振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

「ウィキペディアタウン浜詰」に参加する

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(写真)会場のヒカリ美術館。

2020年7月18日(土)、京都府京丹後市網野町浜詰で開催された「ウィキペディアタウン浜詰」に参加しました。

 

1. 網野町浜詰を訪れる

京丹後市京都府の最北端にある自治体。京丹後市網野町浜詰は日本海に面した観光地であり、夕日ヶ浦温泉の名前で知られています。公共交通機関では京都丹後鉄道でアクセスできます。

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(写真)夕日ヶ浦木津温泉駅付近を走る京都丹後鉄道の列車。KTR8000形。

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(左)京都府における京丹後市の位置。(右)丹後地方で参加したウィキペディアイベント。©OpenStreetMap contributors

 

会場は網野町浜詰にあるヒカリ美術館 - Wikipedia。2010年(平成22年)に開館した現代美術館であり、丹後地方で初めて開館した美術館だそうです。館内には現代美術家の池田修造さんと東村幸子さんの作品などが展示されており、池田さんと東村さんは丹後地方で様々なワークショップやプロジェクトにも取り組んでいます。

ウィキペディアタウン浜詰」を主催するedit Tango(エディタン)は定期的にイベントを開催しており、街歩きを行わない小規模な編集イベントも含めると、今回が50回目の主催イベントだったようです。ヒカリ美術館のねこ「ねこ」が乗った(?)ケーキが用意されていました。

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(左)ヒカリ美術館のねこ「ねこ」。(右)edit Tango 50回記念ケーキ。

 

 

2. 網野町浜詰を歩く

午前中は浜詰の街歩きです。車で志布比神社方面に向かうグループ、徒歩で海岸や市街地を歩くグループの2グループに分かれました。私は市街地のグループに入り、福寿院までの道のりを往復しました。

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(写真)街歩きコース。

 

浜詰海岸

浜詰海岸(夕日ヶ浦)には海水浴場があり、海の家も営業していましたが、コロナ禍の影響もあって観光客は少ないようです。海岸から市街地を見渡すと5階建て以上の旅館が目につきます。

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(左)浜詰海岸。(右)浜詰海岸の海の家。

 

浜詰小学校跡地

浜詰には1972年(昭和47年)まで網野町立浜詰小学校がありました。場所は福寿院の東側であり、一部が資材置き場になっているグラウンドが学校敷地の面影を残しています。かつて福寿院の南東には浜詰村役場もあり、戦後に新開地が造成される前は福寿院周辺が村の中心だったようです。

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(写真)1972年廃校の網野町立浜詰小学校跡地。

 

福寿院

臨済宗妙心寺派の福寿院は浜詰で唯一の仏教寺院です。境内には夕日魚籃観音(ゆうひぎょらんかんのん)があり、浜詰の漁業関係者が供養祭や大漁祈願を行っているそうです。観音像の手元には松葉ガニが入った籠があり、観音像の足元には魚群が泳ぎ、台座の上にも松葉ガニがいました。

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(写真)福寿院。

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(写真)境内にある夕日魚籃観音。(右)石に彫られた松葉ガニや魚群。

 

旧市街地

浜詰の旧市街地は京都府道浜詰網野線に沿って街並みが形成されており、多くの民家には湿度の高さに合わせた板壁が用いられています。1927年(昭和2年)の北丹後地震以前の民家はそもそも存在しないと思われますが、北丹後地震以後の戦前に建てられた民家も少ないように見受けられました。戦後しばらくは浜詰でも機業(丹後ちりめん)が盛んだったようで、はたやギャラリー夢つむぎという展示体験施設がありました。

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(左)はたやギャラリー夢つむぎ。(右)新開地に近い機屋の建物。

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(写真)旧市街地の街並み。

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(左)丹海バス浜詰バス停。英語表記はHamadumeでありHamazumeではない。(右)浜詰の中心部にある信号交差点。

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(写真)旧市街地の街並み。

 

新開地

浜詰の中でもヒカリ美術館に近い南部は「新開地」と呼ばれており、広い砂地だった場所を1950年代末から1960年代末にかけて宅地化した地区のようです。浜詰の旧市街地とは異なり、新開地は道路が格子状に整備されていますが、多くの民家は伝統的な板壁を用いており、建物の外観は多様です。造成から半世紀以上が経過していることから、旧市街地とそれほど変わらない趣のある街並みにも見えます。

戦後に新開地が開発されたことで、浜詰の重心は南側に移動しています。スーパーマーケットのにしがき浜詰店、京都北都信用金庫浜詰支店、丹後木津郵便局などは、いずれも地区中央部にある信号交差点の南側にあります。

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(写真)新開地の街並み。

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(左)現在の新開地周辺の航空写真。(右)1960年代の新開地周辺の航空写真。地理院地図

 

にしがき浜詰店

お昼ごはんはにしがき浜詰店で購入。店頭には京丹後市久美浜町産のメロン(砂丘メロン)、京丹後市網野町産のスイカ(夏まくらすいか)がありました。網野町久美浜町日本海岸では砂丘地農業が行われており、メロンやスイカのほかにはナシなども栽培されています。

