(写真)青梅駅前。
2022年(令和4年)5月、東京都青梅市の映画館「シネマネコ」を訪れました。「青梅市の映画館」に続きます。
1. 青梅市を訪れる
1.1 映画看板のまち
久保板観(久保昇)は青梅市で活動した映画看板絵師。16歳から青梅市内の映画館の映画看板を手掛け、3000~4000枚の看板を描いたそうです。青梅市の映画館がなくなってからは商業看板の制作に移行しましたが、1994年(平成6年)には住江町商店街のまちおこしのために映画看板の制作を再開。板観は「最後の映画看板師」と呼ばれていましたが、2018年(平成30年)に死去しました。
設置から四半世紀が経過した映画看板は老朽化が進み、板観の死去後には大型看板の一部が撤去されたようです。小規模な看板は残されているほか、JR青梅駅の地下通路、昭和レトロ商品博物館の館内などでも多数の看板を観ることができます。
(写真)オリオンカメラ店住江町本店。赤木圭一郎主演『俺の血が騒ぐ』(日活、1961年)をアレンジ。
(写真)瀬音。オーソン・ウェルズ主演『第三の男』(1949年)。
(写真)ギャラリーはこ哉。『ある愛の詩』(1970年)。
(写真)青梅駅前交差点南側の駐車場。ゲイリー・クーパー主演『スプリングフィールド銃』(1952年)。木下惠介監督『喜びも悲しみも幾歳月』(松竹、1957年)など。
(写真)JR青梅駅の地下通路。高倉健主演『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)、ピエトロ・ジェルミ主演『鉄道員』(1956年)など。
2018年(平成30年)以後、住江町商店街は「ねこ」に焦点を当てたまちおこしを進めているようです。JR青梅駅の南西にはにゃにゃまがりという路地があり、昭和幻燈館にはねこをモチーフとする作品が展示されています。ねこと映画看板を絡めた屋外美術も多数あります。
(左)『未知猫との遭遇』。(右)『風邪の姉のニャウシカ』。
2. シネマネコ
映画看板のまちとして売り出しているのもかかわらず、1973年(昭和48年)から青梅市には映画館がない状態が続いていました。2021年(令和3年)6月4日、ミニシアター系作品を上映する1スクリーンの映画館「シネマネコ」が開館しました。
建物は登録有形文化財の旧都立繊維試験場であり、旧市街地から約1km離れていますが、周辺には散策者も多数見られました。東京都唯一の木造映画館であるほか、1935年(昭和10年)竣工という点も東京都最古だと思われます。
(写真)シネマネコの外観。
2018年(平成30年)には新潟県十日町市の十日町シネマパラダイス - Wikipediaが閉館していますが、シネマネコの座席はシネパラから譲渡されたキネット社製のもの。私はシネパラの閉館数か月後に跡地を訪れましたが、もう更地になっていましたのが残念でした。東京都まで来て初めて、魚沼最後の映画館の存在を感じられました。
(写真)ホールと座席。
(写真)ロビーの北側。奥はカフェ。
(写真)カウンター。
(写真)木造トラス。
併設されているカフェには映画観客以外も多くいたようです。周辺には他のレストランや雑貨店などもあり、歩いている方も多かった。地図上でシネマネコを見ていただけでは気づきませんでした。
(左)カフェ。(右)ナポリタン。
(写真)パンフレットやオリジナルグッズ。
(左)ロビーの南側。(右)カフェの看板。
(写真)シネマネコの図面。『新建築』2021年9月号。
青梅市にあった映画館について調べたことは「東京都の映画館 - 消えた映画館の記憶」に掲載しており、その所在地については「消えた映画館の記憶地図(東京都版)」にマッピングしています。