振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

刈谷市の医王寺を訪れる

(写真)薬師堂。

 

2023年(令和5年)6月、愛知県刈谷市高津波町の医王寺を訪れました。

 

1. 医王寺を訪れる

1.1 医王寺の境内

医王寺 (刈谷市) - Wikipediaは愛知県刈谷市高津波町2丁目93にある曹洞宗の寺院。山号は宝勝山。高津波集落の南端にあり、境内からはJR東海道本線が良く見えます。2021年(令和3年)には医王寺のWikipedia記事を作成しています。

(写真)本堂。

(写真)山門。

(写真)山門の飾り瓦。(右)琴高仙人(鯉乗り仙人)。

 

医王寺本堂の西側には薬師堂があり、2体の鬼瓦が安置されています。大きなほうは旧本堂鬼瓦であり、文久3年(1863年)から1995年(平成7年)まで本堂に設置されていたようです。

(写真)1863年製造の旧本堂鬼瓦。

 

小さなほうの鬼瓦の背面には文字が刻まれており、文化12年(1815年)9月に本刈谷村の瓦師である井野清一によって製作されたようです。大きなほうの鬼瓦とは製作年が異なりますが、どこに設置されていた鬼瓦でしょうか。

慶長年間(1596年~1615年)、刈谷城主(※刈谷藩設置前)の水野忠重の時代に薬師堂が置かれたのが医王寺の始まりとされます。現在は本堂の西側に薬師堂があり、薬師如来像と思われる仏像が安置されています。

(写真)1815年製作の鬼瓦。

 

1.2 竹香田部井君之碑

医王寺本堂の前には「竹香田部井君之碑」があります。高津波村出身の教育者である田部井鉚太郎 - Wikipediaを顕彰する石碑であり、1921年(大正10年)に愛知県教育会によって建立されました。田部井鉚太郎の弟もやはり教育者の田部井勝蔵 - Wikipediaであり、田部井勝蔵は豊橋市長などを務めています。

2018年(平成30年)には田部井勝蔵のWikipedia記事を、この2023年(令和5年)6月には田部井鉚太郎のWikipedia記事を作成しています。

(写真)竹香田部井君之碑。

 

竹香田部井君之碑

 

愛知県知事正四位勲三等宮尾舜治題額

君名劉称鉚太郞竹香其号旧刈谷藩士田部井清蔵長子也文久二年四月生於江

戸藩邸夙入愛知県師範学校卒其業奉職小学者廿一年明治丗四年任富山県

学無幾退職移居東京四十年来住名古屋為県教育会雑誌編集員尋有内命従県

史編纂之事效績珠顕大正七年九月九日病歿其僑居年五十七葵刈谷町医王寺

先塋次君為人襟懐瀟灑善詩書所著中京画談賜 天覧之栄云配若林氏長子重

辰嗣家有弟曰勝蔵亦従初等教育多年頗有名声頃者県教育会員胥謀建碑其墓

側請文余余與君有親交義不可辭乃為之交繋以銘銘曰

 進則授徒 退則修史 闡幽育才 其功偉矣 餘事画談 衆工所喜

 甞賜 叡覧 乃貴洛紙 嗟君一世 洵不徒爾 我勒諸石 後人来視

大正十年四月             正五位勲五等三浦渡世平撰

                   正八位勲八等高須履祥書