振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

武豊町の映画館

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(写真)中定商店。

2021年(令和3年)9月、愛知県知多郡武豊町を訪れました。かつて武豊町には映画館「武豊劇場」がありました。「武豊町を訪れる」と「武豊町立図書館を訪れる」からの続きです。

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1. 武豊町の映画館

1.1 大黒座/武豊劇場(戦前-1964年頃)

所在地 : 愛知県知多郡武豊町大足堀割46(1964年)
開館年 : 1945年以前
閉館年 : 1964年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「武豊劇場」。1960年の映画館名簿では「武豊映画劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「武豊劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石惣石材店」。最寄駅はJR武豊線武豊駅。

各年版の映画館名簿によると、武豊劇場の閉館は1964年(昭和39年)頃。まだ武豊町の住宅地図は作成されていない年代です。

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(写真)武豊劇場が掲載されている映画館名簿。『映画便覧 1964』時事通信社、1964年。

 

2019年(令和元年)に武豊町が発行した『武豊町制65周年記念誌』には「武豊ノスタルジア」という特集があり、武豊町民の思い出話とその地点の現在の写真が掲載されています。この特集の中では武豊劇場について語っている方がおり、映画館名簿以外で武豊劇場に言及している唯一の文献かもしれません。

この方によると戦前は大黒座と呼ばれ、戦後に武豊劇場に改称したようです。また、武豊劇場は現在のユタカフーズ堀割寮の場所にあったとのことです。

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(写真)武豊劇場に言及している『武豊町制65周年記念誌』武豊町、2019年。

 

1932年(昭和7年)の『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』を見てみると、豊石神社の北西、稲荷神社の北に大黒座が描かれていました。

(地図)『大日本職業別明細図 愛知県 第295号』東京交通社、1932年。

 

2019年(令和元年)9月に武豊町歴史民俗資料館で武豊劇場について尋ねたところ、1964年(昭和39年)にサンライト社が刊行した『商工観光案内図 武豊町』を見せてくださいました。この地図によると武豊劇場の場所はユタカフーズ堀割寮のやや北であると思われ、跡地がユタカフーズ堀割寮の場所であるとしている「武豊ノスタルジア」は正確でないように思われます。

『商工観光案内図 武豊町』は「1年くらい前に大学教授から寄贈された」ものだそうですが、60年近くが経過して破れかけていました。写しでもよいので武豊町立図書館の郷土資料としてほしいし、できればデジタル化して公開してほしいです。

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(写真)サンライト社『商工観光案内図 武豊町』。武豊駅周辺図。右下の堀割バス停近くに武豊劇場。

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(写真)サンライト社『商工観光案内図 武豊町』。(左)表紙。(右)裏面。上に武豊劇場の広告。

 

1959年(昭和34年)の武豊市街地の航空写真を見ても、現在のユタカフーズ堀割寮のやや北に巨大な建物が写っています。ユタカフーズ堀割寮の場所は農地となっているように見えます。

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(写真)1959年の武豊劇場付近。地図・空中写真閲覧サービス
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(写真)武豊劇場跡地にある石惣石材店。

 

武豊町の映画館について調べたことは「知多半島の映画館 - 消えた映画館の記憶」にまとめており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(愛知県版)」にマッピングしています。

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