復興計画書、裏界線を取り上げた卒業論文、裏界線についての自費出版のイラスト集などの記載事項を共有し、その後セクションの構成を考えた。

裏界線の定義は難しいが、ざっくり言うと「飯田市に存在する複数の路地を総称する固有名詞」だと考えた。寺社仏閣や施設であれば似たような記事の構成を真似すればいいが、裏界線の場合はそれができない。文献に目を通した印象から、「歴史」と「特徴」というセクションを作成することにした。

ウィキペディアの編集が初めての4人は、「歴史」セクションの担当、「特徴」セクションの担当に2人ずつ分かれ、セクションごとに1台のパソコンで文章を打ち込んだ。まずはテキストエディタ(Word)で下書きを作成し、ある程度文章が出来上がったらウィキペディア記事「裏界線」に組み込む形を取った。私は「歴史」セクションにも「特徴」セクションにも入らず、次の3つの作業を行った。百科事典で重要なのはなんといっても文章だが、写真や地図を掲載することで文章を引き立たせたい。

①枠組みの作成

記事の核となる文章は4人に任せて、インフォボックス、テンプレート、セクション見出し、Wikimedia Commonsへのリンク、カテゴリなど、文章以外の細々とした作業を担当した。裏界線の編集履歴の初版に相当する編集。

②図の追加

地理に関する項目には必ず地図を入れたい。飯田市公式サイトに掲載されている図を参考に、OpenStreetMapを基に裏界線の所在地図を作成して右上に掲載した。飯田市公式サイトには橋南地区の裏界線しか掲載されていないが、実際には橋北地区にも裏界線があり、この所在地図は改訂が必要。欲を言えば、掲載した裏界線の写真から所在地図にリンクを飛ばしたい。

③写真の追加

橋南地区で撮影した裏界線の写真を3枚掲載した。イベント開始前に撮った写真が2枚、橋南コースで歩いた際の写真が1枚。1枚5MBくらいのオリジナルサイズだとアップロード完了までに1時間以上かかりそうだったので、1枚500KBまで縮小してからアップロードし、後日オリジナルサイズの画像をアップロードしなおしている。イベント終了後には宮澤さんが橋北コースにある裏界線の写真を掲載してくれた。

裏界線の写真だけでなく、飯田大火の写真、りんご並木の写真も掲載した。飯田大火の写真は『飯田・下伊那の100年』(郷土出版社、1992年)に掲載されていたもの。もともと飯田大火の写真はWikimedia Commonsに1枚もなかったが、現代の飯田におけるターニングポイントとなった出来事ということで、郷土系の写真集には数多く掲載されている。紙の写真集の中に埋もれさせておくのはもったいない。飯田大火は1947年の出来事なので、日本国の著作権法においてはすでに著作権が切れている。

りんご並木の写真はWikimedia Commonsに1枚しかなかった。飯田を象徴する場所なのに1枚しかないのは寂しいので、記事に使用した写真以外にも何枚かWikimedia Commonsにアップロードしている。いろんな方がいろんな場所でいろんな時期に撮った写真をWikimedia Commonsに集めたい。

 

できあがった記事「裏界線 - Wikipedia」を見てみる。特徴節はやや雑多な内容なので文章をこまめに区切り、歴史節は時系列に沿った文章を中心にして箇条書きを組み合わせている。そこに大火時の写真や現代のりんご並木の写真、裏界線の写真集などが加わって、メリハリのある記事になっていると思う。

大火時には路地がなかったことでどのような問題があったのか、設置された裏界線は実際に防火帯や生活道路として役に立っているのか、裏界線の土地の権利者はどうなっているのかなど、まだまだ書き足せることはありそう。都市計画の作成時にはすでに「裏界線」という言葉が使われていたが、裏界線が何年に完成したのかは結局わからず、また完成後の歩みもわからずじまいだった。

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(写真)裏界線グループの作業風景。

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(写真)ウィキペディア記事「裏界線」のスクリーンショット

 

 

ウィキペディアタウンをウィキペディアンの立場から考える

ウィキペディアの利用者ページにまとめている記録によると、私がこれまでに参加したウィキペディアタウンは10回を超えているようだ。オープンデータ京都実践会が主催したイベントへの参加がもっとも多く、それ以外には図書館/博物館(瀬戸内・高遠・東工大・東久留米・県立長野・鶴舞)、市民団体(精華町・街道・豊橋/田原・和歌山・大原・丸亀)、行政(掛川)が主催したイベントに参加してきた。とはいえ、図書館がメインで市民団体がフォロー、もしくは市民団体がメインで図書館がフォローというように、いくつかの団体が絡み合っていたほうが充実したイベントになるし、どれか一つだけで開催された例は多くない。

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(写真)飯田でいちばん有名な焼肉店らしい「徳山」。楽しい懇親会だった。

 

ウィキペディアタウンをMLAの立場から考える « マガジン航[kɔː]
イベント後の7月11日、京都府立図書館の福島さんがマガジン航に「ウィキペディアタウンをMLAの立場から考える」という文章を寄稿された。「資料がどのように利用されるかを目撃し、また利用のシーンにも直接介入する」「著作者の権利に配慮しつつも、著作権法をどのように理解・運用すれば社会の発展に寄与することが可能か、自らの問題として考える深刻なきっかけが与えられる」とのことで、MLA関係者はウィキペディアタウンに参加して学びましょうと締めくくっている。

ウィキペディアタウンに参加するようになって、ウィキペディアは「百科事典を作るプロジェクト」であるという思いが強くなっている。ウィキペディアタウンに参加したことのあるMLAの方にとっては何を言っているのかわからないかもしれないが、「プロジェクト」であるということを理解しているウィキペディアンは多くないように感じる。

ウィキペディアタウンに参加するようになって、「プロジェクトの中で自分は何ができるか」という視点を持つようになった。MLA関係者と日々交流してウィキペディアタウンで講師まで務めるくさかさんやらっこさんと同じことはできない。地方病や高尾山古墳のように優れた記事で読んだ方に影響を与えるさかおりさんやのりまきさんと同じこともできない。さて、私はいったい何ができるのだろう。

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カタルーニャ地方の象徴であり誇りであるカタラン・ロバ - Wikipedia