振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

旧松岡旅館を訪れる

(写真)旧松岡旅館。

2022年(令和4年)から2023年(令和5年)にかけて、名古屋市中村区の大門界隈(大門地区)を訪れました。戦前に中村遊廓が、戦後に赤線の名楽園があった地区であり、2022年(令和4年)4月には旧松岡旅館を見学しています。

 

1. 中村遊廓と旧松岡旅館

2022年(令和4年)4月30日、愛知県名古屋市中村区の大門界隈(中村遊廓跡)で開催された大ナゴヤ大学のまちシル「100年前に造られた大歓楽街『中村遊廓』。その歴史と現在の姿を知ろう!」(まちあるき)に参加。2022年(令和4年)1月に『東海遊里史研究 1』を刊行されたことぶきさんのガイドで、1923年(大正12年)の中村遊廓完成時の妓楼建築である旧松岡旅館(遊廓時代は長寿楼、現在はデイサービスセンターの松岡健遊館本店)を見学しました。

2023年(令和5年)10月29日、やっとかめ文化祭DOORS「中村遊廓と名楽園 〜開廓から100年!史料からたどる遊興街の姿〜」(座学)に参加。東海遊里史研究会とことぶきさんと春は馬車に乗ってさんによる講義であり、大門地区内の開運ビルにある開運ホールで開催されています。同年8月には旧松岡旅館の解体が始まっており、1年半前に内部を見学した建物はほぼ更地となっていました。

(図)「中村旭廓内明細図」『歓楽の名古屋』1937年。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる『名古屋の古い町街の面影』志賀の舎、1965年に同じ図が掲載されている。

 

以下の写真は2016年(平成28年)に写した松岡健遊館です。当時は正面に旧料亭稲本(遊廓時代は稲本楼)の建物もありましたが、2018年(平成30年)には旧料亭稲本が取り壊されています。2022年(令和4年)には長久手市愛・地球博記念公園ジブリパークが開業していますが、旧料亭稲本の楼門のみはジブリパークに移築保存されています。

(写真)2016年の旧松岡旅館。

 

2023年(令和5年)10月29日に旧松岡旅館の解体現場を訪れた際には松岡健遊館の看板と塀の一部が残っていました。看板と塀は残すのかと思いましたが、11月初頭にはこれらもなくなって完全に更地になっていました。

(左)2023年10月末の解体現場。(右)2023年11月初頭の解体現場。

 

2. 旧松岡旅館を訪れる

旧松岡旅館(長寿楼)の建物は複数の妓楼からなります。南側入口には松岡西店という看板が掲げられていますが、これは1957年(昭和32年)の売春防止法施行後に料理旅館に転業した際の屋号です。松岡西店は2001年(平成13年)に廃業し、北側の一部がデイサービスセンターの松岡健友館となりました。

 

館内マップを見ると、旧松岡旅館の2階には、坪庭の北側に「きく」「さくら」「つつじ」、坪庭の南側に「梅」「松」「桐」「つる」「若葉」、坪庭の西側に「福寿」という部屋があることが分かります。

 

2.1 松欅殿(大広間)

旧松岡旅館の南側入口から入った場所の2階にあるのが松欅殿と呼ばれる大広間です。

(写真)松欅殿。

(写真)松欅殿。

(写真)松欅殿。

 

2.2 坪庭(中庭)

建物の中央部には坪庭と呼ばれる中庭があり、各部屋からは庭を眺めることができるようです。

(写真)坪庭と建物東側。

(写真)ステンドグラス、青色のタイル、スクラッチタイルが用いられた洋風の窓。

 

2.3 廊下

(写真)廊下。

(写真)廊下。

(写真)廊下。

 

(写真)廊下のディテール。

(写真)廊下のディテール。

(写真)廊下のディテール。

(写真)廊下のディテール。

(写真)廊下のディテール。

(写真)廊下のディテール。

(写真)廊下のディテール。

 

2.4 部屋

(写真)部屋の入口。

(写真)部屋の入口。

(写真)部屋の内部。

(写真)部屋の内部。

(写真)部屋の内部。

 

(写真)部屋のディテール。

(写真)部屋のディテール。