振り返ればロバがいる

Wikipediaの利用者であるAsturio Cantabrioによるブログです。「かんた」「ロバの人」などとも呼ばれます。愛知県在住。東京ウィキメディアン会所属。ウィキペディアタウンの参加記録、図書館の訪問記録、映画館跡地の探索記録などが中心です。文章・写真ともに注記がない限りはクリエイティブ・コモンズ ライセンス(CC BY-SA 4.0)で提供しています。著者・撮影者は「Asturio Cantabrio」です。

高知あたご劇場を訪れる

(写真)高知あたご劇場

2023年(令和5年)3月、高知県高知市愛宕町の高知あたご劇場を訪れました。

 

1. 高知市を訪れる

高知県の人口は約68万人であり、47都道府県の中では鳥取県島根県に次いで45位です。この3県の中では県庁所在地への一極集中度が高く、県内第2位の南国市の人口は約5万人に過ぎません。この結果、高知県の常設映画館は高知市にしか存在せず、高知市の映画館もTOHOシネマズ高知と高知あたご劇場の2施設のみ。全国で最も映画館施設数の少ない都道府県となっています。

(写真)JR土讃線高知駅

 

1.1 愛宕商店街

愛宕商店街は高知駅の西600m、高知県道16号沿いにある商店街であり、南北400mにも及ぶ片側式アーケードがありますが、2022年(令和4年)頃からは撤去が進んでいるようです。

商店街を特徴づけているのはネオンアーチであり、JR土讃線の南側に4基、北側に3基が設置されています。初代ネオンアーチが設置されたのは1953年(昭和28年)であり、1996年(平成8年)頃に現在の2代目のアーチが設置されたとのこと。同じ高知市中心部では升形商店街や菜園場商店街にも商店街アーチがあります。高知市は全蓋式アーケードの密度が高い町ですが、商店街アーチと片側式アーケードの組み合わせこそがこの町の特徴であると感じました。

(写真)愛宕商店街。

 

1.2 オーテピア高知図書館

2019年(令和元年)には高知市中心部にオーテピア高知図書館が開館しました。高知県立図書館と高知市民図書館本館を合築させた公共図書館であり、開架冊数約30万冊、収蔵能力約205万冊という規模は四国最大の公共図書館だそうです。所在地は高知市立追手前小学校の跡地であり、すぐ南には帯屋町の全蓋式アーケード商店街があるという立地。

(写真)オーテピア高知図書館。

 

この施設はは高知県立図書館と高知市民図書館が共同で運営してるとのことで、利用者カードは1枚だけ。利用者は県立や市立という枠組みを意識することなく利用できるようになっています。。書庫出納にもカードが必要なので作成したのですが、OPAC上に書庫出納ボタンがあればもっと便利だと感じました。現状ではカウンターで書庫出納の手続きを行う必要があります。

徒歩圏内には高知県高知追手前高校、高知県立高知丸の内高等学校、土佐女子高校など複数の高校があります。郷土資料がある館内最奥部の閲覧席にも高校生が多数おり、ひそひそ声で勉強を教え合ってるのが気になりました。とても明るくて開放的な図書館なのに、「図書館では静かにしてないといけない」という意識が残っているのかもしれません。

(写真)オーテピア高知図書館の利用者カード。

 

2022年(令和4年)にはオーテピア高知図書館の正面にある高知県高知追手前高校の本館が登録有形文化財に登録されました。1931年(昭和6年)に竣工した鉄筋コンクリート造の建物が現役の校舎だそうで、屋根付きの時計台が象徴的な存在です。なお、高知県立高知小津高校にも高知県指定文化財の開成門があります。

(写真)高知県高知追手前高校。

(写真)高知県立高知小津高校。(右)開成門。

 

2. 高知あたご劇場(1955年-営業中)

所在地 : 高知県高知市愛宕町1-1-22(2022年)
開館年 : 1955年4月23日
閉館年 : 営業中
Wikipediaあたご劇場
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「あたご劇場」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年・2022年の映画館名簿では「高知あたご劇場」。最寄駅はJR土讃線高知駅

 

