(写真)永坂杢兵衛の獅子留蓋瓦。
2023年(令和5年)6月、愛知県刈谷市熊野町の安養寺を訪れました。
1. 安養寺を訪れる
1.1 安養寺の境内
刈谷市熊野町6丁目25にある安養寺 (刈谷市) - Wikipediaは真宗大谷派の寺院。山号は海上山。本尊は阿弥陀如来です。この2023年(令和5年)6月にはWikipedia記事を作成しました。
(写真)本堂。
(写真)本尊の阿弥陀如来。
(左)山門。(右)4代目吉良仁吉の墓。
1.2 永坂杢兵衛の獅子留蓋瓦
愛知県高浜市や碧南市は三州瓦の産地として知られていますが、碧南市棚尾の著名な瓦職人の名跡として永坂杢兵衛 - Wikipediaがあります。天明8年(1788年)に2代目永坂杢兵衛が瓦屋を創業し、7代目永坂杢兵衛の時代の1944年(昭和19年)に休業を余儀なくされるまで、約160年間に渡って瓦を製造していた家です。この2023年(令和5年)6月にはWikipedia記事を作成しました。
(写真)永坂杢兵衛の獅子留蓋瓦。
安養寺の墓地の入口には旧本堂の鬼瓦と留蓋瓦が置かれていますが、獅子の留蓋瓦には「棚尾村 瓦師杢兵衛作」の文字が刻まれており、永坂杢兵衛の作品であることが分かります。この留蓋瓦に製作年は刻まれていませんが、もし天保3年(1833年)の本堂再建時の物であれば、3代目永坂杢兵衛の作品ということになります。
高浜市やきものの里かわら美術館には3代目が文久3年(1863年)に製作した「獅子文留蓋瓦(阿・吽)」が展示されており、安養寺の留蓋瓦も美術館に収蔵されてもおかしくないかもしれません。
(写真)永坂杢兵衛の獅子留蓋瓦。
(写真)永坂杢兵衛の獅子留蓋瓦。
安養寺の山門にも獅子の留蓋瓦が乗っています。後ろ足を立てた姿は旧本堂の獅子と同じであり、波打つような尻尾の造形も似ていますが、永坂杢兵衛の作なのかどうかはわかりません。
(写真)山門の獅子留蓋瓦。
1.3 石碑「河目正平先生之碑」
墓地の入口には石碑「河目正平先生之碑」があります。碧海郡刈谷町(現・刈谷市)出身の童画家として河目悌二 - Wikipedia(1889年-1958年)がいますが、河目正平は河目悌二の父。刈谷藩の藩校である文礼館の教員などを務めています。
(写真)河目正平先生之碑。
(写真)河目正平先生之碑。
河目正平先生之碑
先生幼字幸太郎冠而稱源吾後改云正平皇考緯多内先生以嘉永二年十一月
十二日生於三河国碧海郡熊村明治三年七月奉刈谷藩命遊学于大垣藩帰而
後任刈谷学校転教授於熊村学校後徒歴勤於高浜半城土野田諸校明治二十
三年八月六日歿享年四十又二有二男二女先生為人端正鲠直有国士之風又
暁尊王之大義喜談時事子弟知其所嚮郷民徳之至於今嘖嘖称之不巳今茲門
人等相議建碑於安養寺盖熊村小学之所在而当時以其庫裡坊舎為教黌者與
先生宿縁不浅庶幾乎慰先生之霊矣嗚呼如先生者所謂死而可祀于社者乎
大正十一年八月 門人等謹撰 中村春堂棋書并題額
(要約)
嘉永2年(1849年)11月12日に三河国碧海郡熊村に生まれた。幼名は幸太郎であり、後に源吾と称し、やがて正平に改めた。1870年(明治3年)7月に刈谷藩の命で大垣藩に遊学し、明治期には刈谷学校、熊村学校、高浜学校、半城土学校、野田学校などで教員を務めた。1890年(明治23年)8月6日に40歳で死去した。二男二次があった。1922年(大正11年)8月、門人らによって石碑が建立された。