振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

浜松市中野町の映画館

(写真)中野町を象徴する伊豆石の蔵。

2023年(令和5年)4月、静岡県浜松市東区中野町(中ノ町地区)を訪れました。

 

1. 中野町を訪れる

中野町は天竜川の西岸(右岸)にある町であり、旧東海道が通っています。江戸時代の天竜川には橋が架けられておらず、河岸の間の宿として栄えました。江戸の日本橋と京都の三条大橋から等距離にあることが名称の由来です。

1909年(明治42年)から1937年(昭和12年)には軽便鉄道の中ノ町線が運行されていました。現在の最寄駅はJR東海道本線天竜川駅ですが、2km以上あってやや遠い。浜松駅と中野町を結ぶバスは30分間隔で運行されていて便利です。

(写真)JR東海道本線天竜川駅

(写真)中野町の地図。地図・航空写真閲覧サービス

 

2. 伊豆石の蔵

江戸時代の中野町は天竜川による江戸との交易が盛んであり、高価な伊豆石 - Wikipediaを用いた蔵があちこちに建てられました。現在も伊豆石の蔵が点在しています。

なお、「村越家石蔵」、「高橋本家石蔵・土蔵」、「大塚家石蔵」、「井熊家石蔵」、「高橋家石蔵」、「和田家石蔵」が浜松地域遺産(浜松市認定文化財)建造物に認定されており、「中野町の町並み」が浜松地域遺産伝統的建造物群に認定されています。

 

2.1 金原明善記念館の蔵

金原明善翁生家・記念館は中野町の範囲からわずかに外れますが、立派な伊豆石の蔵が残っています。金原明善 - Wikipediaは安間村出身の豪農であり、郷土では天竜川の治水事業などに携わっています。

(写真)金原明善記念館の蔵。

(写真)金原明善記念館の蔵。

 

2.2 旧東海道北側の蔵

A. 中野町556の蔵

中野町に現存する伊豆石の蔵は中心部に集中していますが、やや離れた場所に煉瓦造の蔵があります。旧東海道に面した敷地の家ではありますが、背面に回らないとほとんど見えません。

(写真)中野町の蔵。

(写真)中野町の蔵。旧東海道から見る。

 

B. 中野町835の蔵

バロー中野町店が面する静岡県道313号は、中野町の中心部と周縁部を隔てる道路です。旧東海道静岡県道313号の交差部の北東角には、2棟の伊豆石の蔵があります。西側の蔵の軒丸瓦には「交」という文字が刻まれているように見えます。

(写真)中野町の蔵。

(写真)中野町の蔵。軒丸瓦に「交」の字が刻まれているように見える。

 

C. 中野町838の蔵

旧東海道静岡県道313号の交差部の北東角にある2棟のうち、東側の蔵は公道からきちんと見える場所がありません。

(写真)中野町の蔵。

 

D. 中野町1075の蔵

中野町市街地の北東端近くには、他の伊豆石の蔵とはやや表面が異なる石造の蔵があります。優雅な曲線が用いられた赤色の持ち送りが印象的です。

(写真)中野町の蔵。

(写真)中野町の蔵。

 

E. 中野町1080の蔵

中野町銀行跡の説明看板の北東には、表面の質感まできれいに見える伊豆石の蔵があります。

(写真)中野町の蔵。

(写真)中野町の蔵。

 

2.3 旧東海道南側の蔵

F. 「まっし蔵」

うなぎ料理店の中川屋の南には、イベントスペースとしても用いられる「まっし蔵」があります。他の蔵はいずれも表通りから見えにくい場所にあるため、この蔵は中野町における伊豆石を用いたまちづくり運動の拠点となるのかもしれません。

(写真)まっし蔵。

(写真)まっし蔵。

 

G. 中野町1112の蔵

まっし蔵の東側には伊豆石の蔵が2棟ありますが、いずれも旧東海道からは見えない場所にあり、背後に回っても全体を見渡せないようになっています。

(写真)中野町の蔵。

(写真)中野町の蔵。

 

