振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

赤坂町の映画館

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(写真)金生山の中腹から見た濃尾平野。中央右奥が大垣市街地。

 

2020年(令和2年)11月、岐阜県大垣市赤坂町(旧・不破郡赤坂町)を訪れました。かつて赤坂町には映画館「赤坂劇場」がありました。

 

 

1. 赤坂町を歩く

近世の赤坂は中山道の赤坂宿として栄えた町。近代には金生山 - Wikipedia(きんしょうざん、かなぶやま)における石灰石の産出が本格化し、金生山は「日本一の石灰石産地」だそうです。

 

赤坂町は観光地というほどではありませんが、宿場町としての歴史を伝えるいくつかのスポットがありました。川船が行き来した赤坂湊跡には1875年(明治8年)建築の警察屯所を復元した赤坂港会館が。中山道と谷汲街道の分岐点には享保15年(1730年)または安永4年(1775年)建築の旧清水家住宅が。旧清水家住宅は大垣市有形文化財に指定されており、赤坂の街並み景観の核となっています。

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(左)赤坂港会館。街並み散策の拠点。(右)赤坂湊跡。

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(写真)中山道と谷汲街道の分岐点。(左)右は旧清水家住宅。(右)左奥は十六銀行赤坂支店。

 

金生山は山体の大部分が削り取られており、JR東海道本線などからも異様な景観を見ることができます。金生山の中腹にある金生山化石館の開館は1964年(昭和39年)と古く、文字通り掘り出し物の展示物もありそうでした。

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(写真)現在の赤坂町。地理院地図

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(左)金生山神社。(右)金生山化石館。

 

2. 赤坂町の映画館

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(地図)赤坂町における赤坂劇場。Google My Maps

 

2.1 赤坂劇場(戦前-1963年頃)

所在地 : 岐阜県不破郡赤坂町(1963年)
開館年 : 戦前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「赤坂劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

西濃地域の中心都市である大垣市に近いこともあり、「赤坂劇場」は1963年(昭和38年)頃という早い時期に閉館しています。劇場が掲載された住宅地図は存在せず、書籍での言及も確認できていません。各年版映画館名簿のほかに「赤坂劇場」の存在が確認できる資料は、戦中の1941年(昭和16年)に発行された下記の地図のみです。

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(地図)1941年の赤坂町の地図。

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(左)1941年の赤坂町の地図。拡大。(右)1941年の大垣市周辺の劇場・映画館の広告。

 

上記の地図を頼りに現地を訪れ、赤坂地区センターと和洋菓子司 金生堂で話を聞きました。赤坂地区センターの男性職員(60代?)は「赤坂劇場について詳しくは知らないが、赤坂地区センターから路地を少し南に下った場所、赤い車が停車しているアパート付近にあったのではないか」とのことで、話の内容は1941年(昭和16年)の地図とも合致します。

金生堂の主人(70歳前後?)は「赤坂劇場」に入った経験がありました。「和田電気商会の角の路地を北に入り、三叉路を右に進んだ先のアパートの場所に赤坂劇場があった。役者が来て公演することもあれば、1か月に1回の頻度で移動映画を上映することもあった。その後は映画館となり、自分が小学生の頃までは営業していた。2階席がある木造の古い建物だった。床は板張りで固定座席はなく、観客は家から座布団を持参した。閉館してからは館主の住居となったが、30年~40年前、昭和の終わり頃に取り壊され、跡地にアパートが建った」とのことです。

 

跡地のアパート「ハイツ暖」はやや奇妙な形状で、竣工当時は斬新なアパートだったと思われます。中山道から北に約150m、標高差10mの坂を上った場所にあります。周囲には寺院や神社が集まっていて静かであり、劇場の立地としては珍しいように感じました。

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(写真)赤坂劇場跡地のハイツ暖。

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(写真)話を聞いた和菓子司 金生堂。中山道沿い。

 

赤坂町にあった映画館について調べたことは「岐阜県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(中部版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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