振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

赤坂町の映画館

f:id:AyC:20201117172548j:plain

(写真)金生山の中腹から見た濃尾平野。中央右奥が大垣市街地。

2020年(令和2年)11月、岐阜県大垣市赤坂町(旧・不破郡赤坂町)を訪れました。かつて赤坂町には映画館「赤坂劇場」がありました。

 

1. 赤坂町を訪れる

1.1 中山道赤坂宿

近世の赤坂は中山道の赤坂宿として栄えた町。近代には金生山 - Wikipedia(きんしょうざん、かなぶやま)における石灰石の産出が本格化し、金生山は「日本一の石灰石産地」だそうです。

 

赤坂町は観光地というほどではありませんが、宿場町としての歴史を伝えるいくつかのスポットがありました。川船が行き来した赤坂湊跡には1875年(明治8年)建築の警察屯所を復元した赤坂港会館が。中山道と谷汲街道の分岐点には享保15年(1730年)または安永4年(1775年)建築の旧清水家住宅が。旧清水家住宅は大垣市有形文化財に指定されており、赤坂の街並み景観の核となっています。

f:id:AyC:20201117172554j:plain

(写真)街並み散策の拠点である赤坂港会館。

f:id:AyC:20201117172603j:plain

(写真)赤坂湊跡。

f:id:AyC:20201117172818j:plain

(写真)中山道と谷汲街道の分岐点。右は旧清水家住宅。

f:id:AyC:20201117172822j:plain

(写真)中山道と谷汲街道の分岐点。左奥は十六銀行赤坂支店。

 

1.2 金生山

金生山(きんしょうざん、かなぶやま)は山体の大部分が削り取られており、JR東海道本線などからも異様な景観を見ることができます。金生山の中腹にある金生山化石館の開館は1964年(昭和39年)と古く、文字通り掘り出し物の展示物もありそうでした。

f:id:AyC:20201117181513p:plain

(写真)現在の赤坂町。地理院地図

f:id:AyC:20201117172832j:plainf:id:AyC:20201117172837j:plain

(左)金生山神社。(右)金生山化石館。

 

2. 赤坂町の映画館

f:id:AyC:20201117175903p:plain

(地図)赤坂町における赤坂劇場。Google My Maps

 

2.1 赤坂劇場(1933年以前-1963年頃)

所在地 : 岐阜県不破郡赤坂町(1963年)
開館年 : 1933年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「赤坂劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

戦前の1933年(昭和8年)には赤坂劇場で岐阜県商工団体連合会の総会が開催され、岐阜県観光協会の設置が提案されたという記録があります。1963年(昭和38年)の映画館名簿によると、赤坂劇場の経営者は垂井町の垂井劇場も経営していた子安清八であり、木造2階建てで定員750、松竹を上映する映画館でした。

西濃地域の中心都市である大垣市に近いこともあり、「赤坂劇場」は1963年(昭和38年)頃という早い時期に閉館しています。劇場が掲載された住宅地図は存在せず、書籍での言及もいくつかしか確認できていません。戦中の1941年(昭和16年)に発行された下記の地図には赤坂劇場が描かれています。

f:id:AyC:20201117173243j:plain

(地図)1941年の赤坂町の地図。

f:id:AyC:20201117173212j:plain

(写真)1941年の赤坂町の地図。赤坂劇場付近を拡大。

f:id:AyC:20201117173228j:plain

(写真)1941年の大垣市周辺の劇場・映画館の広告。

 

上記の地図を頼りに現地を訪れ、赤坂地区センターと和洋菓子司 金生堂で話を聞きました。

赤坂地区センターの男性職員(60代?)は、

赤坂劇場について詳しくは知らないが、赤坂地区センターから路地を少し南に下った場所、赤い車が停車しているアパート付近にあったのではないか」とのこと。話の内容は1941年(昭和16年)の地図とも合致します。

 

金生堂の主人(70歳前後?)は「赤坂劇場」に入った経験がありました。

和田電気商会の角の路地を北に入り、三叉路を右に進んだ先のアパートの場所に赤坂劇場があった。役者が来て公演することもあれば、1か月に1回の頻度で移動映画を上映することもあった。その後は映画館となり、自分が小学生の頃までは営業していた

2階席がある木造の古い建物だった。床は板張りで固定座席はなく、観客は家から座布団を持参した。閉館してからは館主の住居となったが、30年~40年前、昭和の終わり頃に取り壊され、跡地にアパートが建った」とのことです。

 

跡地のアパート「ハイツ暖」はやや奇妙な形状で、竣工当時は斬新なアパートだったと思われます。中山道から北に約150m、標高差10mの坂を上った場所にあります。周囲には寺院や神社が集まっていて静かであり、劇場の立地としては珍しいように感じました。

f:id:AyC:20201117172843j:plainf:id:AyC:20201117172848j:plain

(写真)赤坂劇場跡地のハイツ暖。

f:id:AyC:20201117172902j:plain

(写真)中山道沿いにある和菓子司 金生堂。

 

赤坂町にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(岐阜県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com