1956年の映画館名簿

高知あたご劇場は1955年(昭和30年)4月23日に開館した映画館であり、1956年(昭和31年)の映画館名簿には愛宕劇場として掲載されています。高知あたご劇場の初代館主は水田兼美ですが、初期の映画館名簿には(兼美ではなく)兼水として掲載されているのが気になります。

水田兼美は1919年(大正8年)12月7日に高知県安芸郡安芸町に生まれた人物。実家は映画館「安芸太平館」を経営をしており、兄には安芸太平館を長らく経営する水田定実がいます。旧制安芸中学校時代にバイオリンに魅了され、東京の日本大学芸術学部に進学。戦後には帰郷して税務署に勤務し、その後は実家の安芸太平館で地方を巡回する移動映画班となりました。

1955年(昭和30年)春には高知市の江ノ口地区にある空き地を購入して「あたご劇場」を開館させますが、あたご劇場の開館を報じる『キネマ旬報』の短報によると、建設者は兄の水田定実でした。水田兼美は菜園場商店街にさえんば劇場も開館させていますが、こちらは経営不振によって1年あまりで売却しています。

 

1980年の映画館名簿

 

2002年の映画館名簿

2002年(平成14年)時点の高知市には9館の映画館がありました。2004年(平成16年)には高知県初のシネコンであるTOHOシネマズ高知が開館し、高知市中心部の映画館は相次いで閉館しました。2009年(平成21年)には水田兼美が死去し、息子の水田朝雄が2代目館主となっています。2012年(平成24年)のデジタルシネマ化の波も乗り越え、2013年(平成25年)からは高知市中心部唯一の映画館となりました。2021年(令和3年)には水田朝雄が死去し、水田サリーなどによって営業が継続されています。

 

『月刊土佐』1986年2月号では高知県の映画館が特集されており、高知市にあった映画館の地図が掲載されています。多数の映画館が帯屋町や本町に集中していますが、旧玉水新地周辺、愛宕商店街周辺、菜園場商店街周辺にも複数の映画館があったことがわかります。

(写真)戦後の高知市にあった映画館。『月刊土佐』1986年2月、第24号。

 

開館前日の1955年(昭和30年)4月22日には『高知新聞』に開館広告が掲載されており、開館翌日の4月24日には開館記事が掲載されています。いずれも片仮名のアタゴ劇場という表記であり、開館初期は表記ゆれがあったようです。

(写真)高知あたご劇場の開館広告。『高知新聞』1955年4月22日。

(写真)高知あたご劇場の開館記事。『高知新聞』1955年4月24日。

(写真)高知あたご劇場の開館を伝える『高知年鑑 昭和31年版』高知新聞社、1955年。

 

『映画年鑑 1956年』を見ると、高知あたご劇場の開館時には高知県興行組合とひと悶着あったようです。1955年(昭和30年)末時点で16館だった高知市の映画館は、1年後に31館にまで急増。既存業者と新規参入者が対立していた時期であり、安芸市からやってきた "よそ者" の水田兼美への風当たりは強かったのでしょう。

(写真)高知あたご劇場の開館騒動を伝える『映画年鑑 1956年』時事通信社、1956年。国立国会図書館デジタルコレクション

(写真)高知あたご劇場の開館騒動を伝える『映画年鑑 1956年』時事通信社、1956年。国立国会図書館デジタルコレクション

 

1959年の住宅地図

 

1968年の住宅地図

 

1980年の住宅地図

 

高知あたご劇場の創設者兼初代館主は水田兼美ですが、1960年代初頭から2000年代初頭まで長らく支配人を務めたのは岡本陽一です。『月刊土佐』には岡本支配人の写真も掲載されていました。

(写真)岡本陽一支配人。『月刊土佐』 1986年2月、第24号。

 

なお、高知あたご劇場の歴史については2023年(令和5年)3月に加筆したあたご劇場 - Wikipediaをご覧ください。

(写真)高知あたご劇場

(写真)高知あたご劇場

(写真)高知あたご劇場

(写真)高知あたご劇場

(写真)高知あたご劇場

(写真)高知あたご劇場

(写真)高知あたご劇場

(写真)高知あたご劇場

 

高知あたご劇場について調べたことは「高知市の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(高知県版)」にマッピングしています。

hekikaicinema.memo.wiki

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