振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

竹田市の映画館

(写真)竹田有楽映劇の建物。

2024年(令和6年)3月、大分県竹田市(たけたし)を訪れました。

かつて竹田市街地には映画館「竹田クラブ映劇」「竹田有楽映劇」「喜楽館」があり、旧直入郡直入町には「長湯オリオン」が、旧直入郡久住町には「都オリオン」がありました。大正時代に竣工した竹田有楽映劇の建物が現存しています。「竹田市を訪れる」「竹田市立図書館を訪れる」からの続きです。

 

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1. 竹田市の映画館

『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 竹田』には1954年(昭和29年)の市制施行頃の竹田市街地の航空写真が掲載されています。竹田クラブ映劇と喜楽館については建物の写真を発見できていませんが、この航空写真には3館の建物が写っています。

(写真)1954年の市制施行頃の竹田市街地。『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 竹田』国書刊行会、1982年。

(地図)1963年頃の竹田市街地の地図。竹田クラブ、有楽映劇、喜楽館が描かれている。『滝廉太郎を偲ぶ』北村清士、1963年。国立国会図書館デジタルコレクション 個人送信サービス。

 

1.1 都オリオン(1959年頃-1962年頃)

所在地 : 大分県直入郡久住町(1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1962年の映画館名簿では「都オリオン」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「竹田市消防本部久住分署」東北東80m付近。

直入郡久住町(くじゅうまち)の都野地区、竹田市都野公民館や竹田市消防本部久住分署の東には都オリオンがありました。都野地区は竹田市街地から北西に約10kmの距離にあります。なお、直入郡直入町には同じオリオンの名を持つ長湯オリオンがありますが、いずれも経営者は北里誠一郎でした。

(地図)右下にオリオン映劇が描かれた『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』恵文社、1964年。竹田市立図書館所蔵。

(写真)直入郡に長湯オリオンと都オリオンが掲載されている『映画便覧 1961』時事通信社、1961年。

 

1.2 長湯オリオン(戦前-1962年頃)

所在地 : 大分県直入郡直入町(1962年)
開館年 : 昭和初期
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「長湯大映」。1959年の映画館名簿では「長湯映劇」。1960年・1962年の映画館名簿では「長湯オリオン」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「長湯タクシー」。

直入郡直入町の長湯地区、伊藤医院の向かいにある長湯タクシーの場所には長湯オリオンがありました。1991年(平成3年)に直入町教育委員会が刊行した『直入町 ふるさとの想い出話 第二集』には湯原館として登場します。

戦前の長湯地区には上組(かさぐみ)に立憲政友会員が建てた湯原館が、下組(しもぐみ)に立憲民政党員が建てた長湯館があり、政党色を帯びた2館の常設劇場が並立していたようです。

(地図)中央下に「映画館」が描かれた『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』恵文社、1964年。竹田市立図書館所蔵。

 

1.3 喜楽館(1957年頃-1963年頃)

所在地 : 大分県竹田市東古町(1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1963年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「喜楽映劇」。1963年の映画館名簿では「喜楽館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「福田寺」東南東80mの空き地。

竹田市街地にあった3館のうち、最も早く閉館したのが喜楽館です。1957年の住宅地図には喜楽館が描かれています。

(写真)中央に喜楽館が描かれた『竹田市住宅案内図 改訂版』竹田印刷、1957年。竹田市立図書館所蔵。

(地図)喜楽館の跡地付近。『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』恵文社、1964年。竹田市立図書館所蔵。

(地図)喜楽館の跡地付近。『ゼンリン住宅地図』1973年。

 

1964年(昭和39年)の住宅地図では喜楽館の跡地が何に転用されているのか判然としません。本町通り沿いにある竹田市営ふれあい駐車場の北東、現在は廃墟化している立体駐車場の場所にあったと思われ、この立体駐車場は1973年(昭和48年)の住宅地図に描かれている中央タクシーガレージだと思われます。

(写真)喜楽館の跡地。

(左)東側の下町通りから見た喜楽館の跡地。(右)南側の意安坂から見た喜楽館の跡地。

 

1.3 竹田有楽映劇(大正初期-1972年頃)

所在地 : 大分県竹田市上田2013(1972年)
開館年 : 大正初期
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「竹田劇場」。1941年の映画館名簿では「第二大師館」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「竹田劇場」。1953年・1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「有楽映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「竹田有楽映画劇場」。1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「竹田有楽映劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は「竹田郵便局」南東30mに「唐橋商店倉庫」として現存。

