振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

「海と湖のウィキペディアタウン」に参加する

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(写真)京都府最大の淡水湖である離湖。

2020年(令和2年)9月27日(日)、京都府京丹後市網野町小浜(こばま)で開催された「海と湖のウィキペディアタウン」に参加しました。

 

1. イベント概要

 

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主催者

主催者は「鳴き砂」の海岸である琴引浜で環境保全活動や観光ガイドを行っている琴引浜ガイドシンクロ。2019年5月26日には琴引浜ガイドシンクロが「3Qタウン Wikipedia town in 琴引浜」を開催しており、私はこの時も参加させてもらいました。網野町小浜は琴引浜に隣接する地区であり、地区のシンボルとして離湖や八丁浜があることから「海と湖の」というタイトルが付いています。チラシの講師およびファシリテーターにある「かんた」というのが私です。

 

会場

会場は網野町小浜にある民宿 いながきの広間です。京風懐石料理が売りの料理民宿であり、GoToトラベルキャンペーンに対応した宿泊プランもあります。私も含めて一部の参加者はイベント後に民宿 いながきに宿泊しました。

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(左)民宿 いながき。(右)編集会場の広間。

 

参加者

2020年2月から続くコロナ禍のために大々的な宣伝を行えなかったものの、約15人が参加しました。地元の京丹後市網野町からは網野区や浅茂川区などから、丹後地方からは京丹後市弥栄町などから、その他の地域からは京都市や東海地方からの参加者がいました。職業としては自治体職員、市議会議員、学校や公共の図書館司書などの参加者がおり、京都府立丹後緑風高校網野学舎(京都府立網野高校)からも3人の生徒が参加しています。

 

2. 小浜地区の街歩き

琴引浜の鳴り砂を守る会事務局の三浦到さんが街歩きガイドを務めてくださりました。三浦さんは京丹後市立丹後古代の里資料館の館長を務めており、『京都の歴史を足元からさぐる 丹後・丹波・乙訓の巻』などの著者(共著)でもあります。

京都府最大の淡水湖である離湖周辺には、離湖古墳・離山古墳・岡1号墳など多数の古墳が存在します。参加者は離山に登ってこれらの古墳の説明を聞き、また離湖そのものや江戸時代に開削された樋越川などの説明も聞きました。

この日は早朝から嵐のような天気であり、また午後にも雨風が窓を強く叩く時間帯もありましたが、街歩きの時間中は青空も見える穏やかな天気でした。

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(左)離山古墳で説明する三浦到さんと参加者。(右)岡1号墳の石室に入る参加者。

 

3. ウィキペディア編集

編集記事

網野町小浜 - Wikipedia(新規作成)

離湖 - Wikipedia(加筆)...離湖古墳、離山古墳、岡1号墳、龍献寺などに関する加筆

八丁浜 - Wikipedia(新規作成)

樋越川 - Wikipedia(新規作成)

街歩き後には参加者の希望によって編集記事を決めました。複数の参加者が編集を行ったのは「離湖」と「八丁浜」の2記事。離湖グループは概要節、地理節、自然節、離湖古墳節、離山古墳節、龍献寺節について1人1セクションを担当し、個別に文章を作成しています。八丁浜グループは文献における言及を出典カードに書き出したうえで、全員で文章を作成したようです。

網野町小浜」については講師およびファシリテーターの私が新規作成を行った上で、参加者が八幡神社や水晶浜に関する記述を加えています。「樋越川」については講師およびファシリテーター漱石の猫さんが新規作成を行っています。

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(左)編集中の参加者。(右)成果発表。
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(写真)加筆された離湖 - Wikipedia

 

アップロードされた写真

Category:Amino-chō Kobama, Kyotango - Wikimedia Commons

今回の題材に関わる多数の写真を事前に撮影してWikimedia Commonsにアップロードしてくださった参加者もいます。天気が不安定で街歩き中は曇天の時間帯が多かったのですが、記事に青空の写真を多数使用できたのはこのためです。イベント時間外のアップロードも含めると、参加者が今回の題材のためにアップロードした写真は60枚以上となりました。

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(左)離湖公園から見た離湖。Wikimedia Commons - photo:VinayaMoto - CC BY-SA 4.0(右)水晶浜の砂。Wikimedia Commons - photo:八隅 孝治 - CC BY-SA 4.0

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(左)大林寺の化粧地蔵。Wikimedia Commons - photo:Asturio Cantabrio - CC BY-SA 4.0(右)1850年の『丹後浦辺図 中』における離湖周辺。Wikimedia Commons - PD

 

4. 樋越川

離湖とその周辺には古墳が多いのですが、個人的に気になる題材は樋越川/新樋越川でした。冠水被害の多かった水田を救うために、1676年(延宝4年)に掘削された暗渠(トンネル)が樋越川。樋越川がしばしば砂に埋もれて役に立たなくなったために、約300年後の1959年(昭和34年)に別地点に開削された開渠が新樋越川。暗渠の水路が先に掘られ、開渠の水路が後に掘られたのです。

江戸時代前期、わざわざ500mものトンネルとして樋越川を掘ったのはなぜなのか。新樋越川の位置に開渠の水路を掘るのではダメだったのかという点が気になったのですが、三浦さんによると「この地域は土壌が砂地であり、開渠では水路が砂に埋もれてしまうためではないか」とのことでした。

開渠と暗渠では工事の労力にも難易度にもはるかに差があります。結局は樋越川も砂に埋もれてしまったわけですが、岩盤を人力で削ってトンネルを掘ったほうが開渠の水路を掘るよりマシだったというのが驚きです。戦後に掘られた新樋越川にしても、現代の土木技術であれば楽な工事に見えるにもかかわらず、8年の歳月をかけて困難を極めたとのこと。Wikipedia記事では樋越川/新樋越川のそれぞれが「日本土木史に残る一大難工事」だったと書かれています。

「樋越川」というワードでGoogle検索するとわかるように、樋越川/新樋越川の歴史やその意義について詳細に解説しているウェブサイトはありません。小浜や周辺地域の方は樋越川/新樋越川について知っていても、その他の地域ではほとんど知られていない土木工事と言えます。今回作成されたWikipedia記事などを通じて、工事の功労者などに光が当たってほしいと思いました。

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(地図)樋越川と新樋越川の位置。