振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

答志島の映画館

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(地図)鳥羽市街地と離島の絵図。左上が答志島。『鳥羽市勢要覧 1956年度版』鳥羽市役所、1957年。

2020年(令和2年)12月、三重県鳥羽市の答志島を訪れました。かつて答志島には「答志中央劇場」、「安盛座」(答志劇場)、「桃取文化センター」の3館の映画館がありました。「答志島を訪れる」を分割しました。

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1. 文献調査

1.1 映画館名簿

各年版の『映画年鑑 別冊 映画便覧』(時事通信社)には、"答志中央劇場"、"安盛座"、"答志劇場"、"答志東映劇場"、"桃取文化センター"という5つの名称の映画館が登場します。安盛座/答志劇場/答志東映劇場が同一施設だと推測すると、「桃取文化センター」「安盛座」「答志中央劇場」の3館が存在したことになります。

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(写真)答志劇場と答志中央劇場が掲載されている1960年の映画館名簿。『映画便覧 1960』時事通信社、1960年。

 

1.2 住宅地図

三重県立図書館が所蔵する住宅地図で最も古いのは1972年(昭和47年)の『ゼンリン住宅地図 鳥羽市・志摩郡』(善隣出版社)ですが、答志島の映画館は掲載されていません。

鳥羽市立図書館は5年古い1967年(昭和42年)の『鳥羽市住居表示案内図』(日本住宅地図出版事業協同組合)を所蔵しています。閉館から数年経っていると思われる「中央劇場 浜崎ミツエ 石黒」と「答志劇場 稲葉文雄」が掲載されており、桃取文化センターは掲載されていません。「答志中央劇場」は現在の食料雑貨店 八百安の場所、「答志劇場」は現在の民宿旅館の裏手付近だと判断しましたが、距離や方角が正確でない地図のため、現地で聞き取り調査を行う必要があると感じました。

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(写真)答志座と中央劇場が掲載されている1955年の鳥羽市勢要覧。『市勢要覧 昭和三十年度版』鳥羽市、1955年。

 

2. 答志島の映画館

2.1 桃取文化センター(1963年頃-1965年頃)

所在地 : 三重県鳥羽市桃取町248(1964年・1965年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1965年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「桃取文化センター」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。答志島の桃取地区。

1964年と1965年の映画館名簿のみに登場する映画館です。1964年の映画館名簿によると、経営者は尾崎楠太郎、支配人は尾崎多嘉子、木造平屋建、定員150、邦画を上映。今回は桃取地区を訪れていないので場所を特定できていません。桃取町248という番地には民家があるようですが、この場所が桃取文化センターの跡地だとは断定できません。

 

2.2 答志中央劇場(1959年頃-1960年代中頃)

所在地 : 三重県鳥羽市答志町(1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「答志中央劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が浜崎みつえ、木造平屋建、100席、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は食料雑貨店「八百安」。答志島の答志地区。

1964年の映画館名簿によると、経営者・支配人ともに浜崎みつえ、木造平屋建、定員100、邦画を上映。住宅地図から答志中央劇場跡地と推定した食料雑貨店 八百安で店番をしていた女性(50代?)に聞いてみると、八百安の"奥さん"に電話してくれました。「確かに八百安の場所には映画館があった。中央劇場という名前だった」とのこと。

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(写真)答志中央劇場跡地にある八百安。

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(地図)現在の答志中央劇場付近の住宅地図。中央左に八百安。

 

2.3 安盛座(1955年頃-1965年頃)

所在地 : 三重県鳥羽市答志町(1965年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「安盛座」。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「答志劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が浜口与作、木造平屋建、120席、邦画を上映。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「答志東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「民宿旅館しま」南東の民家。答志島の答志地区。

1964年の映画館名簿によると、経営者・支配人ともに稲沢文雄、木造平屋建、定員200、邦画を上映。八百安の"奥さん"によると、「答志島には中央劇場のほかに安盛座(あんせいざ)もあった。現在の民宿旅館しまの裏手、"まさよしまる"がある場所にあった」とのこと。答志島にあった映画館が2館だったことがはっきりしました。"まさよしまる"というのは安盛座跡地に暮らす方が所有する漁船の名前でしょうか。

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(写真)安盛座跡地に近い民宿旅館しま。右手奥に映画館があったと思われる。

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(地図)現在の答志劇場付近の住宅地図。中央下に民宿旅館しま。

 

答志島にあった映画館について調べたことは「三重県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(三重県版)」にマッピングしています。

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