竹田市立図書館は1957年(昭和32年)の住宅地図『竹田市住宅案内図 改訂版』や1964年(昭和39年)の住宅地図『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』を所蔵していますが、昭和30年代の住宅地図を所蔵している市町村立図書館はめったにありません。

2021年(令和3年)に岡の里事業実行委員会によって刊行された『昭和32年の竹田町』では、1957年(昭和32年)の住宅地図を土台として当時の竹田市街地にあった建物などが紹介されています。

(写真)明治時代の洗心館。『昭和32年の竹田町』岡の里事業実行委員会、2021年。

 

上町通りの東端にある弥五兵衛坂の脇には古くから芝居の常設小屋があったようです。大正初期に建て替えられて洗心館(せんしんかん)となり、『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 竹田』(国書刊行会、1982年)や『竹田・大野・直入の100年』(郷土出版社、2001年)には洗心館という名前だった時代の写真が掲載されています。

(写真)竹田有楽映劇の前身である洗心館。『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 竹田』国書刊行会、1982年。上記の文献と同一の写真。

(写真)1926年の洗心館における琴演奏会。『竹田・大野・直入の100年』郷土出版社、2001年。

 

昭和初期以後の映画館名簿には洗心館が竹田劇場として掲載されています。戦後の映画館名簿には有楽映劇(有楽劇場)として掲載され、1957年(昭和32年)の住宅地図では有楽劇場、1964年の住宅地図では有楽館として描かれています。

1956年(昭和31年)8月20日には竹田市において、刺身包丁を持って酩酊した男が竹田警察署の巡査ともみ合った末に巡査を刺し殺してしまう「安藤警部補殺害事件」(※殉職後に巡査から警部補に特進)が起こりました。男は事件前に竹田有楽映劇に入り、木戸番をしていた館主の伊豆丸キクエに包丁を投げつけて脅迫したという記録が残っています。なお、伊豆丸興行は竹田有楽映劇のほかに、大野郡三重町でも三重宝塚映画劇場を経営していました。

(地図)中央に有楽館映画劇場が描かれた『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』恵文社、1964年。竹田市立図書館所蔵。

(地図)竹田有楽映劇の跡地に倉庫が描かれた『ゼンリン住宅地図』1973年。

 

大正時代に芝居小屋の洗心館として竣工し、やがて映画館化して竹田有楽映劇と名を変えた建物は、弥五兵衛坂の脇に倉庫として現存しています。ファサードは倉庫化された際に大きく変えられていますが、異様な大きさ・高さの三角屋根が目立っています。Google検索をした限りでは、この建物が芝居小屋/映画館だったことはほとんど知られていないようであり、取り壊す前に内部の調査を行ってほしいところです。

(写真)竹田有楽映劇の建物。

(写真)竹田有楽映劇の建物周辺。正面は広瀬神社の高台。左の漆喰壁は竹田郵便局。

(写真)竹田有楽映劇の西側を登る弥五兵衛坂。

 

竹田有楽映劇の2軒北には食堂の千石や(千石屋)があり、チャンポン、生姜焼き定食、大分名物のとり天定食などが定番メニューのようです。

千石屋は先代店主の吉川徳男さんによって、1935年(昭和10年)に竹田名物のはら太餅(はらふと餅)や饅頭を売る和菓子屋として開店。同年には日露戦争で戦死した「軍神」広瀬武夫海軍中佐を祀る広瀬神社も創建されており、神社前の和菓子屋としてにぎわったようです。昭和30年代の住宅地図では千石屋製菓の文字が見え、現在よりも小さな店だったようです。やがて食事も出す店となり、現在の建物に建て替えています。

参考:「路地裏食堂 第51回 千石や」『月刊セーノ!』2011年5月号

(写真)千石やのとり天定食。

(写真)竹田有楽映劇の話を聞いた千石や。

 

2代目の吉川浩平さん(2021年時点で78歳)に竹田有楽映劇の話を聞くと、

(店の外まで出て竹田有楽映劇のほうを見ながら)2軒南にある建物はもともと映画館で、有楽劇場という名前だった。戦前は芝居小屋だったようだが、名前が変わったかどうかは知らない(※洗心館という名前を出しても反応せず)。現在はシイタケ屋の倉庫になっている」とのことでした。

(写真)広瀬神社の高台から見た竹田有楽映劇の建物。

 

