振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

磐田市掛塚地区を訪れる

f:id:AyC:20210719221145j:plain

(写真)掛塚地区にある伊豆石の石蔵。 

 2021年(令和3年)7月、静岡県磐田市の掛塚地区(旧・磐田郡竜洋町)を訪れました。「磐田市掛塚地区の映画館」に続きます。

ayc.hatenablog.com

 

1. 掛塚地区を歩く

1889年(明治22年)に発足した長上郡掛塚村は、1896年(明治29年)に所属郡の変更・町制の施行によって磐田郡掛塚町となり、1955年(昭和30年)に周辺2村と合併して竜洋町となりました。2005年(平成17年)には竜洋町など1市3町1村が合併して(新)磐田市が発足し、掛塚地区は磐田市の一部となっています。

近世の掛塚は浜松城下の外港となり、天竜川上流部で伐り出された木材を運ぶ廻船業の拠点となります。「遠州小江戸」と呼ばれるほど栄えますが、1909年(明治42年)には土砂の堆積などで掛塚湊が廃港に。1889年(明治22年)に静岡駅~浜松駅間が開通した官設鉄道(現・JR東海道本線)鉄道の経路から外れたこともあり、掛塚の町は相対的に衰退していったようです。1890年(明治23年)の地形図を見ると、遠州西部では浜松(浜松市)と見付/中泉(磐田市)に次いで大きな町だったことがわかります。

f:id:AyC:20210720020601j:plain

(写真)掛塚湊を紹介する文献。写真は1912年に掛塚貴船神社に奉納された西洋式帆船の第七石宝丸。『磐田の産業』磐田市教育委員会文化財課、2003年。

f:id:AyC:20210719224931p:plain

(地図)1890年の掛塚周辺の地形図。今昔マップ on the web

 

1.1 旧掛塚郵便局など

掛塚市街地の中心部には1935年(昭和10年)に建てられた旧掛塚郵便局 - Wikipediaがあり、登録有形文化財に登録されています。モルタルが塗られた石造風の外観であり、地区内に多数ある石蔵と親和性があります。

2018年(平成30年)以降にはまちづくり団体「みんなと倶楽部 掛塚」によって写真展示会が開催されるなど、廻船問屋の旧津倉邸とともに地域活性化の核となっているようです。通常時には立ち入ることができませんのが残念。

f:id:AyC:20210719221151j:plain

(写真)旧掛塚郵便局。

f:id:AyC:20210719221509j:plain

(写真)磐田市立竜洋図書館の郷土資料コーナー。旧掛塚郵便局が登録有形文化財となったことを伝える記事などが貼ってある。

 

1884年明治17年)頃に建てられた靏谷家住宅主屋(つるたにけ)も登録有形文化財。もとは造り酒屋であり、現在はつるや酒店として営業しているとのことですが、この日は閉まっていました。

1889年(明治32年)に建てられた旧津倉家住宅は、廻船問屋であり材木商でもあった家。2015年(平成27年)には建物と土地が所有者から磐田市に寄贈されたとのことですが、今のところ文化財指定/登録ははされていません。旧掛塚郵便局のように登録有形文化財への登録を目指さないのでしょうか。

f:id:AyC:20210719221207j:plainf:id:AyC:20210719221201j:plain

(左)つるや酒店(靏谷家住宅主屋)。(右)旧津倉家住宅。

 

1.2 伊豆石の石蔵や石壁など

掛塚湊を出港した廻船は江戸に材木を運び、下田周辺で産出される伊豆石を持ち帰ったとされています。掛塚市街地には伊豆石が使われた建造物が多数あり、歩いて石蔵などを探すのが楽しい町です。旧掛塚郵便局の裏手にある石蔵のみは、「旧掛塚郵便局(長谷川家住宅)蔵」という名称で登録有形文化財に登録されています。

f:id:AyC:20210719221224j:plain

(写真)掛塚地区の石蔵。地図の3。

f:id:AyC:20210719221229j:plainf:id:AyC:20210719221154j:plain

(左)掛塚地区の石蔵。地図の3。(右)「旧掛塚郵便局(長谷川家住宅)蔵」。地図の4。

 

石蔵の建築年代や歴史的価値などのきちんとした調査は行われていないようであり、石蔵の所在地を網羅した地図はないようですが、いずれも明治時代に建てられたようです。

航空写真に石蔵の場所をプロットした地図を作成しましたが、掛塚市街地全域をくまなく歩いたわけではないし、民家の敷地奥にある石蔵は見落としているはずなので、さらに多くの石蔵があると思われます。福長利晴「伊豆石の倉」『磐南文化』(磐南文化協会、25号、1999年)によると、「(1999年)現在伊豆石による石倉は、十基程確認がされている」「(かつては)少なくとも三十基位の倉は建っていたのではないだろうか」とあります。

f:id:AyC:20210719221249j:plainf:id:AyC:20210719221257j:plainf:id:AyC:20210719221301j:plain

(写真)掛塚地区の石蔵。(左)地図の範囲外にある山崎医院北すぐ。(中)地図の1。(右)地図の2。

f:id:AyC:20210719221310j:plainf:id:AyC:20210719221314j:plainf:id:AyC:20210719221319j:plain

(写真)掛塚地区の石蔵。(左)地図の6。(中)地図の5。(右)地図の7。

f:id:AyC:20210720001935p:plain

(写真)掛塚劇場跡地や石蔵の位置。地理院地図

 

「平野又十郎の生家」(林家)の石壁には不思議な縞模様があります。林家も津倉家と同じように廻船問屋かつ材木商であり、邸宅は浜松市内に移築されているとのこと。平野又十郎遠州西部初の銀行である西遠銀行(静岡銀行の母体のひとつ)を設立した銀行家であり、後年は慈善家としても優れた活動を行った人物のようですが、Wikipediaにはまだ記事が存在しない。

f:id:AyC:20210719221326j:plainf:id:AyC:20210719221332j:plain

(左・右)「平野又十郎の生家」の石壁。

f:id:AyC:20210719235034p:plain

(写真)津倉家と林家の銅版画。土屋和男「近代初頭における天竜川下流域の治山と木材流通材木と伊豆石を巡って」『常葉大学造形学部紀要』18号、2020年

f:id:AyC:20210719221336j:plainf:id:AyC:20210719221340j:plain

(写真)伊豆石が用いられた倉庫。(右)伊豆石が用いられた民家。角屋と呼ばれた旧商店で明治時代の建築。

 

1.3 掛塚貴船神社や屋台蔵

掛塚市街地で石蔵のほかに目立つのが屋台蔵(山車蔵)です。毎年10月第3土曜・日曜には掛塚貴船神社の例祭として掛塚まつりが開催され、9町が屋台を巡行するとのこと。掛塚貴船神社の境内には掛塚湊が廃港となった後の1924年大正13年)に建立された「掛塚港廻船之碑」がありました。

f:id:AyC:20210719221345j:plain

(写真)掛塚貴船神社

f:id:AyC:20210719221353j:plainf:id:AyC:20210719221359j:plain

(写真)掛塚貴船神社の拝殿。(右)掛塚まつりが描かれたマンホール。

f:id:AyC:20210719221403j:plainf:id:AyC:20210719221409j:plain

(左)砂町の屋台蔵。(右)横町の屋台蔵。