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(左)にしがき浜詰店で販売されている久美浜町産の砂丘メロン。(右)網野町産の夏まくらすいか。

 

ロイヤルメリー

街歩きの最中には浜詰園地に近いアイスクリーム店「ロイヤルメリー」を訪れました。丹後の養蜂場で生産された蜂蜜がかけられ、また巣蜜(コムハニー)がトッピングされています。

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(左)ロイヤルメリーの巣蜜ソフトクリーム。(右)ロイヤルメリーの店内。

 

箱石浜・フルーツライン

イベント終了後にはヒカリ美術館の池田修造さんの案内で箱石浜とフルーツラインを訪れました。箱石浜は浜詰海岸から約2km南西にある海岸であり、国の史跡である函石浜遺物包含地やユウスゲの群生地があります。フルーツラインは果樹園の密集地を通る道路であり、周辺にはスイカ畑・メロン畑・ナシ園などがありました。

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(左)箱石浜。中央奥が浜詰。(右)箱石浜に咲くユウスゲ

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(左)フルーツラインに近い網野町俵野のスイカ畑。(右)網野町俵野のメロン畑。

 

 

3. ウィキペディアを編集する

ウィキペディアの編集会場はヒカリ美術館にある池田修造さんのアトリエです。主催者によって浜詰に関する様々な文献が準備されており、参加者は各自が気になった項目の編集を行います。今回は以下の記事が編集されました。私は大字としての「浜詰」(地区記事)の新規作成を行いました。

浜詰 - Wikipedia(新規作成)

浜詰遺跡 - Wikipedia(新規作成)

浜詰海岸 - Wikipedia(新規作成)

大泊古墳群 - Wikipedia(新規作成)

浜詰漁港 - Wikipedia(加筆)

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(写真)ヒカリ美術館の編集会場。普段は池田修造さんのアトリエ。

 

準備された文献

主催者によって、京丹後市立図書館、京都府立図書館、京都府久美浜高校図書館などが所蔵する文献、ヒカリ美術館の池田修造さんの蔵書などが準備されました。

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(左・右)主催者によって準備された文献。

 

萬福だより

街歩き中には福寿院を訪れましたが、池田修造さんの計らいで住職に浜詰の話を聞くことができ、寺報「萬福だより」のバックナンバーを借りることができました。福寿院で開催される行事などのほかに、「浜詰村 今昔物語」というコラムも掲載されており、浜詰に関する貴重な郷土資料に思えます。

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(写真)福寿院が発行している萬福だより。夕日魚籃観音の落成記念式典が掲載された号。

 

各年版の『映画館名簿』には浜詰の映画館は掲載されていませんが、1953年(昭和28年)から1961年(昭和36年)頃の浜詰には「公楽会館」という映画館があったようです。浜詰の地区中心部にある信号交差点の南東にあり、現在は北都信用金庫浜詰支店の職員駐車場として使用されています。

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(写真)福寿院が発行している萬福だよりのコラム「浜詰村 今昔物語」。(左)クリ山に関するコラム。(右)映画館の公楽会館に関するコラム。

 

 

4. まとめ

浜詰は夕日ヶ浦温泉で知られる観光地ですが、温泉が掘削されたのは1982年(昭和57年)のことであり、温泉地としての歴史はとても浅い。夕日ヶ浦という名称の歴史も浅く、「日本の夕陽百選」に選定された後に名づけられたようです。ウェブ上には "温泉地としての浜詰" 以外の情報はほとんど見当たらず、歴史の浅い新興温泉地という印象を持っていました。

しかし、今回準備された文献には様々な観点から浜詰の歴史が書かれていました。浜詰村は1931年(昭和6年)の国鉄丹後木津駅開業に合わせて海水浴場を設置したようであり、行楽地としての歴史は戦前に遡ります。産業の変遷についても興味深く、明治期以前には漁業、大正期から昭和戦後には機業、昭和戦前から昭和戦後には農業、高度成長期以後は観光業と、時代に合わせて主産業を変化させて現在に至っているようです。

漁業や機業が主産業だった時代にも他地域の漁師や女工を受け入れていたように、よそ者に寛容な気風だったから観光業が発展したのでしょう。池田さんや東村さんらの現代美術家が浜詰を選んだ理由のひとつにはこの気風があるのではないかと思います。観光業のピークは平成初期だったようで、現在はやや苦戦しているようではありますが、今後の浜詰がどのように変化していくのか気になります。

 

edit Tangoが主催するウィキペディアタウンでは、「まずは文献や街歩きで地区全体を概観し、参加者それぞれが興味を持った題材について編集する」という方法を取るイベントが何度かありました。この場合には遺跡・寺院・神社・海岸などの個別記事に加えて地区全体の記事も作成し、子記事と親記事の関係にします。個別記事と地区全体の記事を同時に作成することで、インターネット空間における当該地区の存在感を高められるのではないかと思います。