竹田有楽映劇の建物の東側奥には、崖下に防空壕のような穴がありました。近代以降には竹田市街地と市街地の外側を結ぶ隧道(トンネル)が多数掘られていますが、人間が立って通れる高さや幅ではないようです。

(左)防空壕と思われる穴。(右)竹田有楽映劇の建物東側。

 

1.4 竹田クラブ映劇(1950年頃-1976年頃)

所在地 : 大分県竹田市慶順町1881-2(1976年)
開館年 : 1950年頃
閉館年 : 1976年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1951年・1952年・1953年・1954年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「竹田クラブ」。1966年・1969年の映画館名簿では「竹田クラブ映画劇場」。1973年の映画館名簿では「竹田クラブ映劇」。1975年の映画館名簿では「竹田クラブ」。1976年の映画館名簿では「竹田クラブ映劇」。1977年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「宇都宮整骨院」。

1951年(昭和26年)版から1976年(昭和51年)版までの映画館名簿には竹田クラブ映劇が掲載されていますが、正確な開館年や閉館年は不明です。

(地図)中央上に竹田東映クラブが描かれた『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』恵文社、1964年。竹田市立図書館所蔵。

 

1965年(昭和40年)の『映写』によると、同年1月11日に全焼したとのことであり、その後再建して10年程度営業を続けたようです。

(写真)1965年1月11日の竹田クラブ映劇の火災を伝える記事。『映写』全日本映写技術者連盟、198号、1965年。

(地図)中央上にクラブエイゲキが描かれた『ゼンリン住宅地図』1973年。

(写真)竹田有楽映劇と竹田クラブ映劇が掲載されている『映画便覧 1970』時事通信社、1970年。

 

竹田クラブ映劇の跡地には整骨院の建物が建っています。通りを挟んで正面には竹下内科医院・竹下歯科医院の大きな建物がありましたが、2010年代以後に取り壊され、こじんまりとした竹下歯科医院のみの建物に建て替えられました。

(写真)竹田クラブ映劇跡地の整骨院

(写真)竹田クラブ映劇跡地(左奥)と面する通り。

 

竹田市の映画館について調べたことは「大分県の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、跡地については「消えた映画館の記憶地図(大分県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

www.google.com

足利市立図書館を訪れる

(写真)足利市立図書館。

2024年(令和6年)3月、栃木県足利市足利市立図書館を訪れました。

 

1. 図書館の歴史

1.1 足利学校遺蹟図書館

1903年明治36年)には足利郡足利町(現・足利市)によって足利学校敷地内に足利学校遺蹟図書館が開館しました。足利学校遺蹟図書館は栃木県初の近代的公共図書館とされています。1915年(大正4年)には足利学校遺蹟図書館の建物が現在の近代和風建築に建て替えられました。

(写真)足利学校遺蹟図書館。

 

1.2 栃木県立足利図書館→足利市立図書館

1980年(昭和55年)4月には栃木県立足利図書館が開館し、足利学校遺蹟図書館が担ってきた足利市公共図書館の役割を引き継いでいます。この際には足利学校遺蹟図書館にあった蔵書の多くが栃木県立足利図書館に移管されました。栃木県立足利図書館の利用者の9割は足利市民であり、足利市は運営費の4割を支出していたようです。

(写真)図書館1階。

 

2階に上る階段の踊り場には、益子町の藤原陶房(藤原郁三陶房)が製作した巨大な陶板画が設置されています。

(写真)階段の陶板画。


日本の人口10万人以上の都市のうち、足利市は市立図書館を有していない唯一の自治体でした。2016年(平成28年)4月1日、栃木県立足利図書館の建物が足利市に移管され、建物はそのままに足利市立図書館が開館しました。この2024年(令和6年)4月には足利市立図書館 - Wikipedia足利学校遺蹟図書館 - Wikipediaを加筆しました。

一般的に公共図書館は「XX City Library」という英語表記を用いていますが、足利市の場合は「Ashikaga Municipal Library」であり、(県立から移行した)市立図書館であることを強調する意味があるかもしれません。

(写真)Ashikaga Municipal Libraryの英語表記がある足利市立図書館。

 

2. 斎藤翁記功碑

足利市立図書館の建物前には巨大な石碑「都市計画記念碑」と碑「斎藤翁紀功碑」がありますが、Google検索では全く情報が見つかりません。

斎藤翁紀功碑について足利市立図書館にレファレンスしたところ、足利市耕地整理組合長・足利町会議員・足利市会議員・栃木県会議員を務めた斎藤与左衛門(斎藤與左衛門)の碑であるとの回答がありました。Twitterでは『足利市史 上巻』(足利市、1928年)や『足利大観』(足利大観社、1933年)にもこの碑の情報があると教えてもらいました。