H. 中野町1118の蔵

まっし蔵の東側に2棟ある伊豆石の蔵のうち、見えやすいほう。こちらのほうが新しそう。

(写真)中野町の蔵。

(写真)中野町の蔵。

 

3. 中野町の近現代の痕跡

3.1 天竜川紀功碑(明治期)

江戸時代の天竜川には橋が架けられていませんでした。1868年(明治元年)の明治天皇の東京行幸の際に、天竜川には浅野茂平によって舟橋が架けられ、その功績を称えて石碑が建立されています。なお、1878年明治11年)には常設の木橋である天竜橋が架けられ、1933年(昭和8年)には鉄筋コンクリート製の天竜川橋(旧国道1号、現静岡県道261号)に置き換えられています。

(写真)天竜川紀功碑。

 

3.2 中ノ町道路元標(明治期)

中野町を通る旧東海道の東側の突き当り、天竜川の河川敷に面した場所には六所神社があります。現在の社殿は南向きですが、かつては神社としては珍しい西向きで町を見下ろしていたようです。

(写真)六所神社

 

六所神社の境内の下には中ノ町道路元標がありますが、中ノ町"村"道路元標ではないのが気になりました。各地にある道路元標は大正時代に設置されたものであり、当時の自治体数である1万2244基が設置されました。このうち現存するのは約1600基とされますが、静岡県では中ノ町道路元標の1基のみだそうです。静岡県では道路元標撲滅運動でもあったのかな。

なお、中ノ町道路元標や天竜川紀功碑は浜松地域遺産(浜松市認定文化財)に認定されています。

(写真)中ノ町道路元標。

 

3.3 天竜座跡(戦前)

1909年(明治42年)から1937年(昭和12年)まで、浜松と中野町を軽便鉄道の浜松電気鉄道中ノ町線が結んでいました。終着駅である中ノ町駅があったのは現在の中ノ町地区自治会館の敷地です。軽便鉄道があったのと同じ昭和初期、中ノ町地区自治会館の北側には芝居小屋の天竜座がありました。

花道や2階席のある立派な芝居小屋だったとのこと。天竜座は太平洋戦争末期に取り壊され、戦後には跡地に浜名郡信用組合(現・遠州信用金庫)が設立されました。現在は民家が建っており、写真を撮る際は要注意です。

(写真)天竜座跡地と説明看板。

(写真)天竜座の館内。

(写真)天竜座跡の説明看板。

 

3.4 中野町銀行跡(戦前~戦後)

1882年(明治15年)には中野町に竜西社が設立され、1884年明治17年)には竜西社が発展して中野町銀行が設立されました。『浜松市史 三』によると、1917年(大正6年)にはもう中野町銀行という名称が消えたようであり、その後は浜松最大の銀行である遠州銀行の支店、静岡銀行の支店となり、1974年(昭和49年)まで建物があったようです。路面には銀行の遺構である煉瓦が埋まっています。

(写真)中野町銀行跡にある煉瓦壁の遺構。

(写真)中野町銀行跡にある煉瓦壁の遺構。

 

4. 中野町の映画館

4.1 中ノ町劇場(1951年2月-1962年頃)

所在地 : 静岡県浜松市中ノ町1023(1962年)
開館年 : 1951年2月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年2月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「中ノ町劇場」。1958年の映画館名簿では「中野町劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「中ノ町劇場」。1963年の映画館名簿では「中ノ町劇場(休館中)」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中ノ町地区自治会館」南南東80mの民家。最寄駅はJR東海道本線天竜川駅

戦後の中野町には映画館の中ノ町劇場がありました。映画館名簿によると1951年(昭和26年)2月に開館し、1962年(昭和37年)頃に閉館しています。経営者と支配人はいずれも鈴木栄一、定員250の映画館だったようです。戦前の芝居小屋である天竜座跡は説明看板があり、パンフレットにも掲載されているのに、中ノ町劇場については現地にもパンフレットにも言及がありません。

(写真)中ノ町劇場跡地の民家。