(写真)坂手島の階段路地。
2021年(令和3年)11月、三重県鳥羽市の坂手島を訪れました。かつて坂手島に映画館はありませんでした。
1. 坂手島を訪れる
1.1 坂手港
伊勢湾に浮かぶ坂手島は鳥羽市街地から約600mの距離にあり、鳥羽市の有人島4島の中では最も本土に近い島です。鳥羽マリンターミナルから鳥羽市営定期船に乗船し、わずか10分で坂手港に到着します。面積は0.51km2、住民基本台帳に基づく2021年(令和3年)3月の人口は289人。
往路は1985年(昭和60年)建造の「第二十五鳥羽丸」、復路は2009年(平成21年)建造の「かがやき」でした。第二十五鳥羽丸には初乗船ですが、現役の伊勢市営定期船の中では最も建造年が古い船です。
(写真)鳥羽市営定期船の「かがやき」。復路で乗船。
(左)「かがやき」の船内。(右)鳥羽市営定期船の「第二十五鳥羽丸」。往路で乗船。
(写真)坂手島の島内マップ。
(写真)坂手港。
1.2 坂手島の街並み
島内マップを見ると坂手島の道路は複雑に入り組んでいるように見えますが、集落中心部は "海岸通り" と "山通り" の2本が、集落西部、集落東部、集落東端部は "海岸通り" が軸となり、それ以外は基本的にバイクの通れない狭い路地です。
集落中央部の高台には若宮神社があり、その脇から坂手港に流れている水路が集落を二分しています。集落中央部にはちょっとした広場となっている空間があり、広場の北側には江戸川乱歩の妻である村山隆子の生家(村万商店)がありました。
ペンキでピンク色に塗られた外観が印象的ですが、見学施設ではないので写真だけ。村万商店の周囲にはペンキで水色や白色に塗られた民家もあります。先志摩半島では民家の外壁を色とりどりのペンキで塗る慣習が顕著であり、志摩市志摩町御座などの集落が印象的だった記憶があります。
(写真)村万商店。江戸川乱歩の妻である村山隆子の生家。
(写真)階段路地。
(写真)階段路地。
(写真)坂の上から見た集落。右上は林昌寺。
(写真)坂手島の街並み。集落東部(JF鳥羽磯部坂手支所より東)。
(写真)坂手島の街並み。集落東端部の新開地。
坂手島に観光スポットと言える施設はありませんが、地名が書かれたとっくり、タイルの流し台、煉瓦の井戸、手押し車、廃棄された漁具など、離島・漁村らしい光景がありました。
(写真)坂手島の景観。(左)鳥羽港と坂手村のとっくり。(右)よくわからない陶器。
(写真)坂手島の景観。(左)モザイクタイルの流し台。(右)煉瓦の井戸。
(写真)坂手島の景観。(左)モザイクタイルの流し台。(右)手押し車。
(写真)坂手島の景観。(左)浮きとロープ。(右)タコつぼ。
1.3 坂手島の産業
坂手島では答志島や菅島ほどが漁業が盛んではないようで、本土に通勤する住民が多いようです。かつては浅間山全体に段々畑が築かれていたようで、1960年代の航空写真を見ると斜面にびっしりと畑が写っており、天保の大飢饉で島民の半数近くが餓死した悲惨な出来事を踏まえて築かれた畑だそうです。
より面積の大きな答志島や菅島には段々畑はほとんど見られませんが、面積が坂手島に似通った神島もかつては段々畑の島でした。神島は島を一周する山道があり、かつての畑の痕跡を探しやすいです。
(写真)1960年代と現在の航空写真。地理院地図
1980年代の航空写真にも段々畑が写っており、また1983年(昭和58年)刊行の『角川日本地名大辞典』にも段々畑に関する記述があります。現在の坂手島では家庭菜園より大きな規模の畑は見られず、航空写真を見ると畑の跡は山林と同化していますが、地形図では現在でも(針葉樹林や広葉樹林ではなく)荒地の記号が見られ、かつて浅間山の斜面が畑地だった痕跡がうかがえます。
(写真)1980年代の航空写真。まだ段々畑が見られる。地理院地図
(地図)現在の地形図。地図記号「荒地」が見られる。地理院地図
(写真)かつて斜面に段々畑が築かれていた浅間山。
1.4 坂手島の神社・小学校
(写真)坂手島の鎮守である若宮神社。
(写真)若宮神社の拝殿。
(写真)鳥羽市立坂手小学校。2009年休校、2012年閉校。
(写真)坂手小学校の二宮尊徳像。