(写真)斎藤翁紀功碑。

 

2.1 碑文

斎藤翁記功碑

翁幼名左一郎上都賀落合村小代加藤弁造二男也明治二十年十二月入当市斎藤家與女登美子婚襲名與左衛門明治三十三年以来盡瘁公共事業二十有八季干玆矣市制施行記念之義起也與有志相計画市街地之拡張以古希之身至誠一貫当事排萬難而完成之可謂其功偉大也有志為醵金建碑以伝後昆云爾

昭和二年四月 足利市同北部耕地整理組合地主一同

出典:足利市足利市史 上巻』永倉活版所、1928年

出典:安野青花『足利大観』足利大観社、1933年

(写真)「都市計画記念碑」と「斎藤翁紀功碑」。両者の位置は現在も変わっていないと思われる。

 

2.2 斎藤与左衛門の経歴

1903年明治36年)に東武鉄道(現・東武伊勢崎線)が川俣駅まで延伸されると、斎藤は足利町までの延伸を目指した委員に就任して開通促進運動に加わった。東武鉄道足利市駅まで延伸されたのは1907年(明治40年)8月のことであり、斎藤は「東武鉄道足利停車場設置及同鉄道延長に関する功労者調」のひとりに挙げられている。

明治末期には足利瓦斯会社の発起人に名を連ねている。1911年(明治44年)9月には第5回栃木県会議員選挙で栃木県会議員に初当選した。1914年(大正3年)3月には足利織物会社が設立され、後に石川宗吉の後を継いで足利織物会社の社長に就任した。

出典:足利市史編さん委員会『近代足利市史 第1巻』足利市、1977年

 

竹田市立図書館を訪れる

(写真)竹田市立図書館。

2024年(令和6年)3月、大分県竹田市(たけたし)を訪れました。「竹田市を訪れる」からの続きです。「竹田市の映画館」に続きます。

 

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1. 竹田市立図書館

1.1 図書館の歴史
竹田市公共図書館の歴史は長い。1909年(明治42年)に黒川文哲らによって開館した竹田文庫が起源であり、1932年(昭和7年)に財団法人化した後、1946年(昭和21年)には直入郡竹田町に移管されました。
養命酒製造会長の大野善久から寄付を受けたことで、1960年(昭和35年)には大野記念館とも呼ばれる旧館が開館。旧館の狭隘化・老朽化が進んだことで、2017年(平成29年)には隣接地に現行館が開館しました。
この2024年(令和6年)4月には黒川文哲 - Wikipediaを作成しました。
盆地で土地が少ない分、竹田市街地は人口の割に建物の密度が高い。竹田市立図書館は変則的な土地に建つM字型の建物であり、面している道路はいずれも狭い。近年の公共図書館ではなかなか珍しい立地です。設計者は塩塚隆生アトリエですが、公共図書館の設計は初だと思われます。

(写真)竹田市立図書館の建物。

(写真)竹田市立図書館の建物。

(写真)竹田市立図書館と府内町通り。

 

1.2 図書館の館内
図書館内は基本的にワンフロアですが一部2階建てとなっており、2か所ある2階部分は小部屋感のある学習室となっています。この2階部分は斬新で気分が高揚する。竹田市立図書館は日本図書館協会建築賞、日本建築学会作品選奨、公共建築賞の3つの賞を総なめしています。

(写真)東館(建物東側)のフロアマップ。

(写真)東館(建物東側)の館内。

(写真)東館(建物東側)の館内。

(写真)東館(建物東側)の館内。

 

1.3 郷土資料

2階部分の片方には、学習室のおまけのような郷土資料コーナーがあります。図書館の歴史が古いだけに、昭和30年代の住宅地図など他館でなかなか見ることのない文献もあるのですが、郷土資料の活用には全く興味がなさそうな、ほったらかしで雑然としたコーナーだったのも逆に新鮮でした。

(写真)2階の学習席とメイン郷土資料コーナー。

(写真)2階のメイン郷土資料コーナー。

 

郷土資料コーナーには後藤重巳文庫がありました。後藤重巳は竹田市出身の歴史学者(日本近世史)であり、國學院大學史学科を卒業して別府大学文学部教授となっています。「大分県の近世史研究における第一人者」とされる人物だそうで、大分県内の多数の自治体史の編纂にも携わると、1980年代中頃に刊行された『竹田市史』では編纂責任者を務めています。

この2024年(令和6年)4月には後藤重巳 - Wikipediaを作成しました。

(写真)2階のメイン郷土資料コーナー。後藤重己文庫。

(写真)2階のメイン郷土資料コーナー。

 

全国の市町村立図書館をめぐる大きな目的として、その図書館にしか存在しない(≒その県の都道府県立図書館が所蔵していない)年代の住宅地図を閲覧することがあります。

竹田市立図書館は1957年(昭和32年)の住宅地図『竹田市住宅案内図 改訂版』や1964年(昭和39年)の住宅地図『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』を所蔵していますが、大分県立図書館が所蔵する竹田市の住宅地図は1973年(昭和48年)が最古であり、竹田市立図書館は都道府県立図書館にない年代の住宅地図を有する珍しい図書館です。

一般的に郷土資料は禁帯出(館外貸出不可)であることが多く、愛知県図書館から相互貸借を依頼できないことが多い。さらに住宅地図はその特性上、複写依頼をして複写物を取り寄せるのも煩雑です。結局は、現地を訪れて閲覧するのがいちばん効率が良いため、全国の市町村立図書館を訪れる調査はまだまだ続きそう。

(写真)『竹田市住宅案内図 改定版』竹田印刷、1957年。『竹田市 豊後荻町・直入町久住町住宅地図』恵文社、1964年。いずれも竹田市立図書館所蔵。

 

2階のメイン郷土資料コーナーがわかりにくい場所にあるためか、1階にはミニ郷土資料コーナー「まるごと大分」が設置されています。音楽家の瀧廉太郎、日露戦争の「軍神」広瀬武夫の文献などは、2階ではなく1階に置かれていました。

(写真)1階のミニ郷土資料コーナー「まるごと大分」。

(写真)1階のミニ郷土資料コーナー「まるごと大分」。広瀬武夫の文献。

 

「映画館情報の蓄積と可視化:戦後の日本における消えた映画館」

(写真)『The KeMCo Review 02』。

2024年(令和6年)3月末、慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)の学術雑誌『The KeMCo Review 02』が刊行されました。

私が書いた研究ノート「映画館情報の蓄積と可視化:戦後の日本における消えた映画館」を掲載してもらいました。『The KeMCo Review 02』の公式ページ上では雑誌の全ページがPDFで公開されています。

kemco.keio.ac.jp

 

1. 概要

1.1 学術雑誌『The KeMCo Review』

慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)は2021年(令和3年)4月に開館したばかりの新しいミュージアムであり、東京都港区の慶應義塾大学三田キャンパスに所在します。

2023年(令和5年)3月には創刊号に当たる『The KeMCo Review 01』がオブジェクト・ベースト・ラーニング」(オブジェクト介在型学習)を特集テーマとして刊行されました。『The KeMCo Review 02』は第2号にあたります。

 

1.2 特集テーマ「パブリック・ヒューマニティーズ」

今号の特集テーマは「パブリック・ヒューマニティーズ」(公共人文学)であり、公共人文学とは「人文学の研究成果を広く社会に拓く」という意味があります。サイト「消えた映画館の記憶」を作成する活動は、公共人文学の実践に当たる活動だと考えており、特集テーマには強く共感しています。

論考の前半ではサイト「消えた映画館の記憶」の構築について紹介。後半ではサイトを活用した調査研究の事例として、東海・北陸甲信越近畿地方に現存する映画館建築を列挙しています。ひたすら跡地の特定と建物の同一判定を行った単純な調査研究なのですが、映画館建築という分野ではほとんど先行研究がありません。

(写真)「映画館情報の蓄積と可視化:戦後の日本における消えた映画館」の冒頭。

 

1.3 投稿資格

この学術雑誌の投稿資格は「慶應義塾教職員および⼤学院⽣」や「修⼠の学位を有する者もしくはこれと同等以上の研究者」で、"同等以上の研究者"というのがミソです。内容次第では中高生や学部生でも投稿が受理されるかもしれません。

編集部から投稿資格を満たしているかどうかの確認はありましたが、実質的には論考の中身の査読だけで掲載が決定しています。研究機関に属していない在野の研究者にも発表の機会を与えようとする『The KeMCo Review』編集委員会の方針はすごいなあと思いました。